2016年9月19日月曜日

インパール作戦認可までの経緯(その2) ビルマ方面軍(司令官河辺正三中将)創設 第15軍司令官が牟田口廉也中将に交代 牟田口中将はインド侵攻を強く主張 大本営・南方総軍・ビルマ方面軍・15軍幕僚など全員が反対

千葉 大山千枚田 2016-09-16
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昭和19年1月7日、インパール作戦(ウ号作戦)が認可(大陸指1776号)される。
インド東北部インパール攻略。英印軍の反攻阻止・自由インド仮政府の拠点確保。
「南方軍総司令官ハ『ビルマ』防衛ノ為適時当面ノ敵ヲ撃破シテ『イムパール』附近東北部印度ノ要域ヲ占領確県スルコトヲ得」。 

ここで、昭和17年からインパール作戦認可までの経緯を概観しておく。

昭和18年3月初め
陸軍省整備課長岡田大佐、第15師団参謀長に転出
その当時、第15師団は華中(中国の中部地方)の南京に駐留していた。
3月20日
佐藤幸徳中将が南方派遣第31師団長に親補。
師団編成はバンコクで行うことになった(5月10日バンコクで編成完了)。
4月、佐藤師団長はビルマのメイミョウで、第15軍司令官牟田口中将に着任を申告。
3月27日
ビルマ防衛強化のため、ビルマ方面軍が創設。司令官に河辺正三中将が任命。
第15軍は野戦軍としてビルマの中部・北部方面の防衛を受けもつことになり、この改編を機に、飯田祥二郎軍司令官(中将)は転出し、後任は牟田口廉也中将。

この頃は、ウィンゲート挺進隊の行動に刺激されて、牟田口中将の考えが、インド進攻案に変っていた時である。
軍司令官としての新たな方針には、インド侵攻計画は最も時宜を得たものであった。
牟田口中将の新たな作戦計画は、ウィンゲート挺進隊追撃を続行し、第15軍の第一線をチンドウィン河の西岸、ミンタミ山系まで進めるというもので、計画は武号作戦と名づけられた。

しかし、第15軍参謀長小畑信良少将をはじめ全幕僚が、この計画に反対した。
幕僚たちは、第一線をチンドウィン河の線に進めることに異論はなかったが、それより西岸に渡ってミンタミ山系に進出するのは反対であった。補給が続かないというのが、その表面上の理由であった。

が、小畑参謀長以下の幕僚が反対した本当の理由は、牟田口がインド進攻の糸ぐちを作ろうとしていることであった。幕僚たちは、インド進攻作戦は不可能だと考えていた。小畑参謀長は、既に何度か、それを軍司令官に進言していた。小畑参謀長は後方兵端の権威であった。

幕僚全員に反対されて、牟田口軍司令宮は激怒した。
このような参謀長がいる限り、インド進攻計画は妨害されると考えた。牟田口軍司令宮は参謀長更迭を要求した。

しかし、ビルマ方面軍や総軍もまた、牟田口中将の独走計画として、頭から反対するか、あるいは黙殺した。支持する者はなかった。
牟田口中将はひるまなかった。反対されるほど、ますます積極的になった。

結局、小畑参謀長は着任後3ヶ月で解任され、ハルビンの特務機関長に転出(左遷)。後任は、久野村桃代少将。
4月
ウィンゲート隊は分散し、反転し、やがて国境の外に去って行った。

4月18日
ビルマ方面軍司令官の河辺正三中将、メイミョーの第15軍を訪問。
15軍司令官牟田口中将は小畑参謀長の反対を押し切って、河辺中将と二人きりで会談。
会談の途中、方面軍の高級参謀片倉衷大佐が呼ばれる。牟田口中将はインド侵攻を熱っぽく説得中であった。
河辺中将は何も応えず、片倉はラングーンに戻って検討するとの約束をしてその場を切り抜ける。
片倉はインパール作戦には不同意である。
4月19日
大本営第1(作戦)部長綾部橘樹少将、牟田口司令官の要請によりビルマに出向く。
綾部少将は牟田口軍司令官に会って、大本営としては、全く不同意であることを伝えた。

大本営は、インド進攻計画は実行困難だと考えていた。
その理由は
(一)日本の航空兵力が劣勢である。
(二)補給が困難である。
(三)防衛地域が広くなるので、そのために兵力を増加しなければならなくなる。
であった。

4月下旬
第15軍兵団長会同。
第18師団長田中新一中将、小畑参謀長依頼によりインド侵攻の無理を牟田口中将に進言。
牟田口はこれを無視する。
5月10日
第31師団(師団長佐藤幸徳中将)の編成がバンコクで完了。

5月17日
新任の南方軍総参謀副長の稲田正純少将、ラングーンでビルマ方面軍河辺軍司令官と会談し、インド進攻計画について説明を聞いた。稲田副長は、河辺軍司令官は牟田口軍司令官に手をやいている印象をうけた。

その後、稲田副長は、シャン高原のメイミョウで、第15軍司令官牟田口中将と会見。
牟田口中将は、待ちかねたように稲田副長を迎え、早速にインド進攻計画を訴えた。

稲田副長は、インド進攻計画としては、インパール攻略はその一案だと考えていた。
インパールにはインド東方軍第4軍団司令部(司令官スクーンズ中将)があり、連合軍のビルマ反攻の根拠地となっていた。
稲田副長は、インパール攻撃は無理をしてまで実施することはないが、準備次第では、限定目標として攻撃するのがよいと判断していた。

