2016年8月8日月曜日

應永34(1427)年 フス派のドイツ遠征始まる(1427~1433) 第4次異端撲滅十字軍破綻 播磨・美作・備前守護赤松義則の相続に将軍義持が介入し紛争(追討軍を差し向けられた赤松満祐が降伏、赦免)

根津美術館 2016-08-04
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應永34(1427)年
この年
・ブルターニュ侯家とランカスター家と同盟
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・リッシュモン伯失脚。ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ、ブールジュ政権を掌握
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・フィレンツェ、ジョヴァンニ・デ・メディチ、申告税制を実施、民衆の信頼を得る。
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・フィレンツェ、レオナルド・ブルーニ(57)、フィレンツェ書記官長に就任。人文主義・古典学者、翻訳家。著書「フィレンツエ人民 の歴史」(生前完成せず、文化的暗黒時代「中世」という時代の基礎概念を定着 させた)
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・ジプシー(ローム、ロマ)、初めてパリに出現。
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・イングランド、黒死病流行。
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・スコットランド王ジェイムズ1世、ハイランド氏族族長と話合いをインヴァネス召集。
騙し討ちで彼らを逮捕、数人処刑。
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2月5日
・カルマニョーラ、戦闘経過を討議するためにヴェネツィアに召還
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3月24日
・ヴェネツィア、カルマニョーラの妻、豪奢な館を受ける
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3月27日
・信濃の善光寺が焼ける
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4月17日
・ヴェネツィア、マラテスタ・ディ・リミニとの和平
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4月17
・プラハ、コリブートが密かにローマ教会とフス派の和平を企てていることが露見、この日プラハの王宮で捕らわれてヴァルドシュテイン城に送られ、強制帰国。後、1435年にリトワニアで戦死。
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5月
・ヴェネツィア海軍、ポー河でヴィスコンティ軍に勝利
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・フス派のドイツ遠征始まる(1427~1433)。
アンドレアス・プロコプ率いるターボル軍が北部国境を突破、チッタウ、ラウジッツを通過。ヒルシェフェルド、オストリック、ベルンシュタットを経てシュレジェンへ。ラウペン、ゴールドベルクなどを攻撃、ヤウエルとボルケンハインを経て帰国。
その後第4次十字軍を迎撃、撃破。続いて遠征軍を発進。メーレンを通過、ハンガリー王国に侵攻しウンガリシュ・ブロッドを占領。ドナウ河畔を攻撃、プレスブルクの一部を焼き、「火と剣で清めながら」ティルナウを経て帰国。

フス派軍はスロバキア、ハンガリー、オーストリア、ドイツ、スレスコにまで進軍、ドイツ騎士団に反抗するポーランド援助作戦のときは、バルト海沿岸にまで達する。
彼らは自分たちの思想を様々な国の言葉で書いた宣言文を、中部・西部ヨーロッパに配布し、広める。
フス主義の思想はスロバキア、ドイツ、フランス、その他の国での民衆の運動に直接影響を与える。

