2017年1月3日火曜日

長承3(1134)年 「今年以後、天下飢饉」 勝光明院・宝蔵造営 藤原頼長(15)正二位、権大納言、皇后官大夫 女御藤原泰子(40)に皇后宣下 得子が鳥羽上皇の寵愛を受けるようになる 兵衛尉平家貞、左衛門尉となる

若冲 《動植綵絵 群鶏図》
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長承3(1134)年
この年
・洪水・飢餓・疫病流行。
陰惨な事件が多発。「今年以後、天下飢饉」。
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・国王のコレクション
鳥羽院は、大治4(1129)年7月の白河院没後すぐに鳥羽や白河・京の御所の蔵に封を付けさせて宝物の分散を防ぐ。
鳥羽離宮に田中殿(たなかどの)御所を造営し、この年・長承3年(1134)に勝光明院(しようこうみよいん)と付属する宝蔵を設け、ここに「顕密の聖教、古今の典籍、道具語法、弓剣管絃の類」の「皆是れ往代(おうだい)の重宝なり」と称される宝物が収納された。
この宝蔵は、宇治の平等院宝蔵や延暦寺の前唐院蔵にならって列島内外のコレクションを納めたもので、王権を飾ることに腐心した。弘法大師が大陸で描いたという八幡神の「御影」が高雄寺に安置されていたが、寺が荒廃したのでこの宝蔵に安置したという(『古事談』)。
また、久安2年(1146)8月23日、宝蔵を見た鳥羽院は、宝物の目録を作成させている(『本朝世紀』)。

■荘園集中とコレクション
白河院とは違って鳥羽院は一度も荘園整理令を発したことがなく、白河院政の後半に諸国の荘園の寄進を認めるようになった傾向のままに、寄進を受け入れ、荘園には国役(くにやく)免除や国使不人(ふにゆう)などの特権を与えていった。
院のもとに集められた荘園は、御願寺の六勝寺や、后妃の待賢門院と美福門院、皇女の八条院などの女院に譲られてその所領とされ、時代の文化はこの富の上に築かれた。
これらの荘園の目録は国王のコレクションの書き上げの性格を有していた。

■鳥羽院の性格を物語る『古事談』僧行の部に載る話
鳥羽院護持僧の鳥羽僧正覚猷(かくゆう)は、死期近くに遺産の処分をするよう弟子たちから求められ、「処分は腕力によるべし」と紙に書いていた。
これを伝え聞いた院は、自らも覚猷の弟子たるを自認していたので、弟子を呼び寄せて遺財を書き上げさせ、それらをすべて我がものとした後、弟子らに分配したという。
時代は腕力が物を言う時代に突入していたことを象徴的に物語り、また院のコレクション癖もよく示している。

