2017年9月2日土曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月1日(その3) 江東区、品川区の証言 「亀戸天神公園で古森警察署長は石油箱の上に立って避難者や群がる人々を前に、危険な朝鮮人や社会主義者の不逞の輩は全部逮捕するからみんな協力するようにと演説した。」

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月1日 足立区、荒川区、江戸川区、大田区、北区の証言 「〔1日〕夕暮れ近くなった頃、.....朝鮮人が復讐を企てて、諸方の井戸に毒薬を投げ入れたり、集団で強盗をはたらいたりしている、というような噂が伝ってきた。」
より

大正12年(1923)9月1日
〈1100の証言;江東区〉
宇佐美政衛〔材木商。当時深川木場在住〕
第一夜であった。真夜中、「朝鮮人数百名が押しよせて来たから皆出て応援してくれ」との事であった。みな寝ており起きるものもなく、私一人で出て見た。しかし私は(朝鮮人が攻めて来る様な事はない。そんな事がある筈がない。うろたえるにもほどがある)と腹の中で思うのであった。が出ないわけにも行かず、行って見たところ果して私の思った通りであった。
そのうち川の中に鮮人が3人ばかりいると、盛んにピストルの音がきこえて来た。在郷軍人の提灯が沢山見える。私はピストルを撃つのをやめさせ、筏に乗って見に行ったが誰もいなかった。「鮮人はおりませんよ、又押しよせて来る等とはみな嘘です。御安心下さい」と引取らせ、また寝についた。
一体、日本人は考えが単調ですぐに動揺する。実に心持ちの小さな人種だと思った。
〔略〕深川方面は朝鮮人の死体が方々にあった。やたらに鮮人を殺したものと見え、その数は多かった。何故こんなことをしたのか、こんな所にも、些細な事にすぐ騒ぎ立て、逆上する日本人の狼狽ぶりが見え苦々しく思った。
(宇佐美政衛『回想六十年 - 宇佐美政衛自叙伝』宇佐美政衛自叙伝刊行会、1952年→朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)

宇治橋勝美
〔1日、大島5丁目の会社に着く〕その夜は余震も続き、外国人が井戸に毒を入れたとか、流言が伝わってきた。町内に自警団ができて、怪しい、外国人に似た者は所持品を調べられたりした。
(『関東大震災体験記』足立区環境部防災課、1975年)

江東区大島の概況
亀戸と砂町の間、堅川・横十間川・小名木川・中川に囲まれた地区。
震災時の大島町も亀戸や砂町と同様、地震の被害に加えて多数の避難民が流入した火災隣接地帯だった。
さらにこの地域では、朝鮮人ばかりでなく小名木川で荷揚げ人夫として多くの中国人が働いていたため、彼らの多くも殺された。震災当時、日本人労働者・労働ブローカーと中国人労働者が対立していたことが、虐殺事件の原因でもあった。
しかし何よりも、軍隊と警察が大量虐殺に果たした役割が大きかった。
なお、僑日共済会の会長として中国人労働者のために活動していた王希天(ワンシイティエン)が軍隊に虐殺されたのもこの地域である。

稲築繋
江東地区大島亀戸は、田んぼをオガクズやガスガラで埋立てたところで、地盤わるく軒並に家が倒壊していた。道路の堅い所は無数に地割れしていた。
〔略〕又災害の時に流言蜚語が流れて、外国人暴動説が起きて、夜になると自警団を組織して夜は眠れなかった。大島は乳牛牧場が多く、使用人はほとんど外国人だった。流言にまどわされ罪のない人達が多く殺害されたところです。
(『関東大震災体験記』足立区環墳部防災課、1975年)

内田良平〔政治活動家〕
大島方面において殺されたる朝鮮人は支那人を合しておよそ450名位に達したる〔略〕。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

杉本正雄〔当時府立第二中学校生徒〕
〔1日夜、船で小名木川に逃れ〕やっと〔大島の〕ガスタンクの傍を通り抜けて一息と思ったら今度は「朝鮮人が暴動を起こして川に潜って船べりから船を襲うから船に上げないように」という知らせがあって、私も長い棹を逆手に持って水中に人が見えたらすぐ突けるように鉤を向けて構えていた。今考えると誠にナンセンスである。しかし何ごともなく、そのうち私は疲れていつか眠ってしまった。
(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)

