2017年6月18日日曜日

明治39年(1906)9月 夏目漱石(39)、「草枕」(「新小説」)発表。舞台とモデル(前田つな子)などについて

鎌倉 寿福寺
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明治39年(1906)9月
・漱石(39)、「草枕」(「新小説」)。  
「草枕」の発表は、改めて夏目漱石の存在を世に強く印象づけた。

■舞台とモデル(前田つな子)
この作品は、30歳の画家と、旅先の温泉宿の美しい出戻りの娘との出逢いが土台になっていた。画家と娘の間に起るのは、人生についての悟りの競争のような心理劇であった。漱石はこの心理劇を、禅問答めいた画、俳句、外国小説、宗教等についての対話で飾り、また娘のもとの夫、戦争に出かける青年、僧侶、理髪師などを配して、美的教養主義による人生苦の脱出方法を説いているように見えた。

小説の舞台、那古井という温泉は、房州あたりであるかのように描かれていた。しかし漱石が使った舞台は、明治30年彼が熊本の第五高等学校に勤めた当時、遊びに行ったことのある小天(おあま)温泉であった。女主人公那美は、その温泉の所有者であった政客前田案山子の長女前田つな子であった。

小天温泉は熊本市の西北3里半のところにある有明海に面した温い土地であった。
漱石が松山中学校から五高に転任し、中根鏡子と結婚したのは、明治29年。この30年の正月休みに、漱石(数え31歳)は五高の同僚で第一高等中学時代からの親しい友人であった山川信次郎と一緒にそこへ湯治に行った。

前田案山子は熊本県の玉名郷の区長をしていた郷士で、槍の名手であった。池辺吉十郎等と親交があり、中江兆民とも交流があった。
小天の温泉宿は、もとは彼自身の隠居所として、また政友たちを招待する時に役立てようとして建てたものであったが、空いている時は客を泊めた。五高の教師たちは恰好の行楽地として時々ここへ出かけていた。山川信次郎は前田父娘と親しい交際をしていて、漱石を連れて行った。

前田つな子は前田案山子の2人の娘のうちの長女で、この時漱石と同年の31歳であった。婚家から戻って、このとき父とその隠居所にいた。
漱石と山川がそこに泊っているある夜更け、2人が湯に入っていた。そのときつな子は女湯がぬるくなっていたので、人がいないと思って男湯に入りかけた。すると湯の奥の方で、2人のくすくす笑う声がしたので、あわててそこを飛び出した。
つな子はしっかりした男まさりの女で、時によっては長い話をしはじめて、仲々漱石を離さぬこともあり、その性格は漱石の心に残っていた。

漱石はこの年6月頃にも、再び同僚の狩野亨吉、山川信次郎、奥太一郎等と小天へ遊びに行っている。
そして、9年後の明治39年、漱石は「草枕」を書くに当って、その温泉とこの女性とを材料に使った。

「草枕」発表のとき、モデルの前田つな子は東京に住んでいた。
彼女は漱石と知り合った後、再びある軍人と結婚したが、その結婚にも失敗して、今後は養老院の世話人にでもなって生きようと思って、上京していた。ところがつな子は、孫文一派の中国の亡命政治家たちのグループである民報社に入って、その人々を世話することになった。それは彼女の妹宮崎つち子の縁によるものであった。

妹のつち子は、父と同郷人である熊本県玉名郡荒尾村の宮崎寅蔵(号は滔天)と結婚した。寅蔵の父長蔵は幕末の頃剣士として知られた人間で、寅蔵の長兄真郷は、西南戦争で戦死していた。
寅蔵は、明治20年、数え年18歳の頃から、兄の弥蔵とともに中国革命運動に心を傾けた。その思想は、世界の現状の不合理を改めるには先ず中国の革命を実行して、その力で世界を理想的に改革するのか一番自然であり、かつ可能性に富んでいる、ということにあった。滔天はその考によって先ずシャムに渡航して開拓事業をし、次いで孫文を日本に迎えて、その革命の援助をした。彼は全く家庭を省みず、妻のもとに幼児の龍介と震作の2人を残し、常に海外と日本との往復に日を送った。

