2016年12月17日土曜日

大治6/天承元年(1131) 九条兼実誕生 平頼盛誕生 藤原忠実、11年ぶりに政界復帰、鳥羽上皇に再出仕 嫡男忠通と不和になる 藤原頼長(12)、従三位となる 

鎌倉 円覚寺にて
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大治6/天承元年(1131)
この年
・九条兼実、誕生。
摂政関白藤原忠通3男。異母兄基実・基房は先に摂政関白の位につく。母は藤原仲光の娘加賀局(兼実の他に男子4人を儲ける。「愚管抄」作者・比叡山延暦寺天台座主慈円は末子)。   
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・平頼盛、誕生(1131又は32又は33年)。
平忠盛5男。母池禅尼藤原宗子。妻八条院乳母宰相局娘・大納言局(俊寛姉妹)。八条院に出仕。鳥羽院判官代。
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・ホルシュタイン伯にシャウエンブルク家シャウムブルクのアドルフ2世、即位(位1131~1164)。
1143年リューベック建設。
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・ケルン大司教フリードリヒ1世フォン・ケルンテン、没(位1099~1131)。
ブルーノ2世フォン・ベルク、即位(位1131~1137)。
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・アリックス、2度目の反乱。
ボードワン2世没後、アンティオキア候国奪還を計画
(ボエモン2世妻、エルサレム王ボードワン2世次女。1130年、夫ボエモン2世戦死後、アンティオキア候国確保を意図、父エルサレム王ボードワン2世に攻められ、1130年よりラタキアに蟄居)。
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・エルサレム王フルク5世、アンティオキアに赴きコンスタンス(ボエモン2世娘、後継者)をアリックスより守る。
フルク5世、エルサレム王国を北上、ベイルート到着。
トリポリ伯ポンス、フルク5世のトリポリ伯国通過拒否(エルサレム王臣下、フルク5世妹セシル・ダンジュー夫、アリックスと同盟)。
フルク5世、ベイルートより海路アンティオキアに向う。アンティオキア市民、フルク5世を支持。
トリポリ伯ポンス、公然とフルク5世に叛逆、シャテル・ルージュとアルシカン(アルゼガン)に籠城。
フルク5世、アンティオキアより出陣、トリポリ伯ポンスに勝利(トリポリ伯ポンス、フルク5世に服従)。
フルク5世、エルサレム帰国。アンティオキア候国を宮中伯ルノー・マゾイエに委ねる。
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・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世に対する「大反乱」勃発。
有力諸侯(バーリ候グリモアルドゥス・アルファラニテース、コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス息子タンクレドゥス、アンドリア伯ゴフレドゥス)、「反ロゲリウス2世同盟」結成。
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・アベラール、アフジャントゥイユ修道院を追放されたエロイーズをパラクレ修道院に住まわせる。
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・教皇イノセント2世、ランス教会会議を召集。ベルナール出席。
1131年のベルナール(教皇イノセント2世支持活動)。シャルトルで教皇と会見。
ル・パラクレ修道院長エロイーズ(アベラール妻)を訪問。ピカルディ→フランドル→リエージュ→ドイツ(ドイツで司教叙任権を手中にしようとしたロタール3世に対抗)。ランス教会会議出席。
年末、ポワティエでアキテーヌ公ギョーム10世に説得、失敗。
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・バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール3世、没(位1096~)。
息子ラモン・ベレンゲール4世、即位(位~1162)。
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・ムラービト朝カラトラーバ城代ファラジュ、カスティーリャ・レオン王国モーラ城代ムーニョ・アルフォンソを待ち伏せ攻撃、捕縛。
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・カスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、サラゴーサ王国最後の王アブド・アル・マリクを家臣とする。トレードとエストレマドゥーラ地方所領を授封。
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・ポルトカレ伯爵エンリケ・デ・ボルゴーニャ息子ドン・アフォンソ・エンリケス、ポルトカレ周辺の貴族たちの支持を集め、ポルトカレ伯領の自立的傾向が強まる。
この年、ポルトカレ伯アフォンソ・エンリケスはコインブラに軍を進め、レコンキスタに参加。
コインブラに定着して南部の領土拡大に専念し始め、彼の周辺に下層貴族としての騎士階層が形成され、レコンキスタの中心部隊となる。
これら騎士階層は北部の貴族の次男・3男にコインセーリョ(イベリア半島独特の自治共同体)からの平民騎士がとり込まれたもの。
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・ウェールズ、シトー派修道院建設開始(建設期間1131~1201)。
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1月2日
・藤原頼長(12)、従四位下叙任。22日、伊予権守兼任。
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1月5日
