2017年12月14日木曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(4) 序章 交差するディアスポラ - 日本人奴隷と改宗ユダヤ人商人の物語(4終)

皇居東御苑 咲き始めた梅 2017-12-13
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ぺレス没後の日本人奴隷たちの運命
期限付き奉公人から終身奴隷に
異端審問記録にあるルイ・ぺレスの財産目録には4人の奴隷が記録されていた。

(第一)二〇歳の日本人奴隷
(第二)別の二〇歳の日本人奴隷
(第三)別の一九歳の日本人奴隷
(第七一)黒人奴隷パウロ

第一項はガスパール・フェルナンデス、第二項はミゲル・ジェロニモ、第三項はヴェントゥーラのことと考えられる。
ベンガル人パウロ・ハシバエールはリストの最後に記載され、1597年12月1日に、マニラ発のガレオン船でアカプルコに到着したという記録が確認できる。そこには「ネグロ(negro)」と書かれている。本来「黒色」を表すこの言葉は当時、「奴隷」の同義語でもあり、黒褐色のアフリカ人奴隷のみを指すわけではなかった。
朝鮮人ガスパールに関するその後の情報はない。転売されたか、あるいはガレオン船がアメリカへ向けて出発する以前に亡くなったのかもしれない。

日本人奴隷3人は、契約上は期限付きの奉公人であり、本来ならば「奴隷」ではない。にもかかわらず、ぺレスの財産が没収された際、異端審問所の代表者らは彼らの扱いを終身奴隷に変更してしまった。この記載変更行為は、誤りや勘違いによるものではない。正規の契約をなかったことにし、法に定められた手続きさえ反故にし、彼らの身分を曖昧な「奴隷」にしてしまうことで、商人たちは自分たちの利益を得ようと目論んだ。期限付きの奉公人と終身奴隷では、その売却値段もまったく異なったからである。

日本人トメ・パルデス
日本人トメ・パルデスは、1577年、長崎に生まれ、1596年以降メキシコに居住していた。トメは、16世紀末に長崎に居住していた新キリスト教徒のポルトガル人フランシスコ・ロドリゲス・ピントに売却され、最終的にスペイン人船長アントニオ・アルソラに売却された。そして、アントニオに伴い、1596年、アメリカ大陸へ渡っていた。
トメは、ルイ・ぺレスの死後何年も経った後、ルイの息子アントニオ・ロドリゲスをメキシコで見かけた。彼は、長崎にいた頃ペレス一家と親しくしていたので、商人アントニオ・ロドリゲスが、ルイ・ペレスの息子であるとわかった。
その後間もなく、トメは異端審問所判事ドン・アロンソ・デ・ベラルタにアントニオを見かけたことを話した。彼は、長崎でぺレス一家と一緒に住んでいたモザンビーク人奴隷の水夫(甲板コーキング作業員)も目撃者であると伝えた。
トメの告発は、メキシコの異端審問所のみならず、長崎のポルトガル人コミュニティにも衝撃をもたらした。ぺレス一家についてのトメの供述はマニラへ送られた。それはおそらく長崎に転送され、当時の日本司教ドン・ルイス・デ・セルケイラ(滞在期間1598~1614)は、この告発の真偽を確かめるべく、新たな調査に着手した。ぺレス一家と交流のあった日本人キリシタンたちの証言をも含むそれらの調査記録は、ペレス一家の長崎での生活に関する重要な資料となっている。

日本人奴隷の不運を知ったペレスの息子たち
一方、ルイ・ぺレスの息子らはメキシコで日本人のガスパール・フェルナンデスと再会し、ガスパールと残り2人の日本人奴隷の不運を知った。"

1599年
最初に、1599年、ガスパール・フェルナンデスの自由民としての身分が立証された。ルイ・ペレス没後、ガスパール・フェルナンデスは残り2人の奴隷と同様、教会の権威者たちに引き渡された。ガスパールは商人トマス・デル・リオに2年間仕え、身体的にひどい扱いを受けた。ガスパールは、ペレスに仕えた12年と合わせ、14年間、「奉公人」+「奴隷」身分を務めたことになる。

日本人ヴェントゥーラの供述は次のようにある。

この町(メキシコシティ)の収容所に収監される(私たち)日本人ヴェントゥーラとガスパールは、(次のように)証言します。私たちは故ルイ・ぺレスに仕えて、マニラから当地へやって参りました。閣下のご命令により、捕らえられ当異端審問所へ連行され、当異端審問所の財産没収官ビルビエスカ・ロルダン殿に引き渡されました。ロルダン殿は現在この収容所にはおりません。そして閣下のご判決により、私たちはルイ・ペレスのご子息に引き渡されることになりました。ご子息らは現在この地域にはおらず、来ることもありません。そして私たちは自由の身となったにもかかわらず、この収容所に収監され続けています。現在、誰一人として私たちに対して、いかなる権利も有しません。

