2016年10月2日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(108)「アトリエにて」(1) ; 彼は自身のなかに身を引いて行き、他の誰のためでもなく自分自身のために描く。『マハとセレスティーナ』 『パルコンのマハたち』 『研ぎ屋』 『酔っ払いたち』 『死ぬまで』 『ラサリーリョ・デ・トルメス』 11枚1組の静物画   

アトリエにて 

 政治の混乱と、これに加えての戦乱の間に、公式画家としての仕事はますます少くなって行く。・・・それはゴヤにとっても幸いなことであったであろう。彼は自身のなかに身を引いて行き、他の誰のためでもなく自分自身のために描く。自身の楽しみのために、また、たとえば後に版画集『戦争の惨禍』となるものの、赤チョークによるデッサンなどは、いわば自身の苦しみのために。

ゴヤ『マハとセレスティーナ』1805-12

 ここに二枚のマハ像がある。
 二枚ともサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ小聖堂の天井画のように、鉄製の手摺りによりかかったマハを描き出したものであり、そのうち一枚は、ゴヤが油絵だけではなく、デッサンなどでも好んで描いたマハとセレスティーナ(文学作品から出て、一般的にはやりて婆、色事のとりもち女を意味した)である。マハはいささか脳足りぬようなうつけた表情でたっぷりとした豊かな胸をもち、やりて婆は影に沈んで数珠をつまぐり、このマハがどのくらいの稼ぎをするかと、ニタニタ笑いに笑っている。風俗画というものはこういうものを指すのであろう。

ゴヤ『パルコンのマハたち』1805-12

 もう一枚は、二人の年若いマハ ー 一人は白いレースのマンティーリア、もう一人は黒のマンティーリアをかぶってい、そうして背後に、二人の典型的なマホが、黒い帽子を目深かにかぶりマントで口許をかくしている。
 この男女四人がパルコンからいったい何を見ているのであるかが問題とされたことがあった。女たちはともかくとして、背後に立っているマホの表情があまりに面妖だったからである。眉をしかめて何かに畏怖をしているかに見え、かつ坐っているとおぼしいもう一人のマホも、何かから目をそむけているかに思われるからである。
 そういうところから、この絵は、広場に面した家のパルコンから死刑の執行を見ているの図であるという説が出て来た。・・・それはやはりどうとも言えない。そうであるかもしれず、そうでないかもしれないとしか言い様がない。
 色彩的には、ここに黒系統と自系統の色ばかりが目立つ、晩年への方向がすでに予告されていると言えよう。

ゴヤ『研ぎ屋』1805-12
 マハ、マホの次には、巷の女、水売りの女があらわれる。彫刻的なまでに堂々たる体躯の女が両足で大地を踏みしめ、冷たい水の入った瓶を脇にかかえコップ二つを入れた手籠を下げている。
そうして続けて研ぎ屋が登場する。
これもがっしりした体躯の研ぎ屋が胸をはだけ、両袖もまくりあげてグラインダーで刃物を研いでいる。

ゴヤ『酔っ払いたち』1805-12
 さて次にゴヤはアトリエで愉快ないたずらをしていると私に思われる一枚が来る。標題は『酔っ払いたち』である。
 これは第一に不思議な絵で、人物たちの服装も帽子もまったくスペイン的ではなく、むしろ一七世紀のオランダ風であり、しかも当時のオランダ画派を弥次るにしては、室内の細部などをまったく欠いていて、前面に濃い、影とさえ言いたくなる暗い部分が描かれ、逆に背後の壁は下からの光線に照らし出されて、その壁には、MEDICO(医者)ということばが、あたかもチョークで落書されたかのように書き込まれている。
 この医者ということばが何を意味するものか、それはわからない。・・・
 私は個人的に、この絵は一七世紀オランダの画家、フランス・ハルスを弥次ったものではないか、と思っている。・・・
 しかしそれは、騒がしく危険な世情をよそに、まさにアトリエで遊んでいるゴヤである。

ゴヤ『死ぬまで』1808-12

 もう一枚、・・・。標題も『死ぬまで』あるいは『時間』とされていて、つまりは、雀百まで、ということである。矢のかたちをしたカンザシを髪につけた、これはもう人間とも女とも思えぬ老醜の女が、黒人かと思われる下女の捧げる鏡に見入っている。その鏡の裏には”Que tal?”(どんな具合で?)と書き込まれ、背後にはギリシャ神話中の、羽の生えたクロノス神が何やら心配そうな面持ちで控えている。