〈1100の証言;江東区/亀戸〉
石毛留吉
〔1日、亀戸萩寺近くの長屋で〕その日の夕方、このような人心不安の中に流言蜚語が撒き散らされた。朝鮮人が襲来して来るから自警団をつくれというのである。自警団というのは在来の町の人だけではない。避難して来た人達が勝手に集団を組んで始められた。私達相扶会(そうふかい)の同志も菊畑の柵の竹を引抜いて竹槍を作って自警団を作ったが、後に東交〔東京交通労働組合〕本部書記になった佐々木嘉助氏は秋田生れで地方訛りがあった為、朝鮮人だと脅かされ危く身に危険を感じた。朝鮮人が押しかけるそんな馬鹿な事がある筈がない、と上野の汽車が動いているそうだから、一応みんな僕の田舎に連れて行くというので翌2日に島上善五郎氏の郷里秋田に引上げた。

この時相扶会の同志一同が立去った後の事、当時亀戸の警察署は今の亀戸駅前にあった。亀戸天神公園で古森警察署長は石油箱の上に立って避難者や群がる人々を前に、危険な朝鮮人や社会主義者の不逞の輩は全部逮捕するからみんな協力するようにと演説した。私も間もなく特高係に引致されて亀戸署のブタ箱入りし地震より怖ろしい迫害と折檻を受けた。亀戸署内の留置場は立ったままのすし詰監禁で道場の中まで超満員であった。デマと流言で逮捕された朝鮮人、労働運動者、社会主義者は秘かに虐殺されて行ったのである。

〔略〕当時は本当にひどいものでした。私たちが亀戸警察署に連行されたときも、人間扱いされなかったですね。本所や深川でもずい分焼けましたが、そのとき、石油かんがあちこちにあってそれが火事でときどきドカーンと爆発する。すると、やれ、朝鮮人が爆弾を投げたなどといわれるのですね。そのときにはもう理くつなどないのですね。朝鮮人が暴動をしている、爆弾を投げている、お前も仲間だろうと、ひざの間に竹刀や木刀をはさんでその上に足で思いっきりたたいたり、のっかかったりするんですね。黙っていれば、なぜ黙っているのかとたたいたり、なぐったりする。そのときにはもう歩けないですよ。
ブタ箱に放りこまれると、留置場の中は一杯で、三畳間の中に50人ぐらい押しこめるので、小便などでも外へ出られないですよ。朝鮮人には身体に(朝)などと一字を書いて、それが狭い中で押しこめられているので汗やらで消えると、このやろうまた消しやがったなあ、とまた書いたりする。こうしたことは、今では信じられないかもしれませんが、事実ですよ。私は幸い、電車を動かしていて、警察官なども乗せたりしていたので、何とか助かりましたが、全く、人間扱いされなかったですね。
(九・一関東大震災虐殺事件を考える会編『抗はぬ朝鮮人に打ち落ろす鳶口の血に夕陽照りにき ー  九・一関東大震災朝鮮人虐殺事件六〇周年に際して』九・一関東大震災虐殺事件を考える会、1983年)

川崎甚一
〔亀戸で〕1日の晩だと思うが、朝鮮人が大挙して東海道を東京へ向かって進撃している、という流言蜚語が飛んだのです。
〔略〕夜になると朝鮮人が田んぼでワーワーと叫び声をあげるのです。朝鮮人を田の中へ追い込んで殺すのです。
(「亀戸事件旧友会聞き取り(4)」『労働運動史研究』1963年5月号、労働旬報社)

鈴木〔仮名〕
本所のほうが燃えているとき、亀戸3丁目から柳島橋を本所のほうへ渡ると、右側に炭屋があってぼんぼん燃えているんですよ。そこへ生きたまま朝鮮人を一人つかまえて投げこんだのを見たんです。夜行って見たから1日の夜だな。たしかに朝鮮人なんです。私にはとてもそんなことはできません。よくそれができたと思って記憶にあるんです。
〔略〕亀戸3丁目でもデマはすごかった。自警団は町内で朝鮮人狩りをやった。泥棒したり、井戸に毒を入れるとか、火をつけたとかいう悪いデマが飛んだから、朝鮮人をつかまえてきちゃ・・・。
(関東太震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