つち子は貧窮の中にあって、時には子供たちを実家に預け、時には荒尾村の家庭に夫と孫文を迎えて何を食わせるべきか途方に暮れるような生活を続けた。
孫文の革命運動は二回にわたって失敗し、滔天は方途に窮して、桃中軒雲右衛門の弟子となり、浪花節語りとして、各地を歩きまわっていた。そういう生活をしてもやっぱり革命の資金は出来ず、家庭に仕送りすることもできなかった。

明治38年1月、つち子は貧窮の果て、荒尾村にもいられなくなり、3人の子供を連れて上京し、東京市外の新宿番衆町に家を借りて住んでいた。その年8月、再び孫文がイギリスから日本にやって来て横浜に住んだが、その番衆町の宮崎の家を彼は自分の東京の事務所として、そこで中国の若い学生たちに逢ったり、ピストルの製造家と相談したりしていた。
前田つな子はこの妹の仕事を手伝うことになった。

明治39年9月のある日、彼女の知っている五高出身の東大生たちがやって来て、夏目先生があなたのことや小天のことを小説に書いていると言ったので、つな子は神楽坂の本屋で「新小説」を買って「草枕」を読んだ。
青磁の鉢に羊羹を入れて出したことや、床の間に若冲の絵を懸けてあったことや、彼女の父が漱石を茶に招いたことや、家の様子など、彼女が漱石に逢った時のことが、そのまま描かれてあった。
湯の場面は、漱石一人のところに彼女が入って行ったように描かれてあったのは工合が悪かった。
女主人公はたしかに自分らしいが、それがかなり派手な存在に描かれていた。つな子が、これでは困ると思ったのは、村の人たちが彼女や母親を気が変だったと言っているように書かれていることであった。

しかしつな子はそれに関して抗議はしなかった。
つな子はたしかに変った所のある女性であった。孫文一派の革命家たちが、ある日新しい国旗を作る相談をしているのを彼女は聞いた。革命家たちは貧しく布の工面がつかぬようだった。つな子は、その大きさや色を考えていたが、ふと自分の荷物から新しい腰巻を出してやって、「この腰巻はまだ一度締めたばかりだから、これでも使ったらどう」と言って、それで国旗を作らせた。こんなことをする自分の気持ちが夏目さんに見抜かれてあんな風に誌かれたのだ、と彼女は思った。
(以上、伊藤整『日本文壇史』より)

「草枕」那美のモデルに関しては、彼女をよりポジティブに描いた評伝がある。
「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)












読み始めたもののまだ読了していないので、以下に本書の「はじめに」の一部を紹介しておく。(読み易くするため、段落、改行を勝手に施した)

はじめに
一人の女性について書きたいと思っている。
前田卓(つな)。明治元年六月十七日に、熊本県玉名郡小天村(現玉名市天水町小天)に生まれ、昭和十三年九月六日に東京で亡くなった女である。戸籍名はツナ。明治時代の流行で漢字を当て、子を付けて卓子とも称したし、「つな」や「つな子」と書くこともあった。墓には前田卓と刻まれている。
日本の近代の夜明けとともに生まれ、明治、大正、昭和と生きた。
表舞台で華々しく活躍したわけではない。多くの女性と同じように、その時代を懸命に生き、働き、死んでいった市井の人だ。それでも歴史の表にわずかに顔を出す。一つは、夏目漱石の小説『草枕』のヒロイン那美のモデルとして、もう一つは、孫文や黄興ら中国の革命家たちが日本でつくった「中国革命同盟会」(通称「中国同盟会」)を支援した女性として。

わずかに残る足跡がその二つであることに興味をもった。
この二つの点と点の間に何があるのだろう。前脚卓の生涯を追いたいと思った。亡くなってからすでに七十年。関係者もほとんど残っていないし、彼女が書いた手紙も日記も何も残っていない。
けれども、わずかに残る手がかりから浮かび上がる前田卓は、キラキラと輝いている。
制度的にも社会常識的にも女性が男性の付属物とみなされた時代に、自由と平等を当たり前のこととし、傷つきながらも平然とそれを貫いた女だったからだ。

(略)








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