皇居東御苑 2016-07-28
*一二月二日、ナポレオン軍はマドリード郊外に達し、城壁上の大砲の射程距離内にテントを設けさせた。皇帝自身は北郊のチャマルチィン・デ・ラ・ローザのインファンタード公爵邸に落着いた。・・・一二月三日、フランス車はマドリード包囲をゆっくりと開始し、町から逃げ出す人々のために門を一つだけ明け放しておいた。・・・やがて城内から停戦を求める使節が派遣された。停戦は受け入れられない、無条件降伏である。
このときマドリード市内では「ナポ泥棒の最後」という芝居が上演されていた。
城内からの降伏使節は、かのモルラ将軍と、(ゴヤの友人でもある)ベルナルド・イリアルテである。モルラはスペイン人民の名誉の名において話したい、首都の破壊はやめてもらいたい、と語った。当然ナポレオンは怒る。
- 貴君ほどにも名誉を語るにふさわしからぬ男は他にいない。バイヨンヌにおいてたてた誓いを破る者どもの名誉が名誉か。もし君が民衆を静めることが出来ぬとあれば、それは君が煽動しているからだ。市中で怖るべき虐殺が行われていることを余が知らぬとでも思っているのか。それにバイレーンでの議定を破り、砂漠のベドウィンと同じことをやったのは誰だ。一七九三年に(南仏で)町中の女をあつめて軍隊に分け与えたのはどこのどいつだ。直ちにここを去って、主任司祭、修道院長、法官、主要な財産所有者を集めよ、明朝六時までだ。去れ!
翌朝午前四時、フランス軍はマドリードに入る。
ナポレオンの言う明朝なるものは、スペインにとって真の革命であった。占領者の革命である。
一、修道院の三分の二はこれを閉鎖する。付属財産は国有とする。
一、異端審問所はこれを廃止する。
一、封建的諸特権、領主の裁判権、各地方間の税関はいずれも廃止。
一、カスティーリア評議会(政府)は廃止、評議員は逮捕する。
一、異端審問所の最高審問官一五名のうち八名は逮捕する。
一、異端審問所の所蔵金二五〇万レアール(約六五万ドル)は没収する。
一、サン・カルロス銀行に所在する中央評議会の財産は没収する。
一、教会、修道院の財産を管理する特別委員会が創設される。
ナポレオンは次から次へと布告を口述し、次々と署名をした。「絶対君主制に代る、穏健にして立憲制の君主制とする。この憲法が諸君のものとなるかどうかは諸君の双肩にかかっている。」
軍隊による革命輸出の典型である。
そうして例によって「スペイン人諸君!」ではじまる声明が発表されるが、これまた「スペイン人諸君」にとっては我慢のならぬ無礼なものであった。彼ら自身、彼らの無能な政治家どもや、まともに戦争一つ出来ぬ将軍たちに対してやり切れぬ思いを抱いていたのである。その赤肌に塩を塗り込むようなことをナポレオンは言った。
征服・占領軍による民主化の典型である。
そうして大多数のスペイン人としては、これに従うより他はない。その動機の如何は、しかし、重大な問題である。ある者にとっては長いものには巻かれろであるが、別の人にとっては、そうすることがこの国を愛する所以であり、またある者にとっては、ナポレオンの政治こそが祖国近代化への道であるという、積極的な政治的確信にもとづいていた。
ナポレオンに制覇された諸国の人民にとっての悲劇は、征服者ナポレオンの政治こそが、革命的、民主的、進歩的であり、それなくしては政治も経済も文化も前進しえぬことは明瞭なことであるのに、しかもなお”独立”を求めるとなれば、それはどうしても絶対王制、貴族、教会の支配という旧制度への”復帰”という、超反動的なことにならざるをえないという辛さにあった。
独立はイコール復旧であるという、前後に引き裂かれるような、背理的矛盾が彼らの身に課されていたのである。社会・国家の改革とナショナリズムとが背中あわせの恰好になった。
ナポレオンはその”革命”を推進するにあたって、まずマドリードの二万八六〇〇の家長に教会へ行って聖体秘蹟の前で新体制に忠誠を誓い、署名をするようにと要求をした。奇妙なことをしたものである。異端審問所を廃止し、修道院の三分の二を閉鎖した人が神への政治的宣誓を求める。一二月二三日にはサン・フランシスコ・エル・グランデの大聖堂に高官顕職を集め、皇帝への忠誠を替わせた。旧都のバリァドリードでも同じ勤行が行われた。
市民が蛇蝎のように嫌っている人物に対して、神の前で忠誠を誓うなどということは、これはもうナンセンスであろう。ナポレオンはすでに心理戦争に敗れている。
けれども、ここで留意しておかなければならないことは、この宣誓が占領下であるとはいえ、力ずくでも、テロ含みでもなく、要するに強制されたものではなかったということである。多数の人々が、”これでやっと・・・”彼らの愛する祖国スペインが中世的迷蒙と混乱をまぬがれ出て、近代化への途につくことが出来るだろう、と思い真面目に宣誓をしたことも事実なのである。
では、しかし、これで市民生活が安定したかと言えば、そうではまったくなかったことに全的な悲劇の端緒があった。
英国が各地方政府に対して軍資金を貸し、その代償に商船を接収し、港の倉庫をカラにしたことは先に書いたことであったが、それでなくてもミュラ将軍の三つの軍団、ジョン・ムーア麾下の英軍、それからナポレオン直轄の軍などが次々と入って来たのでは、ただでさえ食糧の不如意な、下層階級は平生でさえ飢えとすれすれのところにいたのであるから、スペインの食糧は底をついてしまった。ナポレオンがマドリードに入って来たときには、パン屋にはあと八日分の粉しかなかったといわれる。