長谷川徳太郎
〔1日〕午後6時頃だと思う。亀戸の天神様付近へ出た。天神の境内を通り抜けようとしたら、境内の要所々々に町の自警団が、鉢巻姿もりりしく腰に白鞘の日本刀を差して、亢奮しながら私に、「どこへ行く?」と通行を断られた。「避難者だ。通してくれ」と言うと、「アイウエオ」を言って見ろと言われ、私は何が何だか判らないが言われるままに、「アイウエオ カキクケコ」とアカサタナを答えると、「ヨシ通れ」と言われ境内にはいって、さらに驚いた。境内にいる自警団の多数の人々が皆、同じ鉢巻姿なのと各々が日本刀を持たない人はほとんどいなかった。どこからこんなに日本刀を集めたものかと驚かざるを得なかった。私は自警団に、「どうしたんですか」と訊ねると、三国人が暴動を起すおそれがあるので警戒している、と聞き、さらに驚いた。(後日流言蜚語)であることが分ったが、この流言騒動がしばらく続く。
(長谷川徳太郎『関東大震災の追憶』私家版、1973年)

東照枝〔当時本所区柳元尋常小学校3年生〕
〔亀戸から中川のヘリへ避難した1日夜〕ここでしんせつな工場の方々と野じゅくをしていると、夜中にかねがなる、たいこをうつ、ピストルの音、ときのこえ「〇〇人だ」と言うこえにびっくりして、その工場のおにわへににげこみました。まっくらの中でいきをころしていると、どをたか「なみあみだぶつ なみあみだぶつ」と言っております。お母様も小さいこえで神様やほとけ様にいのっております。〇〇人にころされるならしたをかんで死にましょうと皆様がきめました。
(「しんさい」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常三年の巻』培風館、1924年)

松本ノブ〔当時28歳。本所横川町で被災〕
〔1日夜、亀戸水神森で〕市内の方を見渡せば、本所深川は勿論の事浅草方面より芝方面に到るまで、帝都一帯の空は溶かした鉄のような凄く恐ろしい真紅の色に燃えています。爆裂弾のようなすさまじい爆音は絶間なく聞えます。不逞の朝鮮人が帝都を全滅させんが為に、燃え残る様の建物に爆弾を投じるのだという噂でした。
(「大正大震災遭難之記」、1924年。武村雅之『手記で読む関東大震災』古今書院、2005年に所収)

宮下喜代
〔1日〕六の橋の、金子鋳物工場が次の避難場所である。ガランとした事務所の中に入ってゆく。あかりもなかった。ここまでくれば火はきそうもない、とふとんをおろして床板のうえにしいてねた。
3日間位、ここにいた。炊き出しのおにぎりを男たちがどこかへもらいにいってきてはみんなでわけてたべた。”飲み水”は、やかんをもってどこかへもらいにいった。
”井戸水をのんではいけない、毒が入っている”といっしょに朝鮮人がどうとか、いうこととが、そのへんにいるひとたちのなかで、なにかひそひそと話されたりしている。
”東京じゅう焼野原だ” ”橋が焼けちまったからどこへもゆけないよ” ”兵隊が出ている” ”亀戸の警察でケンペイがひとを殺したってよ” こどもの耳にもおそろしげな気配が伝わってくる。亀戸警察はここから近い、と余計おそろしそうにいう人もいた。
(宮下喜代『本所区 花町、緑町』私家版、1980年)

〈1100の証言;江東区/砂町・州崎〉
M
1日の晩、砂町小学校に避難しました。「朝鮮人が井戸に毒を入れる」とその日の晩から騒ぎはじめました。「赤ん坊、泣かすな! 朝鮮人が来る。火をつけるな! 朝鮮人が来る!」
〔略〕朝鮮人と間違えられた死体がいっぱい積んであった。みんな竹槍を作って「山と川」合言葉で言えなかったり、とっさに出なかったり、どもったり、ズブツとやられたんだから。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『聞き書き班まとめ』)

〈1100の証言;品川区/荏原・戸越〉
奥宮茂
警備を終えて〔六本木の連隊に〕帰隊すると休止する暇もなく、こんどは桐ケ谷、五反田地区に出動である。朝鮮人の不穏行動に対処する警備出動だと言う。私たちは夜が明けきらないうちに営庭に整列させられた。実弾を各自60発と携帯食料を渡された。教官の中尉は柄の長い軍刀を吊っていた。将校たちもいつもと違った態度で兵隊に命令していた。当時、五反田、桐ケ谷地区には朝鮮人の部落があり、彼らはそこで集団生活をしていて、暮らしは極度に貧しかった。私たちは彼らの生命を暴力からまもるために、トラックで警察署に護送した。
(「軍人として警備にあたる」関東大震災を記録する会編、清水幾太郎監修『手記・関東大震災』新評論、1975年)