・平清盛、従五位上に叙任。
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1月29日
・「天承」に改元。
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3月
・教皇イノセント2世、ドイツ王ロタール3世をリエージュ(リュッティヒ)に訪問、同盟成立。
イノセント2世、会談後フランスに帰国。
ドイツ王ロタール3世、イタリア遠征迄のドイツ国内対策。
①マクデブルク大司教ノルベルト・フォン・クサンテン(51、プレモントレ修道会創立者)の反乱鎮圧。
マクデブルク:ザクセン都市、ベルリン西南西100km、ライプチヒ西北西100km。
②貴族殺害・財産略奪の罪でハレ市民を処刑。
ハレ:ザクセン都市、ライプチヒ西北30Km。
③ヴィンツェンブルクのベルンハルトを王の勧告に背いた廉で追放。
④自分と妻の親族を高位につける。
ルートヴィヒ:テューリンゲン方伯(ザクセン南隣、ヘッセン東隣)。コンラート・フォン・ヴェティン:マイセン辺境伯(ライプチヒ西75km)。
コンラート・フォン・プレッツカウ:ノルトマルク伯(1134年、熊公アルプレヒト就任)。
⑤南ドイツ:バイエルン大公ハインリヒ尊大公とレーゲンスブルク司教との争いを仲裁。
シュトラスブルク司教ブルーノを罷免。
ケルン新任大司教ブルーノ2世フォン・ベルクに封土授与。
アーダルベルト・フォン・トリーアには封土拒否。
⑥ホーエンシュタウフェン家兄弟との争いは決着せず。
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5月
・ダマスカスのアターベク、ブーリ・イブン・トゥグティギン、暗殺教団に刺される。
13ヶ月後の1131年6月、没。
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7月8日
・鳥羽阿弥陀堂の落慶供養。
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8月15日
・女院主典代茂通、月奏と近江・越前両国寺御堂末寺下文を権中納言・皇后宮権大夫源師時の許に持参(「長秋記」)。
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8月17日
・正四位下藤原頼長を越前守に任じる。
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8月21日
・エルサレム王ボードワン2世、没(位1118~1131)。
娘メリザンド、娘婿フルク5世、孫ボードワン3世(1130年8月以前に誕生)に統治全権を委ねる。
フルク5世治世下、フランク間の反目は最高潮に。
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9月5日
・越前守藤原顕頼、鳥羽上皇に馬20疋を進上(「長秋記」)。
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9月14日
・フルク5世(36)とメリザンド、エルサレム王・女王、即位。
建設中のエルサレム聖墓教会で戴冠式。エルサレム王国の全盛期。
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10月25日
・ルイ6世長男フィリップ、事故で急死。
サン・ドニ修道院で修行中のルイ7世(フィリップ弟の小ルイ、9)、王位後継者となる。
10月25日ランスで臣下より「臣従の誓い」を受ける。
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11月17日
・藤原忠実、11年の籠居を棄てて鳥羽上皇に再出仕、政界復帰。嫡男忠通と不和になる。
この日、忠実は鳥羽上皇の召をうけ、関白忠通・頼長の二子を従えて初めて院御所に参入。
続いて、21日、随身として左右近衛府生(ふしよう)各1人・同近衛舎人(とねり)各4人を給わる。
内(ない)昇殿・牛車(ぎつしや)・勅授の宣旨は、寵居以前に給わっていたので改めて宣下のことはなく、院昇殿も、その都度上皇の召によって御前に参上するのであるから、ことさら院宣を下す必要はないとされた。
更に翌2年正月14日には、文書内覧の院宣をもこうむるに至る。
これには天皇の宣旨を下すべきであるが、元来忠実の内覧は中絶したものに過ぎず、また内覧の再宣下は先例がないから、便宜院宣によって仰せ下したという。
これら一連の忠実に対する処遇には、失脚以前の状態に戻すという復権の意図が強く打ち出されており、鳥羽院政開始の初頭にあたって、忠実に対する白河法皇の処置を全面的に否定したもので、こののち同院政の性格の一面を形づくる出発点ともなった。
こうして忠実は完全に政界に復帰し、摂関家の実権を握って鳥羽上皇に奉事し、その信任を得た。

父忠実と子忠通・頼長。
忠通は父忠実の失脚によって保安2年(1121)に関白に就任して以来、白河院政のもとで院近臣と変わらぬように、院に忠実な態度をとっていた。しかし、白河法皇の死によって、大殿忠実が政界に復帰すると、忠実と忠通との亀裂が、しだいに大きくなってい。
失脚のとき、43歳であった忠実、24歳であった忠通、そして忠実の二男頼長はまだ乳呑み児であった。それが10年後になると、頼長は元服も間近という年齢に達していた。忠通・頼長兄弟は、年齢差は23歳、まるで父と子であった。忠通には長く男子が誕生しなかったため、忠実の命令で、天治2年(1125)、6歳の頼長が忠通の養子となった。そして頼長は忠実の近く、つまり宇治で成長したと考えられる。
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12月4日
・ペルシャの詩人ウマル・ハイヤーム、没。
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12月22日
・源有仁(29)、右大臣(従一位右大将)となる。
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12月24日
・藤原頼長(12)、従三位。
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