・・・この英国のムーア軍・・・、この軍隊はサンタンデルに上陸し、ナポレオンのマドリード入りの頃には、マドリードの北西二〇〇キロのサラマンカ付近に駐屯していた。そうしてこの軍の退路を絶つために港町のサンタンデルを襲ったフランス軍は、そこで倉庫に一万丁の銃と弾薬、それに多数の大砲を頼み込んだ車輌を発見し戦利品としたが、ここにも食糧はなかった。
飢えは英仏軍とほとんど一緒にスペインへ侵入して来たのである。
ムーアの率いる英軍も、勝ち誇るフランス軍の前には敵しえなかった。サラマンカから北西の道を退却する間に、三分の一は仆れ、捕虜になってしまった。ムーアは戦死してしまう。残りはラ・コルーニァの港から二〇〇隻の船で本国へ逃げ帰らぬばならなかった。第二次大戦時のダンケルクの初版である。
・・・敗走する英軍・・・、この軍隊の掠奪と残虐行為の甚しさ・・・。この”独立戦争”において果した英軍の役割は、・・・とかく美化され理想化されがちなのであるが、スペインの人民との関係は、実はフランス軍よりも悪かった・・・。英国にとってこの戦争は”半島戦争”であり、スペイン人は”半島人”にすぎない。退却の途次の町という町、村という村を英軍は略奪をした。「この退却のありようについて公表されている報告は暗く恐ろしいものであったが、実状はもっと手ひどいものであった」と証言しているのはロンドンデリー侯爵である。
このあとに、第二次半島戦争のためにポルトガルから進撃して来るウェリントン将軍の軍隊もまた掠奪暴行の限りをつくし、ウェリントン自身「手のつけようがない」と嘆いているのである。英国人の半島人(スペイン人)に対する軽蔑は根深かった。
退却する英軍の徹底的な略奪と破壊のおかげで、追う側のフランス軍は食糧不足におちいり、彼らを海に追いおとすことは出来なかった。・・・。
そうしてナポレオンなきフランス軍もまたしたい放題のことをやらかした。ラ・マンチャの平原での西仏会戦では、両軍ともほぼ同数であったのに、平原や丘陵での戦いを得意とするフランス軍に完膚なきまでに打ち破られ、一万人が捕虜になってしまった。クイレスの町が略奪され、フランス兵たちはバイレーンでの恥を晴らせ、という掛声のもとに六九人の地方貴族や聖職者を殺し、・・・。バレンシアで殺されたフランス人たちのための復讐であった。ゴヤの刻んだフランス兵たちの暴行の大部分はこの時の状況を伝え聞いた上でのものであった。・・・。
一八〇九年一月末にホセ一世(ジョセフ・ボナパルト)が二度目のマドリード入りをしたときの、マドリード市民の反応は複雑なものであった。多数の市民が詰めかけて来てその行進を見物した。嫌悪と憎悪の表現である、例の口笛を吹く者もいなかった。・・・
四月にウェリントンの軍がポルトガルに入り、そこから進撃して来てトレド県のタラベーラで英仏の大会戦が行われたとき、マドリードには英軍が大勝をしたという流言が流れた。市の城門近くに一万人もの市民が集って彼らの解放者(英軍)を待ちうけた。
ところがやって来たのは、ホセ一世・フランス車であった。この会戦は、双方ともに勝ったと称したが、結果は曖味なものであった。英軍は再びポルトガルへ引いて行った。・・・
ナポレオンはこの年、ローマ法王領を併合し、メッテルニッヒをオーストリアの宰相とし、ウィーン会議ではホセ一世をスペイン王として国際的に認めさせることに成功していた。ナポレオンの栄光の、もう一つの頂点である。
ホセ一世はこの画期的な潮流の転回を祝してマドリードで一大花火大会を開き、仮装舞踏会を催した。
その程度には首都の治安は恢復していたのである。・・・王は布告を発して彼自身の任命によるものではない一切の役職は無効であるとし、新たに忠誠の誓いを求めた。先の宣誓はナポレオン皇帝に対してのものであった。この王は毎年一度ずつ宣誓を求めているようである。ゴヤのそれは一八一一年三月のものが国立文書館にのこっている。
(ホセ一世は)個人としてもかなりに勇気のある人でもあったようで、かつて猛烈な憎悪をもって荒れ狂った市民をもつマドリード市中を、彼はろくに護衛もつけないで歩きまわり、プラド大通りでは人々に立ちまじって談笑をしたりもしたものであった。それに劇場へも度々臨席して観劇をした。それはスペイン王室史上、前代未聞のことであった。民衆もまた会釈をかえし、雰囲気は和気藹々としてよかったのである。それは不思議なほどのものであった。
英軍がポルトガルへ引いて行ってからは、ホセ一世はフランス軍とともにアンダルシーアへ南下し、バイレーンでのかつての恥をすすぎ、セピーリァでは花火大会での大歓迎をうけた。セピーリァにいたホべリァーノスの中央評議会は、港町のカディスヘ逃げ出した。ここが抵抗の最後のとりでとなったのである。
ホセ一世とナポレオンにとっての決定的な失敗は、このカディス征討を怠ったことであった。
カディスは、中国革命にとっての広東市に相当していた。中国でのあらゆる近代の革命は広東市からの北伐によって成ったものであった。
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