鈴木ふよ〔荏原郡桐ケ谷在住。相ケ谷通りで被災〕
〔1日〕早めに夕食の支度をすることにして、外にコンロを持ち出して乾物などを焼いていました。そのとき、3台ほどのオートバイに乗った男の人が、「朝鮮人の暴動だ」と連呼しながら五反田駅方面へ疾走して行ったのです。近所の商店の人たちが血相を変えて、「早く女や子供を避難させるように」と家から家へ伝言し合いました。〔略〕恐ろしい事態を予想しながら、後から追われるような気持ちで、どこをどう歩いているのか、砂利道を延々と歩いて御殿山までたどり着いたのでした。
(「被災後の食料不足に悩む」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

竹内鉄雄〔中延で被災〕
〔1日〕日暮れになっても父が帰らないためどうしたやらと案じているうちに、近所の人たちの間に「外国人の暴動が起きて、日本人は手当たり次第殺されている」との噂が流れ、そして、大井立会方面では自警団ができたなど本当らしく伝えられました。当時は通信の手段が口伝えでしたので、話はだんだん大きくなり、暴徒は多摩川を渡って中原街道沿いに東京を目指している、もう洗足池まで来ていると伝えられ、老人や婦女子は逃げた方がよいだろうと、誰からともなくいわれました。
私の家では父が帰らぬので心配しておりましたが、夜になって近所の人々といっしょに逃げようと決まり、家を戸締りして、母は子供の手をひいたり背負ったりして歩きました。暗い中をあちこち歩き、大きな建物のある森の中も歩きました。後でわかったことですが、そこは目黒の不動様でした。私たちは不動様の境内で何事もなく夜明けを迎え、つかれた足を引きずって中延の方に向かいました。家に着いたら、父や働いている人が元気で馬や牛の世話をしていました。
(「流言にだまされて歩く」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる ー 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

芳根彌三郎
〔1日〕やがて市内方面に爆発音が絶間なしに聞えて来た。目黒の火薬庫が爆発しているのだろうと話し合った。〔略〕午後3時頃1台のオートバイが中原街道を多摩川方面から爆音けたたましくとんで来て、立会川の橋上で只今多摩川を朝鮮人が2千人程大挙して、毒薬を所持し渡河中なり要心ありたし、とさけびながら市内方面へ疾走して行くのだった。
〔略〕伝家の宝刀を横たえ竹槍をコン棒をあらゆる武器を持った青壮年が陸続として中原街道を多摩川方面指して行く。やがて在郷軍人が出て来、乗馬の軍隊が出動して来るに及んで平静になり出した。
(芳根彌三郎『荏原中延史・前編』私家版、1954年)

〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉
秋葉一郎〔当時6歳。上蛇窪で被災〕
時刻はわからないが多分その日〔1日〕の夕方近く父を交えたおとな達が青竹の槍をもって穂先の油焼きの具合を見比べていたこと、竹の鮮やかな青さが眼に残っています。これが記憶の第二章。
さて恐かったのがその日の夜、三井別邸の農園(現在戸越公園のある辺り)の納屋(?)に逃げ込んだは女と子供、真暗い土間に立錐の余地もなく詰め込まれ声を出すと殺されると驚かされ泣声一つない静寂、鼻先は母達の腰ばかりそれでも息を殺して母の手にしがみついていたこと。
(「関東大震災の記憶」震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)

以下の9月2日に続く
【増補改定版】 大正12年(1923)9月2日(その1) 「不逞鮮人」来襲の流言拡大 未明の品川警察署前(東京都品川区)「朝鮮人を殺せ」 午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近(東京都葛飾区・墨田区)「薪の山のように」

【増補改定版】 大正12年(1923)9月2日(その2) 昼 神楽坂下[東京都新宿区] 神楽坂、白昼の凶行 午後 警視庁(東京都千代田区) 警察がデマを信じるとき 午後2時~夜 亀戸駅付近(東京都江東区) 騒擾の街

【増補改定版】 大正12年(1923)9月2日(その3終) 夕方~夜 間違えられた日本人 「千田是也」を生んだ出来事 / 烏山の惨行 烏山神社の13本の椎の木








0 件のコメント:

コメントを投稿