 ・・・この矢のかたちの同じカンザシが、『カルロス四世家族図』中の、王妃マリア・ルイーサがしていたものであった・・・。しかもその歯抜けの顔立ちもがこの旧王妃にそっくりである。マリア・ルイーサは総入れ歯であった。・・・
 ・・・クロノスは、アフロディテの父親である、とされていた・・・。おれの子の美女アフロディテも大分年をとったようだが、相変らず美しいかな、”Que tal?” - どういう具合かな……?
ゴヤは遊んでいる。あるいはしっぺがえしをしている。そうしてここでもすでに、晩年の画風が予告されている。

 ・・・私はこの老醜図の前に立ってミシェル・フーコーの次のような文章をつくづくと、確かめるような気特をもった・・・。

 人間それぞれのなかにこそ狂気がある。というのは人間が狂気をつくり出すのは、自分によせる愛着をとおして、また自分にいだく幻想をつうじてだから。(中略)自己執着がこのように想像的だからこそ、人間の狂気はいわば蜃気楼となって生れる。狂気の象徴は、あの鏡 - 現実のものをなんら映し出さないが、そのなかで自分の姿を凝視する人にはひそかに傲慢さから生じる夢を映すあの鏡となるだろう。狂気は、真理ならびに世界に関係するよりも、人間や、彼が認めるすべを心得ている彼自身と関連をもつのである。

 哲学者のことばを、ゴヤもがしかと裏付けてやっていると思われる。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』に関する研究は、今後のゴヤの仕事を見て行くについても多くの示唆を与えてくれるものである。

ゴヤ『ラサリーリョ・デ・トルメス』1808-12
 ゴヤはまた読書を楽しんでいる。
 ・・・
 それは『ラサリーリョ・デ・トルメス』と題されたもので、要するにスペイン一六世紀の作者不明の悪漢小説の、その挿画のような作品である。これは「悪がしこい盲の・・・手引き小僧」になった少年の物語であり、ゴヤの絵は、この悪がしこい盲人についた、これも悪がしこい手引きの少年が、この盲主人の酒壷から「ライ麦の長い茎」で葡萄酒を盗み飲みをし、それに気付いた盲主人が少年の口をこじあけて酒の匂いがするかどうかと嗅いでいるの図である。
 事態はまことにユーモラスであって、マドリードの一私人の家にあるこの小さな(80×65cm)絵の前に立ったとき、私は思わず笑い出してしまった。酒やけのした、何かの滑稽な動物のようにも長い鼻の盲人が、いかにもはしこそうな、ゴヤ自身の少年時もかくやと思われる餓鬼の首ったまをつかまえ、子供の口のなかに二本の指を突っ込み、その長い、垂れ下りそうな鼻を差し出している。彼は実にこのたった一枚の絵で、作者不明のスペイン文学の代表作の一つである、素朴な作品の持ち味を十全に表現していると思われる。

 ついで、ゴヤとしては珍しいことに、一一枚一組の静物画が来る。 
ここに描かれているものは、アヒル、ウサギ、七面鳥、ニワトリ、果物とパン、サカナ、毛をむしられた七面鳥、皮を剥いだ牛の頭、鮭の切り身、肉屋の俎上のアバラ肉と牛の頭、兵隊(フランス軍の!)の帽子とサーベルの一一枚である。

 これらの小品は、・・・時代の不安定、世情の騒々しさの只中にあっても、一旦アトリエにこもったとなれば、徹底的に自分の技を磨くことに専念する芸術家の面魂の典型と思われる。
 皮を剥がれた牛の頭などは、そのぬめぬめした肉と、死んだ眼の光りなど気味が悪いほどのものである。それに夜の砂浜に重ねて置かれたサカナなどもいささかならず不気味である。
 こういう静物画はオランダが本場であったけれども、彼もまたアトリエの静寂のなかでそれを試してみたものであろう。オランダの場合、この種の作品は主として売り絵であった。ゴヤの場合はそうではなかった。・・・




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