2016年7月24日日曜日

わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子(『見えない配達夫』より) ; 男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し皆発っていった

鎌倉 大巧寺 2016-07-19
*
わたしが一番きれいだったとき   茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっばで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
"
"わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
                   ね

『見えない配達夫』(1958年11月 飯塚書店刊)より


■作品の背景など
 「わたしが一番きれいだったとき」が書かれたのは、「根府川の海」よりさらに四年後、茨木三十一歳の日である。終戦間もない日の自身を追想して書かれた詩である。

《その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって・・・。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか飢死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったのかもしれない》(「はたちが敗戦」)

 この詩は国語の教科書に載ることとなる。広く知られるようになったのはそれ故であるが、人々の心に錘(おもり)を下ろしたのは、私的な想いを込めた詩が、同時代に生きた同世代の女性たちの共通の想いと無念をすくい取っていたからである。

 「菜ッパ服」を着、「眉をあげ」、「国をだきしめて」生きた青春期。化粧をすることも恋文をもらうこともなかった。軍需工場で真っ黒になって働き、空襲に逃げまどい、飢えにさいなまれた。そして、耐えることを支えた大義は、わずかの時間で崩れ去るものにすぎなかった。鏡の中に一瞬かいま見た輝きもいまや遠くへと過ぎ去っている - 。

 不幸な時代を生きた青春の、痛ましい詩である。けれども、こうも思う。負の記憶をたどることはこの詩人を鍛えたのだ、と。国とはなにか、大義とはなにか、生きるとはなにか・・・。内省を強いる深い問いを抱きつつ若者は戦後社会に踏み出していく。

 茨木の詩と散文には、たとえ〈戦争〉をモチーフにしたものではなくても、埋め込まれた潜在意識のごとく、問いへの解を求め続けた思念が流れている。戦争は一人の詩人を生み落としたのである。
(後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』)


「個人的な詩として書いたのに、思いもよらず同世代の女性たちから共感を寄せられ、よく代弁してもらったと言われるとき、似たような気持ちで当時を過した人達が沢山居たことを今になって思う。」 (「はたちが敗戦」『花神ブックス1 茨木のり子』

■「男たち」 「ルオー爺さん」などの解釈
 第3連では、「男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな限差だけを残し皆発っていった」が印象的である。この時代、女も、そして男も、その人生を奪われたのである。茨木は「何かにつけ男性対女性という敵対関係では捉えられず、女の問題は男の問題であり、男の問題は女の問題であるという、いわば表裏関係が私の頭の中には形づくられているようなのだ。/たとえば戦争責任は女には一切関係ないとは到底思えず、日本が今尚ダメ国ならばその半分の責任は女にあるというふうに。」(「はたちが敗戦」前出)と戦争について述べている。高橋順子はこの第3連を取り上げ、「戦時下の青春をこれほどカラッと、しかも喚起力に富む言葉でうたった詩句を他に知らない。男たちの「きれいな眼差」は、愛国心ゆえの死を覚悟した者のもつ晴朗の光たったのだろう。」(「現代詩の鑑賞101」「茨木のり子」の項、解説 平8新書社)と述べている。

 ・・・小海永二は、繰り返される「わたしが一番きれいだったとき」に、「ルフランの効果」「軽やかなリズム」を読み取り、「内容的には重く苦しい体験をうたいながら、少しもじめじめしたところがなく、観念的・思弁的な晦渋さも全然なく、むしろカラリとさわやかに、時に「からっぼ」「とんちんかん」「めっぽう」のような俗語的口語をまじえながら、その体験を歯切れよい口調で叙述している」(『現代詩の構図』昭52有精堂出版)とし、その特徴を「向日性」と捉えている。一方、渡辺善雄は「反復することによって、戦争のために光り輝く青春を奪われてしまった現在の「わたし」が、かつて美しかった過去の「わたし」と二重写しになって浮かび上がる仕組みになっている。そうして、戦争によって青春を奪われた女の無念の思いと、戦争の残酷で非情な一面が読者に伝わるようにできている」とリフレインの効果を捉えている。いずれにせよ、歯切れのよい口調と詩人の嘆きとは表裏一体のものと言えるだろう。

 終連となる第8連では、この「ルオー爺さん」をどう読み解くかが問題になる。この詩が書かれた頃、昭和28(1953)年、上野・国立博物館で「ルオー展」があった。茨木はおそらくそこでルオーの絵を眼にしたのであろう。小松郁子は「この作品は、あの厚く重ね塗りされたルオーの絵の豪華な静寂に深く感銘したことが、その種火になっているように思われる」(「茨木のり子」「新研究資料 現代日本文学」第7巻(詩)平12明治書院)と述べている。中沢けいは、この詩の印象について、「詩のユーモアに引かれた。それから、その調べの高さに引かれた」(「ひとつの贅沢な精神」「現代詩手帖」追悼号)と述べているが、リフレイン、俗語的口語の使用などにより、軽妙な諧謔性を与えられているといっていいだろう。

 なお、分銅惇作は「この詩の口ざわりのいい語りのリズムも、体験の暗さとうらはらの関係で計算された軽快さで、怒りと愛惜を抑えた批判精神の所産と見るべきであろう」とし、「まず戦争によって失われた青春と、戦後の荒廃した現実に生きる意味を、自分の内面の問題として問いつめ、組織化しなければならなかった」(「国語通信」昭47・5)と、この詩篇の本質を的確に指摘している。
山本康次『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(茨木のり子)


■「手足ばかりが栗色」
 手足ばかりが栗色 - 中野重治「あかるい娘ら」に、「娘達」の「手足の色は/白くあるひはあはあはしい栗色をしてゐる」とある。
西原大輔『日本の名詩選3 昭和戦後編』

■作品全般について
 「同級生の中には進駐軍を恐れ、娘の操を守るべく、はやばやと丸坊主になってしまった人もいて、しばらくの間頭巾をかぶって登校していた。/その頃『ああ、私はいま、はたちなのね』と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって・・・。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか飢死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから『わたしが一番きれいだったとき』という詩を書いたのも、その時の残念さが残ったのかもしれない」(「はたちが敗戦」)。

 茨木は悪びれることなく、自分が若く美しかったことを、まだ若さが残っている時代に堂々と言挙げした。

 「わたしが一番きれいだったとき」という言葉を各連の最初に置き、繰り返すことで歌謡性が付着し、愛唱される詩になった。もっともまばゆく哀切なのは第三連である。男たちの「きれいな眼差」には、死を覚悟した者のもつ晴朗さが宿っていたのだ。最終連では、報われずに失われた美しさを、生への充実をもって補うことに換えようとする。爽やかな一陣の風のように。『見えない配達夫』所収。
『永遠の詩② 茨木のり子』解説高橋順子

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