この頃、ビルマに向かって、北からはアメリカ軍と同じ装備をもった中国軍(スチルウェル中将指揮)が、フーコン河谷を南下し、インドのレドからビルマのミッチナに軍用道路を啓開しようとしていた。さらにミッチナからは中国の雲南省の省都、昆明に通ずる滇緬(てんめん)公路と連絡し、陸路でインドと中国を結ぼうとしていた(レド公路)。
この公路には、4本の石油輸送管が敷設されることになっていて、これによって、レド油田の石油を直接、昆明に送り、中国大陸の戦力を増強させようとした。こうしたことから、この公路は、スチルウェル公路、または東京公路などとも呼ばれた。

また、西からは、インド人部隊を主力とする英国軍が、ビルマ奪回のために進撃してくることは必至と見られていた。

こうした連合軍の反攻計画に対して、インパールを先に占拠することは、大切な枢軸を押えることになる。

また、インドの武力占領が無理であっても、何とかインド人の間に革命を起こさせたいという考えが、日本軍の上層部にあった。
この頃、インドの反英運動の指導者チャンドラ・ボースは、日本軍の援助で自由インド仮政府を作り、インド国民軍を与えられていた。ポース首席は、東条首相に対し、インド国内に仮政府の領地をもつことを要求していた。日本側も、ボース首席と国民軍をインドにいれて、反英運動をおこさせたいと考えていた。そのために仮政府をおく地点として、インパールは適当であると見られた。

次に、この頃、大本営の立場は八方塞がりの状態にあり、昭和18年初頭にガダルカナル島撤退をはじめてから、全戦線で圧迫を受け、次第に後退していた。
そんな状況で、ビルマだけは、苦戦であったが、まだ、もちこたえていた。ここで、ひといくさをして、東条首相兼陸相のために”景気をつけられたら、つけてやるべきである”と、稲田副長は考えた。東条大将の人気が下降しているときであった。

牟田口軍司令宮はインド進攻の抱負を語った。
「ビルマ防衛のために、インパールに最前線をおく。それにはインパールの北のコヒマでインパールへの補給を断つとともに、アッサム州の平野に出て、ティンスキャ方面を分断し、援蒋ルートを空路、陸路ともに遮断する。このためには十五軍の主力部隊を北に出すことが必要だ」
夢想に近い壮大な遠征計画であった。起案したのは作戦主任参謀の平井文中佐である。

稲田副長はそのなかの誤りを指摘し、主力軍は南から行くのが自然ではないかと言った。
しかし、牟田口中将は譲らなかった。小さなマニプール土侯国のインパールをとるよりも、英軍反攻の根拠地帯となっているアッサム州に進撃すべきだと主張した。

稲田副長は、牟田口中将の本心が、インドのアッサム州進攻にあることを知った。またそのために、主力軍を北にまわしてコヒマをとろうとしていることもわかった。

牟田口軍司令官は進攻の方法について説明した。
「作戦闘始にあたっては、チンドウィン河を渡るのは困難だというが、舟がたりなければ、いかだで渡ってもよい。それからさきは敵の制空下にあるから、昼はジャングルのなかで休み、夜になって行軍する。補給が困難だと反対するものがあるが、牛などをたくさんつれて行き、それに荷物をつけ、つぎつぎに食糧にすればよい。コヒマを奪取してからの補給は、インパールの敵の物質と輸送力を使うことにする」

稲田副長は幾多の疑問を感じた。
第一はチンドウィンの渡河である。ビルマ三大河の一つを、15軍の3個師団の大部隊が渡るのにいかだでもよいというのは強気にすぎると思った。
補給については、強気どころでなく、危険なものに思われた。
稲田副長は警告した。「インパールを占領するにしても、戦争指導の大局から見れば、あくまでも限定目標の攻撃であって、インドの広い所に出て行くべきではないでしょう。なるほど、インドはひっくりかえしたいし、その可能性もあるでしょうが、それには対印謀略の基地として、インパールにボースをいれる程度でがまんせねばいけますまい」

牟田口軍司令官は、あきらめないで、この作戦に必要な人事について語った。
「小畑参謀長は補給の点で全く反対であるとして、意見が合わなかった。そのため更迭を申請しておいたが、最近は同調するようになったから、替えなくてもよい。困るのは第33師団長の柳川中将である。33師団を第一線にしてインパールに突入させたいが、柳田はどうしても出たがらない。あんな性格では師団長には使えない」

当時の牟田口軍司令官の手持ちの師団としては、東面して第56師団、北面して第18師団、西面して第33師団があるだけであった。
のちにインパール作戦に参加した第31師団はまだ編成の途中であり、第15師団は中国にあった。
インパール進撃には第33三師団を頼みにするほかはなかったから、その師団長に対する牟田口軍司令官の不満は大きかった。インパール作戦間に師団長を解任された柳田中将の悲劇は、既にこの時に始まっていた。

牟田口中将はさらに、この計画を雨季あけと同時に実施させてもらいたいと懇願した。
すでに雨季は始っていた。
9月の終りを雨季あけとすれば、それまでの4ヶ月間に、インド進攻作戦の準備をすることは困難であった。稲田副長は、牟田口中将は気がはやり、焦っていると感じた。

稲田副長は、雨季あけの実施は難しいこと、やるならば、交通や補給を十分考えて、確実なやり方でなければならないと結論した。
そして、次の機会までによく研究してほしいと再考を求めてメイミョウを去った。
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