2017年10月20日金曜日

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(3) 「ふと今日は十月十五日にして『ホトトギス』募集の一日記事を書くべき日なる事を思ひ出づ。.....余も何か書かんと思ひ居し故今日は何事かありしと考ふるに何も書くべき事なし。実に平凡極る日なり。」

自宅近くの公園 2017-10-18
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「繃帯取換」のあと

 妹は不潔物を抱へて去り、母は金盥(かなだらい)を持ち来り、窓掛をあけなどす。余は起き直らんとして、畳の上にありし香嚢(こうのう)の房の先のビードロを肘(ひじ)に敷きて、一つ割る。桃色のシヤボンにて手を洗ふ。

 繃帯後のくたびれにてまた枕に就く。今日は暖かなればこの室の掃除をなさんは如何、と母問ふ。余同意す。母は坐敷に寐床を設けて、余に、移れ、といふ。距離僅(わずか)に一間ばかりなれど千里を行くの思ひして、容易には思ひ立たれず。やがて思ひ立つて身を起し辛(かろ)うじて四(よ)つ這(ば)ひになる。されど左の足は痛みて動かず。左の膝子節(ひざこぶし)の下に「足の蒲団」といふ一尺ばかりの小蒲団を敷きてそのまま一分(刻)きざみにずり行く。敷居の難所を越えて、一間の道中恙(つつが)なく、坐敷の寐床に著く。蒲団の上に這ひ上りて、今度は足を障子に向けて北枕に寐ぬ。珍しき運動に腹俄(にわか)に減りたる心地して嬉し。母は掃除せんと箒(ほうき)持ちしまま病室の端に彳(たたず)みて、外をながめながら、上野の運動会の声が聞えるよ、と独り言をいふ。

病室の掃除の為、病室から座敷に移動。
「距離僅(わずか)に一間ばかりなれど千里を行くの思ひして」移動する。
「珍しき運動に腹俄(にわか)に減りたる心地して嬉し。」と。

 硯、紙など復(また)枕元に運ばせたれど一間半の旅行に労(つか)れて筆を取る勇気も出ねばしばし枕に就く。溲瓶(しびん)を呼ぶ。足の尖(さき)つめたければ湯婆(たんぽ)に湯を入れしむ。この頃余の著物はフランネルのシヤツ一枚、フランネルの単衣(ひとえ)一枚にて夜も昼も同じ事なり、ただ肩をもたげて仕事などする時はこの上に綿入袢纏(わたいれはんてん)一枚を加ふ。今日は暖かなるままに足の上に白毛布一枚を掩ひて着蒲団を用ゐざりしほどに足冷えたれば湯婆を呼びしなり。湯婆を用ゐるは一ヶ月も前よりの事なれば今更珍しきにはあらず。

 ややありて頭を擡(もた)げ筆を取る。『ホトトギス』募集の週間日記の手入に掛る。前日の仕残りなり。日記は長くて面白きあり短くて面白きあり。あれこれと清書して今度は最長の日記を取りて少しづつ書直す。これは河内の田舎にありて毎日二里の道を小学校へ通ふといふ人の日記なり。何の珍しき事もなけれど朝から夜までの普通の出来事を丁寧(ていねい)に書き現したるためにその人の境遇の詳細に知らるるが面白きなり。殊に小学校の先生といふがなほ面白く感ぜらる。近来小学教員の不足といふ事が新聞に見ゆる度に余は田舎の貧乏村の小学校の先生になりて見たしと思ひ居りし際なれば深く感ぜしならん。ただ惜むべきは学校における授業上の記事少き事なり。土曜日の清書の段の如く他もありたし。この文長ければ学校外の記事をなるべく簡略にせんとて二、三日分を直しかけたれど寐て書く事故少しも捗取(はかど)らず、右手しびれて堪へ難ければ手を伸ばして左手にて肘(ひじ)を揉(も)む。やがて右手を頬杖(ほおづえ)に突きて暫(しばら)く休む。

 紅茶を命ず。煎餅(せんべい)二、三枚をかぢり、紅茶をコツプに半杯づつ二杯飲む。昼飯と夕飯との間に、菓物(くだもの)を喰ふかあるいは茶を啜(すす)り菓子を喰ふかするは常の事なり。

 惘然(もうぜん)と休み居る内、ふと今日は十月十五日にして『ホトトギス』募集の一日記事を書くべき日なる事を思ひ出づ。今朝寐覚(ねざめ)にはちよつと思ひ出したるがその後今まで全く忘れ居しなり。余も何か書かんと思ひ居し故今日は何事かありしと考ふるに何も書くべき事なし。実に平凡極る日なり。来客も非常に少く、その他家内にも何一つ事も起らぬと見ゆ。猫が鳥籠を襲ふほどの騒ぎは毎日ある事なれどそれも今日はなし。障子に日のかげりたるに最早四時を過ぎたればこの後また人を驚かすほどの新事件起るべくもあらず。何か面白き事はなきかと頬杖のまま正面を見れば正面は一間の床の間にして例の如き飾りつけなり。

