2016年8月23日火曜日

應永35/正長元(1428)年正月17日 4代将軍義持(43)が危篤に。義持は後継を指名せず、管領以下の宿老が鳩首協議。結果、護持僧満済が提案し義持が了解したのは、義持の兄弟4人の中から籤引きで決定する方法であった。

京都 宇治川 2016-08-16
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應永35/正長元(1428)年正月17日

■宿老寄合
護持僧(醍醐寺座主三宝院住持)満済を座長として重臣たちの会議(”宿老寄合”)が開かれる。

出席者;
畠山満家(管領、河内・紀伊・越中守護)
斯波義淳(越前・尾張・遠江守護)
細川持元(摂津・丹波・讃岐・土佐守護)
山名時熙(但馬・備後・安芸守護)
畠山満則(近習、能登守護)

三つの議題;
①御遺跡(ごいじやく)相続御仁体(じんてい)の事、誰人(たれびと)と雖も定め置かるれば、各(おのおの)安堵の思(おもい)を成すべきの事(義持の後継者の人選)
② 御療治方の事(義持の治療法)
③ 御祈方の事(平癒祈願)

宿老たちは満済に対し、

所詮、今の御様、大略その御憑(おんたの)みなしと云々。(今の御病状では回復の見込みがない)御相続御仁体の事、簡要たるべしと云々。(後継者を決めていただくことが、なにより肝心である)

とこもごも申し述べた。これを受けて満済は、

何様、便宜を伺ひ、申し入るべし。(義持様の御様子を見計らって、機会があれば申し上げましょう)

と、義持への上申を請け合った(以上『満済准后日記』)。

重臣中の重臣、宰相格の管領畠山満家すらも、直接義持には面謁できず、もっぱら護持僧満済に上申を依頼している。病床に侍ることのできる人物は、典医のほかは少数の近習と護持僧に限られていた。

満済が上申を請合ったので、ひとまず宿老たちは、壇所から各屋敷に戻ったが、ほどなく管領満家が壇所に戻ってきて満済に申し入れた。

ただ今、等持院・等持寺長老に参会の処、御相続の事、両長老遮つてあひ尋ねらるゝの間、此門跡へ面々列参して申し入れ候ひき。爾りと雖も、ただ今御参り候ひて、もし御機嫌宜かるべく候はば、申し入る由を具(つぶ)さに申し入れらるべき旨、申し了んぬ。定めて上聞(じようぶん)に達せらるべき歟。何篇(いずれへん)と雖も仰せ出さるゝ旨、御左右を申すべしと云々。(『満済准后日記』)

幕府からの帰途、満家は等持院・等持寺の両長老に出会い、「満済どのに上申を頼み込んだ」と伝えたところ、両僧は「我らもこれからお伺いする。上様の御機嫌が好ければ、御返答もあろう。どのようなお答えでも、管領殿に報告する」と請合ったので、その由を満済に伝えに来た。満済ほこれを了承した。
両長老は、近習を通じて義持に継嗣問題を質し、その結果が管領に伝えられた。
しばらくして、管領畠山満家と山名時熙が壇所に来て、満済と対面。
両宿著の報告は次のとおり。

ただ今一ヶ条の御相続の御仁体の事、申し入るゝ処に、上(かみ)としては定めらるべからざるなり。管領以下面々寄合ひ、あひ計(はか)るべしと云々。

重臣たちはここで初めて義持自身の継嗣に関する考え方、つまり義持自らは決めない、あくまで臣下たちで決定せよという。

後継指名を拒否された満家と時煕は、

所詮、この御返事の上は、重ねて申し入れ難しと雖も、天下の重事これに過ぐべからざるなり。枉(まげ)て重ねて申し入れるべき由、

と、満済を通じて、なんとしても後継を指名してもらいたいという。

宿老達が、義持による指名を切望しているので、満済はもう一度その要請を義持に取り次ぐことを承諾した。満済が、義持の寝所を訪れたとき、近習・奉公衆(近衛軍の隊長たち)らが義持に招かれて、枕頭に侍って「御酒を下され」(別れのさかずき)ているところであった。近習筆頭の細川讃岐守は満済の入室に気付いて、そっと義持に、

この門跡様、ちと申し入れらるべき事候の由、(折入って満済様が御相談なされたき御様子)

を耳打ちした。義持は人払いを命じ、細川讃岐守等以下の近習はすべて別室へ退いて、枕頭には、満済だけが残ることになった。

■義持と満済のやりとり
〔満済〕
管領以下面々、一同に申し入れらるゝ御相続御仁体の事、以前等持院・等持寺を以て申し入るゝの処、分明(ぶんみよう)に仰せらるゝ旨なきの間、各(おのおの)計会(けいかい)ただこの一事に候。早々仰せ出さるべき由と云々。
(管領以下の諸大名たちが一致して要請しております後継嗣の人選の事は、さきほど等持院・等持寺の両長老が御尋ね致しましたところが、然とは御指名なさいませんでしたので、大名たちは大変困惑申しております。どうか速やかに御指名頂ますようにとのことでございます)

〔義持〕
蹤(たと)ひ御実子御座ありと雖も、仰せ定めらるべからざる御心中なり。況(いわんや)やその儀なし。ただ兎も角も面々をあひ計らひ、然るべきの様、定め置くべし。
(たとえ儂に実子があったとしても、後嗣は指名せぬ覚悟なのじゃ。まして実子がいないにおいてはだ。ともかくも、その方どもがよく協議して、然るべき人物を決めるがよかろう)