・遁世の志
貴族や武士に「家」が生まれ、その地位や家産が子孫に継承される動きの中で、家から逃れ、仏門修業の道に入る遁世の動きがあった。
三善為康の往生伝『後拾遺往生伝』は、遁世後に往生した人々の伝記を記している。
そのうちの左馬大夫藤原貞季は白河院に仕え滝口の武士となり、馬允(うまのじよう)に任じられて五位に叙されると、その後は後生の事をのみ営むようになり、雲林院(うりんいん)に塔婆を建てて行を積んで、長承3年(1134)に往生を遂げた。
浄土への往生を求める動きが人々の心を捉えるようになっていた。そうした遁世の志は、摂関時代に結社を結んで浄土への往生を求めてきた文人たちには、世人の詩文への関心の衰えもあり、出世の望みも絶たれていたので、ことに強い。
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・この年、信濃国の御厨神人が同国在庁官人に殺害されたことを伊勢神宮が訴える事件が起こる。
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・この年、頼長(15)の乳母備後が没し、頼長は、臨終の床に見舞う。
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・ベルナール、パルテナイでアキテーヌ公ギョーム10世と会談。アキテーヌの離教に終止符をうつ。
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・ブランデンブルク辺境伯領、設置。
アスカニア家熊公アルプレヒト(34)をブランデンブルク辺境伯に任命(1100?~1170、位 1134~1170)。
ブランデンブルク:
北ドイツのエルベ川西岸からオーデル川流域一帯(現在は一部ポーランド、大部分は東ドイツ)。
アスカニア家アルブレヒトが皇帝ロタール1世からこの地に封ぜられ辺境伯となる。
以後、同家によって農地開拓・キリスト教布教が進められる。1320年同家断絶後、ヴィッテルスバハ家(1324~73)・ルクセンブルク家(1373~1415)がこれを継ぐ。
1415年ホーエンツォレルン家フランケン系のフリードリヒ6世(辺境伯としては1世)が任ぜられ,以後ホーエンツォレルン家の所領地となる(但し、この時点で選帝侯となり、正確には辺境伯ではなくなる、後のプロイセン王国の基礎となる)。
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・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世(39)、カープア地域の反乱鎮圧。
反乱諸侯(カープア候ロベルトゥス2世、アリーフェ伯ライヌルフス)。
カープア候ロベルトゥス2世、ロゲリウス2世の提案を拒否。ロゲリウス2世、尚書グアリヌスをカープア候国における王の代理」に任命。
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・イングランド、スティーヴン・ハーディング、没。シトー会創設者の1人、シトー会会則「慈愛の憲章」起草者。
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・聖ノルベール(54)、没(クサンテンのノルベルト、1080頃~1134)。
有名な説教家。プレモントレ修道会創始者(1120北フランスで創設)、マグデブルク大司教(位1126~1134)。
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・テンプル騎士団ユーグ・リゴー、バルセロナ再訪。新領主レーモン4世とカタロニア騎士24人の協力を得る。
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1月
・この月、藤原頼長(15)、朝覲行幸に供奉。
その賞として5日に正二位に進み、翌2月22日に権大納言に任ぜられる。
また、泰子の立后とともに皇后官大夫を兼ねて皇后宮の諸事をも沙汰する。
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2月17日
・六条殿、焼失。
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3月19日
・鳥羽上皇の女御藤原泰子(40)に皇后宣下。越前守高階盛章を皇后宮職の権大進に任じる(「中右記」)。
多年摂政・関白の座を占め、独自の立場を築いていた忠通も、父・忠実の政界復帰、更に泰子の院参を始めとする父の積極的な政界進出には警戒心を強めていた。ことに上皇「夫人」をもって立后した例は未だ聞かずと世人にも非難された泰子の立后には、反対の態度を隠さなかった。
『長秋記』は、立后について諸事を指図すべき関白が全く手をこまねいて沙汰しないと忠実を嘆かせ、また上皇もあまり気乗りしない様子であったが、忠実が申し請い、ついには上皇第一の近臣藤原家成を動かしてようやく立后の恩許を得たと伝えている。
政治色の濃い入内であり、立后もまた忠実にとって是非とも必要であった。
こうしてこの日、泰子は皇后となり、同日の宮司任命において、正二位権大納言頼長が皇后官大夫に任ぜられた。忠実の推挙によるものと思われる。
ここに色々な問題を起した泰子入内の一件も漸く落着した。
この後、泰子(のちの高陽院)は鳥羽院と忠実ないし頼長とを結ぶ重要な絆となり、忠実父子の政治的立場を補強して、直接・間接に頼長を庇護する立場に終始した。
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同日
・令子内親王、太皇太后となる。
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5月
・「天下飢饉」
この月の長雨に始まり「風損水損」が続き、秋には「大咳病」となり、翌年には悲惨を極め、疾疫・飢饉により餓死者が「道路に充満す」という事態となり、保延と改元され、大規模な賑給(しんごう、弱者救済)実施により貧窮者に食料が施された。
しかし、翌2年も「世間多く道路に小児を棄つ、大略天下飢餓」という状況(『百練抄』)。
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6月4日
 ・デンマーク、エーリック2世がニールス王に反逆、王位に就く。
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6月7日
・藤原長実没により、本邸の二条万里小路第は娘得子(17)に伝領(源師時「長秋記」同日条)。
この邸宅は長実が生前、鳥羽上皇(33)に御所として提供。
越後尼公(師時の姉妹の方子、得子の母)が語った言として、この年には、得子は鳥羽上皇の寵愛を受けるようになったとある(長承3年8月14日条)。  
崇徳天皇(16)の怒りを買い、得子の兄弟・一族縁者は、昇殿や国守の任を停止され、財産没収の厳罰を蒙る。母待賢門院璋子から怨みつらみを訴えられたことにもよる。
得子には崇徳への恨みが生じ、鳥羽・崇徳の親子関係にも亀裂を生じさせる。
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6月14日
・大風雨で四条大橋が崩れ、祇園御霊会の神輿1基が鴨川に墜落。
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6月17日
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、ムラービト朝バレンシア総督イブン・ガーニヤに待ち伏せに遭い敗北(9月8日没)。
戦死者:ベアルンのサンテュール5世、ナルボンヌのエムリ2世、ベルトラン・ド・ラン。
捕虜:レスカール司教ギー(バレンシアに連行、キリスト教棄教するよう拷問、身代金金貨3千枚で釈放)。
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9月8日
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、サラゴサで没(武人王、位1104~)。弟ラミーロ2世(修道士)、即位(位~1137)。
1136年ラミーロ2世結婚。
1137年娘ペトロニーラ誕生、バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール4世と婚約、退位。
アルフォンソ1世没後の動きの中でアラゴン・ナバーラ王国は3分裂。
①バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール4世、アラゴンとサラゴーサをカタルーニャと合併。
②カスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、ナヘラとラ・リオーハを併合。
③ナバーラ、エル・シッド孫ガルシーア・ラミーレス5世(ガルシーア・サンチェス3世曾孫)の許で独立。
アラゴンはレオンと友好関係継続、ナバーラはレオンとアラゴンと戦い続ける。
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12月
・越前の今立郡河和田荘(旧今立郡河和田村の一部)、立券が命じられる。
平安末期、中下級貴族藤原周衡の娘周子が待賢門院に寄進、これに中納言従二位源雅定の位田を混合して、立券が命じられる。
源雅定は待賢門院に奉仕する村上源氏の一族で、中院流の祖源雅実の子、越前の今北東条と足羽位田がその家領。当荘は侍賢門院の御願寺法金剛院の懺法堂領とされ、年貢は8丈絹50疋と綿500両。
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・末、カープア地域で再度反乱。
反乱参加者:カープア候ロベルトゥス2世、アリーフェ伯ライヌルフス、ナポリ公セルギウス7世(位1120/3~1137)、ピサの町。
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閏12月
・兵衛尉平家貞(忠盛の昇殿に際し殿上の中庭に控えていた忠盛第一の家人)、海賊追捕の賞により左衛門尉となる。
家貞は忠盛の昇殿に際して中庭に控えていたという殿上の闇討ち事件の逸話に登場する忠盛第一の家人(けにん)。
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閏12月1日
・日蝕。山僧12人、御前で薬師経読経。定海法印祈祷。
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閏12月14日
・鳥羽上皇の白河新御所での孔雀経御修法が結願。布施としての馬2疋を越前守・三河守が引く。*
閏12月15日
・藤原周子の寄文と国司庁宣の旨により、左衛門督家の位田を越前今立郡河和田荘に加え立券混合するよう、待賢門院庁から越前国在庁官人と河和田荘司田堵宛の下文出る。
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