特別なことが起こらない平和な一日
『ホトトギス』で「募集」している「一日記事」を書かねばならない「十月十五日」が「今日」なのだと、「寝覚」のとき以来「忘れ」ていたことを、二度目に想起したのは、「最早四時を過ぎ」た段階である。
今現在進行形で読んでいる文章それ自体についての自己言及がなされる場において、この文章の奇妙な構造に読者は気づかされる。
今、自分が読んでいる文章は、その文章で記述されている「四時を過ぎ」た時点では、いまだ書かれていなかった、という逆説に読者は直面させられる。

「何も書くべき事なし」と言っているが、これまで読まされてきたものは、いったい何たったのだろうか。逆説は複数化し多層化していく。
この日一日だけの特別な出来事は何も起きていないが、「三年」以上「毎日」反復し続けてきた「日課」こそが「記事」の中心に据えられていたことを改めて読者は強く意識させられる。妹の介護を受け始めてからずっと、この繰り返しだった。
大切なのは「平常」であり、「平日」の繰り返される病床の日常なのである。

 この例の如き飾りつけといふは、先づ真中に、極めてきたなき紙表装の墨竹の大幅(たいふく)を掛けあり。この絵の竹は葉少く竿(さお)多く、最(もっとも)太い竿は幅五、六寸もあり、蔵沢といふ余と同郷の古人の筆なり。墨色濡(うるお)ふが如く趣向も善きにや浅井下村中村など諸先生にほめられ、湖村(こそん)は一ケ月に幾度来ても来る度にほめて行く。余が家この外に蔵幅なければ三年経ても五年経ても床の間の正面はいつもこの古びたる竹なり。

 竹の下、正面に優美な黒塗の春日卓あり。その上に昨日の俳句会の会稿らしき者載(の)せあり。竹と会稿とは共にきたなき処調和すべけれど、卓は竹とも会稿とも調和せず。

 床の間の右の隅には西洋料理を運ぶ箱の如き上の方のやや細き箱あり。こは抹茶の器を入れたるままある人の貸しくれたるなり。西洋料理の箱に似たるが変なり。余は抹茶を飲まねど左千夫は毎日十服以上を飲むほどの人なれば同氏来るごとにこの箱をあてがひ置く次第なり。その箱の前に秀真(ほつま)の鋳(い)たる青銅の花瓶の足三つ附きたるありて小き黄菊の蕾(つぼみ)を活(い)けあり。すぐその横に、蝋石(ろうせき)の俗なる小花瓶に赤菊二枝ばかり挿(さ)す。総てこの辺の不調和なる事言語道断なり。

 床の間の左の隅の小暗き処には、足のつきたる浅き箱ありて、緑色の美しき剥製(はくせい)の小鳥が一尺ばかりの小枝の上にとまつて居るのが明かに見ゆる外は善く見えず。見えざれど余は固よりこれを知る。この箱に小鳥と共に載せあるは余が今春病床にありて自ら土をこねて造りし三個の宝物なり。第一は四寸ばかりの高さの首なるがこは自分の顔を鏡に写しながら二日を費(ついや)して捏(こ)ねあげし者なれど少しも似ずと人はいふ。第二は右の首の台にもと思ひ五寸ばかりの高さにて円テーブルの如き者を造りそのテーブルの下の台に多くの花と葉を浮彫の如く彫りあり、花は六弁にして何の花ともつかず、葉は牡丹(ぼたん)に似たり、こはラムプの下にて一夜に捏ねたる者なりと誇りかにいへば円テーブルはをかしとて人は笑ふ。とにかくに首台には危ければ首は常におろし置くなり。第三は煎茶(せんちゃ)の湯ざましの一端に蜻蛉(とんぼ)をとまらせその尻を曲げて持つ処にしたるなり。蜻蛉の考へつきは面白しなど俗受善きだけ俗な者なり。右の首を焼いてくれずやとかつて秀真に頼みしに、がらんどにしてなければ焼けずといふ。陶器を焼くといふ某女来りし時また頼みしが、焼かぬ方よろしからんとこれもいふ。因つて首は終に焼かぬ事にきめて今に鼠色(ねずみいろ)なり。

 これらを載せたる箱の前に五、六寸ほどの真黒なる鳥のやや太き枝にとまりたるあり。これは時鳥(ほととぎす)なり。ある人鷹狩に行きて鷹に取らせたる時鳥を余のために特に剥製(はくせい)にして贈られしなり。土の首はこの時鳥のために半ば隠れ居るやうなる位置に置かる。

床の間の飾り物、調度品に関する描写が続く。
伊藤左千夫の来訪時に出す抹茶の道具がある。
(左千夫は、この年1月に初めて来訪。以降、子規門下に入る。
 関川夏央『子規、最後の八年』に詳しい ↓)


つづく


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