第4次異端撲滅十字軍、破綻。
フス派指導者プロコプ、ドイツ諸侯勢力を撃破すれば、十字軍を事実上無力化し、暴力を停止できると考える。全フス派はこれに合意して大軍の出動を準備する。
フランクフルト帝国議会は第4回十字軍の為にドイツ騎士修道会総長に参加要請するが総長は兵を送らず、ドイツ長官エーベルハルト・フォン・ザオイシャイムが兵130を率いプファルツ公オットーの許に参陣。
第4次十字軍は四方向から総計騎兵8万・歩兵8万以上がベーメン侵攻の予定であったが、実際の侵攻は二方向のみで、主力軍はトリール大司教オットーとブランデンブルク辺境伯フリードリヒが率い西部から Stribro へ向かい、支隊は西北部 kalan から Zlutice へ向かう。
十字軍主力は Stribro を攻撃するが、プロコプ率いるフス派主力軍が来援、損害10万を被り惨敗。
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6月
・幕府、尾張守護斯波義淳へ大徳寺如意庵領尾張松枝荘破田郷への守護使入部を禁じる命令。実際は、守護代織田常松が直接幕府命令を受け小守護代織田常竹へ下達する。
この頃、政務上、幕府や斯波家守護代は守護義淳を無視するようになっている。
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6月24日
・ヴェネツィア、元老院、戦線を拡大して、アッダ川を渡ることを勧告
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7月11日
・カルマル同盟(デンマーク・スウェーデン・ノルウェー)王エーリク13世、コペンハーゲン沖でハンザ同盟軍を破る。
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8月4日
・タホバの戦い。フス派軍、イギリス人枢機卿指揮の十字軍大部隊を破る。
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9月5日
・仏、1424年ヴィトリーから脱出した隊長ラ・イール、オルレアンの私生児(のちデュノア伯)の援護を受けオルレアン北方モンタルジス解放。
イギリス軍は、ブルターニュ北岸モン・サン・ミシェルを攻撃。
ウォーリックは、島に近いポントルソンの町を占領。
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9月15日
・第4次異端撲滅十字軍大敗の戦場逃げ延びた英・枢機卿ヘンリー・オブ・ウィンチェスター、フランクフルト市で会議。
教皇マルティヌス5世、全キリスト教国に対し「異端撲滅のための十分の一税」の徴収と自らの金庫から全収入の5分の1を差し出す。
これらは「対フス派」軍備に充当され次の十字軍の準備金となる。
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9月21日
・播磨・美作・備前守護赤松義則(性松入道、70)、没。
播磨は幕府の直轄領とされ、足利義持の寵愛を受けた赤松持貞(越後守)が事実上の支配者となる。
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10月
・仏、マイエンヌ降伏。
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10月6日
・ヴェネツィア、 アンドーレア・モロシーニ、戦闘指導を助言するためカルマニョーラのもとに派遣
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10月11日
・マクロディオの戦い
ヴェネツィア傭兵隊長カルマニョーラ(37)、ミラノ軍を破る。ミラノ兵1万が捕虜、即日釈放。
17日、ヴェネツィア政府、カルマニョーラに大運河沿いの邸宅を与える。
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10月26日
・父義則の守護職を相続すると考えていた赤松満祐(左京大夫)は播磨を近習赤松持貞に与えた措置に怒り、京の宿所を焼いて播磨に下国。
翌27日朝、醍醐寺座主・三宝院住持満済は清和院に赴き、この事態を足利義持に報告。
義持は、満祐は備前・美作2国守護で我慢すべきと怒り、満祐追討を目論む。
このため赤松満祐は両国守護も失い、備前は赤松美作守、美作は赤松伊豆守に宛行われる
(実質的に3国は赤松持貞のものとなる)。
満祐追討は細川持元(右馬助)・山名時煕(宗全の父)・一色義貫に命じられる。

「廿六日。晴。今暁赤松左京大夫下国す。宿所自焼す。父・性松入道去月廿一日死去す。東山竜徳寺において中陰その沙汰致す。今日丗五日に相当するか。・・・播磨国の事、御料国となし、しばらく赤松越後守に仰せ付けらるべし。さるべくまいらすと云々。・・・寅刻初ばかりに、細河右馬助方より、使者・河西大井入道をもって申す様、只今赤松左京大夫、下国仕り候。よって路次を塞ぎ候べき由、仰せ出され候間、とりあえず只今馳せ下り候。御意を得るため、申し入るるなりと云々。この使者の時、彼の下国の事も存知せしめおわんぬ。」(「満済准后日記」26日条)。「廿七日。晴。今朝辰終、清和院に参る。この事申し入るるところに。短慮の至りの由、仰せられおわんぬ。今、二ヶ国備前・美作これ残されおわんぬ。かの二ヶ国をもって奉公致し、堪忍すべきところ、短慮、正体なきの由、仰せなり。よって備前国をば赤松美作守、美作をば同伊豆守に宛行わらるるべき由、御物語これ在り。もってのほかの楚忽の御成敗か。山名・一色等、退治をなし、これに向かわるるべき由、同じく仰せられき。播磨国拝領、珍重の由、教源法橋をもって赤松越後守方へこれを賀し遣わしおわんぬ。」(同27日条)。
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11月3日
・赤松満祐、備前・美作・播磨3国中播磨は残して欲しいと管領畠山満家に書状。また、義持が満祐追討を命じたことは早まった行為と非難。
4日、山名時煕は満祐追討のため但馬で軍勢を整え、朝来郡(あさご、兵庫県)からの攻撃態勢をとる。一色義貫は前夜に急遽取止め。
6日、満祐追討参加の摂津・讃岐守護細川持元からの使者、満済を訪ね、阿波守護細川満久(讃岐守)に義持から「御旗」を寄こす提案し、満済に御旗下賜を義持に願い出て貰いたい、というもの(「正規軍」・「賊軍」を明確化)。
満祐軍は強く、一方の幕府軍は脆弱で且つ足並みも不揃いの様相(諸大名は満祐に同情的)。