このように、義持は、「儂は決めぬ。その方どもで決めよ」の一点張りである。

■万里小路時房『建内記』18日条
畠山左衛門督(かみ)入道々端(道家)(管領なり)已下(いか)諸大名等相談し、昨朝(17日)三宝院僧正(満済)を以て、継嗣御人躰を伺ふの処、その器なきに依って仰せ置かるゝに及ばず。且は縦(たと)ひ仰せ置かるゝと雖も、面々用ゐ申さずんば正躰(しようたい)あるべからざるの由、仰せあり。

ここれは後継指名しない理由を
①候補者(義持の弟たち)はいずれもその器でない。
②義持が指名しても、大名どもがもり立ててくれねば政治は混乱する(だから指名しない)。
としている。

時房の17日の記録は、允能の診断(馬蹄)、久阿弥の疽との診断、「已に腐入」など、満済が記していない義持の病状を具体的に書いている。時房は廷臣として、満済にはない独自の情報網を持っていたはずで、17日に幕府を見舞った際、将軍家司の海住山清房や高倉永藤らから、義持の遺言について種々情報を得た可能性がある。
また時房と義持の関係については、18日の日記に、

予(時房)、雲客の時より彼(か)の家司に加はり、納言の今に至るまで、恩化浅からず。(『建内記』)

と記しているように、かつて義持の家司であった期間があり、義持の”最期の言葉”について、荒唐無稽な担造などがあったとは考えられない。したがって、『建内記』のいう後継指名拒否理由①②は、あながち根拠のない情報ではないと思われる。

■「面々用ゐ申さずんは正躰あるべからず」とは?
(室町殿の地位は、重臣(有力大名)の強力な支持なしに保つのは困難であるとの認識)

応永15年(1408)5月に義満が急没した際の後継問題の場合:
晩年の義満は次男義嗣を偏愛しており、義持は父との疎隔が伝えられ、伝奏日野重光邸に駆け入って、父への救解を乞うほどであったため、義嗣があとを継ぐのではないかとの観測が多かった。
しかし、宿老中の最長老・斯波義将(よしまさ)は、義満存命中は唯々諾々と盲従するかに見せていたが、義満没後は、他の有力大名らと語らって義持嗣立に動き出した。義持はいったん北山第に入って、後継室町殿としての立場を天下に明示したのち、三条坊門の新幕府に移徒して、父とは異なった新しい政策へ踏み出した。「面々不用申者、不可有正躰」は、宿老あっての室町殿、斯波義将あっての義持嗣立であったとの彼自身の認識を述懐したもの。

義持の後継指名拒否は、この時代の武家社会における家督決定の論理(正統性)からも説明できるが、義持の個人的な状況がベースにあることは否定できない。
①義持には、死去した嫡子義量の他に実子がなく、後継候補は全て僧籍にある兄弟であり、その中から指名するには気が進まなかったと想像できる。
②さらに、義持自身、こんなに早く死期が訪れるとは思いもしておらず、心の準備がなかっただろう。義持は、寺院の高僧や門跡である兄弟たちを、自らの後継者であるとは思っておらず、そのような目で見てはいなかったはずだ。
③自らの死期を悟ってからは、もっぱら観念をこらし、死後の”工夫”を試みていた義持に、後継指名を押付ける諸大名らの策は義持の身になって考えると気の毒な話ではある。
④一見投げやりとも見える義持の遺言も、このような彼の精神状態を推量して考えると、案外自然な、人間的な感情を表出したものかもしれない。

■抽籤の提案、義持の了解
義持の再度の指名拒絶にあって、・・・
〔満済〕
仰せの通りをば、何様申し聞かすべく候。さりながら、何度もこの面々は歎き申し入るべき心中に候。幸ひに御連枝後座候へば、その内、御器用に就て仰せ出さるべく候。それ又実(げ)に実に時宜に叶ふべからず候はば、御兄弟四人の御名字を、八幡神前に於て、御鬮(みくじ)を召され定めらるべき歟。
〔義持〕
然れば御鬮たるべし。
(『満済准后日記』)

但し、時房の『建内記』では、やり取りがやや異なる。
〔満済〕
仍(よつ)てただ仰せに随(したが)ふべし。但し他人の御猶子に於ては用ゐ申すべからず。御連枝四人おのおの釈門なりの内、仰せ定めらるべきの由、各これを申す。

〔義持〕
然れば、連枝四人の御名字を書き、八幡宮宝前に於て孔子(くじ)を取り、神慮に任せらるべし。

このように、時房の日記では、指名を嫌う義持に対し、諸大名が兄弟4人のうちより選定を乞い、満済がその宿老の意見を取り次ぎ、義持が抽籤と裁定したことになっている。

即ち、満済の日記ではクジは満済の提案、時房の日記では、クジは義持が決めたことになっている。

これに関連して時房の日記には、伝聞として、細かい字で次のような注書きがある。

或もの説(いわ)く、御連枝四人の内、諸大名「計らひ申すべきの由、仰せあるの」間、孔子たるべきの由、諸大名評定すと云々。(『建内記』18日条)

義持の指名か抽籤かという決定的に重大な判断を、満済が、その場の独断で下したとは考えられず、諸大名たちが、義持の再三の指名拒否を聞いて、それならばクジ引きもやむなし、と協議していたのあろう。
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(以下、くじ引きの方法など手続きに関する協議が続く)




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