ルイ・ぺレスの息子たちが証言者となる
つまり、日本人奴隷の解放を求める訴訟の最初の証言者となったのは、ルイ・ペレスの長男アントニオ・ロドリゲス(当時28歳)であった。彼は1594年ないしその翌年からメキシコシティに住み、当時はサンティッシマ・トリニダード地区に居住していた。アントニオ・ロドリゲスは、ガスパールを奉公人として雇う契約の際、弟のマヌエル・フェルナンデスとその場に一緒にいたと証言した。
その証言書によると、ガスパールはまだ子供で、日本人の売人が何の情報も提供することなくペレスに売った。そのような売買において、個人に関するいかなる情報も提供されないのは当時、当たり前のことであった。その後、取引を合法的なものにするために、ペレスは長崎のイエズス会のコレジオへガスパールを連れて行った。コレジオの院長アントニオ・ロペスが少年を検査し、購入証明書に署名をした。その証明書には、ガスパールの奉公期間は12年と記されていた。ルイ・ぺレスがマニラの収容所にいた間に、その証明書は異端審問所に没収された。

2人目の証言者はルイ・ぺレスの次男マヌエル・フェルナンデス(24歳)であった。
フェルナンデスは兄の供述に同意しつつ、ガスパールは日本人の奴隷商人に連れて来られ、その値段は銀で10ないし11ペソであったと述べた。さらに、当時は日本人が他の土地から連れてきたり、掠奪した同胞を、ポルトガル人に売ることは日常茶飯事であった、と付け加えた。ガスパールの契約では、文書の取り交わしは一切なく、後日イエズス会によって証拠書類が作成されたのみであった。その書類には、ガスパールは定められた年数奉公し、その後は自由民となることが簡略に記されていた、と証言した。

法廷ではメキシコ異端審問所附属王室国庫の第一財務代表官ガルシア・デ・カルバハル博士は、ガスパールの解放を承認せず、ルイ・ぺレスの息子らはユダヤ教徒の子孫であり、その供述は信じるに値せず、彼らは異端審問所を欺こうとしていると主張した。

次に、1601年末か1602年初め、ペレス家のもう1人の奉公人、日本人ミゲル・ジェロニモ(24歳)も自分の解放を申し立てた。
彼の主張は、主人であるルイ・ペレスが拘留された後、奴隷ではなく、召使いとしてアカプルコまで渡ったというものであった。その後、メキシコ異端審問所の財産没収官マルティン・デ・ビルビエスカ・ロルダンに引き渡され、彼は、契約に定められた期間よりも2年多く計4年間仕えた。
ミゲルも奴隷身分からの解放を求めたが、訴訟の結果については文献が残っていないため、彼が訴訟の途中で他界したのか、解放されなかったのかは、不明である。解放されていれば、おそらくその証明書類が残っているであろう。次の主人であったマルティン・デ・ビルビエスカ・ロルダンは、メキシコ異端審問所の重要な役職を歴任し、最後は金庫管理官として、異端審問所が没収する財産の管理を一手に引き受けて、強大な権力を掌中に収めた。

1604年6月5日
最終的には、ガスパール・フェルナンデスが王室国庫の財務代表官フアン・ぺレスに対して2回目の訴訟を起こした後、ロルダンがガスパール・フェルナンデスだけでなく、同じ身分でルイ・ペレスに仕えていた奴隷ヴェントゥーラも自由の身にすることを告げた。1604年6月5日、最後の審議で、異端審問所はガスパールとヴェントゥーラを、ルイ・ぺレスの息子たちに引き渡すことを決定した。

しかし、ぺレスの息子たちは異端審問所に、2人の日本人を迎えには現れなかった。ユダヤ教徒としてその場で逮捕され、裁判にかけられるのを恐れたのであろう。
とはいえ、メキシコで奴隷にされた2人の日本人の解放は決定的なものとなった。ペレス家の資金援助と危険を犯しての法廷での証言という協力なくしては、それは不可能であったろう
ガスパール・フェルナンデスとヴェントゥーラの2人の日本人は、故郷から遠く離れたメキシコあるいは他の土地で、自由民として生涯を終えたことであろう。

(序章おわり)






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