「三日。晴。・・・管領、内々に子細を申すこと有るによるなり。今日、御所に参る。御対面。管領申し入るる旨、遮りて尋ね仰せらるる間、委細申し入れおわんぬ。赤松左京大夫、書状をもって管領へ進退の事歎き申す子細これ在り。よって無為の儀をもって、三ヶ国中一ヶ国をば残し置かれ、御免有るべきの条、かたがたもって宜旨すべきなり。次いで、御陣立の事、凌爾の至りなり。楚忽の儀、かえすがえす勿体なきと云々。その外、今一、二ヶ条これ在り。御返事の趣、左京大夫の事は只今となり御免有るべきの条、大いに御本意にあらざる間、閣(さしお)かれがたきと云々。御陣立の事は、誠に楚忽の儀に有るべからずと云々。この由、すなわち管領へ申し遣しおわんぬ。力無しと云々。」(「満済准后日記」3日条)。

「四日。晴。今日、山名右衛門佐入道常煕、赤松退治のため重ねて発向す。まず分国但馬に罷り下る。勢を相随えて浅五群より責め入るべしと云々。一色左京大夫、同じく罷り立つべきところ、去夜、にわかにこれを止めらると云々。」(「満済准后日記」4日条)。

「六日。晴。・・・細河典厩の陣より、使者飯尾備中入道上洛す。今夜来るべき由、内々に申し入るる間、罷り留めおわんぬ。飯尾備中入道、夜陰に及びて来たり申す。典厩よりの書状これ在り。御旗申し出すべき由、細河讃岐守方へ申し入るるなり。内々に其意を得べし。次に、播州の事、もってのほか猛勢。すでに大儀に及び候。方々より同時に責めらるるべき条、宜しかるべし。当方もってのほか無勢。四国はいまだ一人も上洛せざる間、彼らを相待ちて、海上・陸地より同時に責め入るべき支度なり。しかるを合戦遅々たる由、連日御切諫。不便の次第なり。便宜の時をもって申し入るるべしと云々。」(「満済准后日記」6日条)。

因島村上水軍、備後守護山名時煕の催促を受けて討伐に参加(但し遅参)。その功を義持に賞される。
「播州の事について、早々に馳せ参じ候。神妙に候。向後においていよいよ忠節をぬきんずるべきなり。 
十二月十一日 (花押:義持) 村上備中入道(吉資)殿」(「因島村上文書」)。
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11月10日
・足利義持、赤松持貞(赤松満祐の政敵)の悪事に関する直訴を受け入れ、持貞に自害を命じる。
直訴は義持の信頼あつい義満側室の高橋殿のものとされ、持貞が義持側室と密通していたという内容。
12日、赤松持貞の使者が満済を訪ね、義持への執成しを依頼。満済は充分な調査や弁明機会を与えるよう提案するが、義持は受付けず。
13日、満済は自害でなく追放処分をと助命歎願するがこれも退けられる。結局、赤松持貞は従者10人程と共に切腹。

「十一日。晴。・・・赤松越後守方より申す子細これ在り。昨日、御所様、畠山修理大夫入道亭へ入御す。還御の時、路次において、越後守身上の悪事、庭中すと云々。よって生涯に及ぶ事なり。」(「満済准后日記」11日条)。

「十二日。晴。早旦出京す。赤松越後守方より波多野をもって申し入るる旨、「もっとも参り申すべきところ、今時分かたがた憚り存する間、狼藉ながら使者をもって申し入るるなり。去る十日、匠作禅門亭より還御の時、御所門前において遁世者一人書状を持参す。高橋殿よりの御文に候とてこれをまいらす間。畠山七郎これを取り、上覧に備うと云々。その後、この遁世者、行方知らずと云々。所詮、この状の中に越後守行儀三ヶ条、共に女事をもってすと云々。訴え申し入るる間、昨日、賀阿弥をもって条々尋ね下さるるの間、告文(ごうもん)をもって申し入るるべきの由、申し入れ候おわんぬ。その後に又、仰せ下さるる様、ことごとく分明をもってたしかな事どもなり。今更の告文なかなか無益の由、仰せ下さる。すでに宿所を罷り出づべき由、仰せらるる間、生涯はこの事なり。ひらに扶け置く様に申し沙汰すべしと云々。只今もすでに切腹せらるるべきの由風聞す。片時も早々に参り申すべし」と云々。」(「満済准后日記」12日条)。

匠作禅門(畠山修理大夫入道):
能登守護畠山満則、管領畠山満家の弟、能登守護畠山家(匠作家)の祖、赤松持貞とは対抗関係にある。

「十三日。晴。今朝、重ねて又、御所に参る。越後守の事、種々にこれを歎じ申し入る。「所詮、今度の三ヶ条、ことごとくもって実犯たるといえども、まず田舎へ追い下され、一命をば扶け置かるるべき」由、返す返す申し入れおわんぬ。仰せの趣、「すでに生涯御対面有るべからざる由、神をもって御誓約たるなり。御身にいかにして御誓文の御罰をばあて申すべきをや。この上は速やかに進退さわさわと沙汰すべき」由、仰せられおわんぬ。予、申していわく、「この仰せにおいては、愚身更に申し遣わしがたく候。昨日より切腹たるべき由、しきりに申し入るるといえども、ひらにと申して今に抑え留め仕りおわんぬ。返す返す不便たる」由、申し入れて退出す。・・・いくばくせずして切腹しおわんぬ。内者波多野・稲田・首藤二人・青津・河島以下十人ばかりか、同時に切腹すと云々。稲田は最結句に一身自害す。自身の家に火を懸くと云々。事様、諸人褒美すと云々。京中猥雑、申す限りなし。管領以下の諸大名勢、ひた甲(直甲)にて御所辺へ馳せ集む。この軍勢共が罷り出づるに、誦経鐘とて、六角堂・因幡堂・祇陀林・誓願寺等の方々金(鐘)をつきたるをとな(唱)い、一向、早鐘なり。」(「満済准后日記」13日条)。
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11月14日
・赤松満祐追討の為、要請された「御旗」、将軍義持から下賜。
まず奉行人飯尾加賀守(為行)が受け取り、翌日、御旗奉行(若狭守護)一色義貫亭に持ち込む。それまでは満済のもと加持祈祷。

「今日、播州凶徒御退治のため、御幡、これを下さる。御使飯尾加賀守、御所より一色亭へ持ち込むと云々。細川典厩方より、明日請け取るべしと云々。御幡加持の事。」(「満済准后日記」14日条)。

この年、若狭太良荘に兵粮米(臨時役)25石(この年の太良荘納入年貢分の43%に相当)が賦課される。また、太良荘百姓は野伏人夫として近江まで出陣させられ、その費用は34貫文に達し、下行分(必要経費として荘園領主が年貢から控除する分)は一切なし。
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11月25日
・赤松満祐、降伏。満祐は白旗を挙げ、使者2人に起請文を持たせて上洛させる。
管領畠山満家の執成しもあり、満祐は赦免。
赤松家相続を巡る争乱は、相続を認められた持貞が切腹、幕府に反抗した満祐が赦免され相続、で決着。
1441年(14年後)満祐は将軍義教を暗殺(嘉吉の変)。

「今日、赤松左京大夫歎じ申す条々、起請文をもって両使参洛す。浦上三郎左衛門上京すと云々。管領種々に執り申し入るる間、御免たりと云々。よって細川右馬助、赤松を相伴い、罷り上るべき由、仰せ出さると云々。珍重々々。」(「満済准后日記」25日条)。
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12月
・ロンバルディーア各地、ヴェネツィアに降伏
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・ヴェネツィア、疫病流行
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