2017年12月19日火曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(5) 第一章 アジア Ⅰマカオ(1)

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第一章 アジア
Ⅰ マカオ
16世紀後半~17世紀、スペイン・ポルトガル勢力が支配的であった地域での日本人の有り様は、大航海時代のスペイン・ポルトガル両国を出自とする商人たちの交易ネットワークと密接にリンクしている。そしてその中で、「奴隷」的形態にある人々の姿も浮かび上がってくる。
マカオのポルトガル人居留区には、その成立初期から、日本人や他のアジア人種が多数共存しており、その社会構造は、ポルトガル人がアジア各地でおこなった奴隷貿易と密接に関連している。

女性の問題
カトリックの第3回ゴア教区会議(1585年)で決議された第5条は、ナウ船内で、女性奴隷と男性乗組員の間に、宗教倫理上、不適切な関係が生じることが禁じられた。航海中、女性奴隷は男性から隔離された場所で過ごさねはならず、夜間、女性の部屋には施錠されることが、「法律」として制度化された。ポルトガル領インドには、多様な土地から海上交易で奴隷が到着し、また諸国から「非奴隷」女性たちも連れて来られていた。

1598年、日本にいたイエズス会土たちは、ポルトガル人商人と日本人女性奴隷の関係を大々的に批判した。商人たちはマカオへ戻る際に、内縁関係にある女性奴隷を船内の自分たちの部屋に隠して、マカオへ連れて行く習慣があった。第5回ゴア教区会議(1606年)で決議された第3条は、1585年と同様のことを再度指摘した。この規則を破った者に対しては、教会からの破門もしくは200パルダオの罰金が科せられた。

1560年代に来日した多くのポルトガル船は女性奴隷を乗せて出港し、彼女たちはマカオへ送られた後、さらにマラッカやゴアまで運ばれていった。

ポルトガル人が東アジア海域に出入りし始めた16世紀中葉、日本人だけでなく、中国人女性も日本経由で他の地域へ運ばれていった。
1556年には、豊後の大友義鎮(宗麟)と山口の大内議長兄弟が、倭冠によって日本へ連れて来られた中国人を送還するのを口実に、明朝との交易を願い出た。
倭寇による中国沿岸部の略奪とアジアにおける人身売買には密接なつながりがあり、当時東アジア海域で交易を始めたばかりのヨーロッパ人も、そこに関わった。それにより、東アジア出身の奴隷の行動範囲が、ほぼグローバルに展開した。

ヨーロッパへ渡ったある中国人女性奴隷の事例
彼女は中国沿岸部で生まれ育ったが、おそらく倭冠に略奪され、日本へ連れて行かれた。そこで、マカオから来航したポルトガル人に売られたと思われる。キリスト教の洗礼を船中で授けられ、ポルトガル名ヴィクトリア・ディアスという名も授かった。その後、ヴィクトリアはマカオからマラッカ、そしてゴアへと向かった。ゴアではコチンのポルトガル人女性に売られ、しばらくこの女性に仕えた後、再びゴアに送られ、ポルトガルの新キリスト教徒の大商人ミランに転売された。そのミラン一家とヨーロッパへ行き、家事奴隷としてリスボンで働いた。リスボンで何十年も暮らした後ミラン家が異端審問にかけられた際に収監され、こっそり脱獄した後にミラン家の子女たちを連れてアントワープへ逃れた。その後ドイツのハンブルクで暮らし、同地で没した。

日本人少女の事例
1570年代初頭、10歳に満たない日本人の少女マリア・ペレイラがポルトガルに到着した。彼女は20年間家事奴隷として仕えた後、自由の身となった。
ポルトガルには16世紀中頃から、天正少年遣欧使節の到着よりももっと以前から、日本人が存在した。

これらの事例からは、商品の集積地としてのマカオの性格が指摘され、そこに奴隷たちが滞在するのは、概ね一時的なことであったと考えられる。

日本人の女性と男性
マカオ在住の日本人に関する最初の具体的な情報は1583年のものである。それはガスパール・フェルナンデス・デ・メディロスというポルトガル人傭兵の証言に見られる。

私はマカオでキリスト教徒の日本人と中国人女性が、それぞれの夫の不運を嘆いているのを見かけた。両婦人の主人らはマカオの海岸で釣りに興じていた際、中国人の武装した兵士に捕らえられ、首を切断された。そして、マカオのポルトガル当局は、この件に関し何ら対策を取らなかった中国の官吏たちに対して不平を漏らしていた。

この証言にある明朝兵士によるポルトガル人殺害事件に関しては、クリストヴァン・カルドーゾという別のポルトガル人傭兵の証言もある。これらから、彼女たちが奴隷ではなく自由民で、正式な婚姻手続きを踏んでいたことが確認できる。
マカオのコミュニティではその黎明期から、異人種間の結婚と交配が進んでいた。日本人女性の多くは単独ではなく、おそらくポルトガル人のパートナーとしてマカオに居住していた。

1607年~1613年、ペルーのリマ市で実施された住民人口調査では、マカオに住む日本人女性フランシスカ・モソティラとスペイン人パブロ・フェルナンデスの間に生まれた男子が記載されている。彼は成人後、おそらくマニラ発のガレオン船に乗ってアメリカへ渡ったのであろう。
またフィレンツェ人商人フランシスコ・カルレッティの旅行記『世界周遊談』では、1598年3月に日本を発ってマカオへ渡る船の船長が日本人女性とポルトガル人男性の混血であったと記している。おそらくこの船長は、フランシスコ・デ・ゴウヴェアという名の混血で、カンボジア方面の交易で活躍した人物である。
同時代に長崎-マカオ間交易で名を上げた混血児の船長として、かつてイエズス会の同宿でマカオの大商人ぺドロ・ガイオの娘婿となったヴィセンテ・ロドリゲスもいる。

カルレッティはその著書の中で、日本を含む世界各地で奴隷貿易に携わっているので、「奴隷商人」と形容されることがあるが、とりわけ「奴隷」を取引したわけではなく、各地で多様な商品の売買に携わっていて、「奴隷」はそのうちの一つに過ぎないとしている。

マカオには日本人男性も存在した
1582年の遭難事故で、乗組員の日本人男性について知ることができる。この年、悪天候と台風により、マカオから日本へ向かう多くの商品を載せた船団のうち一隻がその針路を誤り、台湾の海岸付近で遭難した。ボルトガル人は1540年以降、台湾に立ち寄ることがあった。この事故に関する一連の報告から、当時のマカオー日本間、いわゆる南蛮貿易航路の乗組員のおおよその人数や人種構成がわかる。
ルイス・フロイス『日本史』には、その船の船員は約200人、うち80人が非キリスト教徒の中国人で、その船の上級船員であったとある。南蛮貿易の船団には、相当数の中国人が乗り組んでいて、その割合は船員全体の40%になる。
イエズス会士アロンソ・サンチェスの記録では、その船の乗組員数は290人以上とあり、フロイスの記録よりも多い。
イエズス会士フランシスコ・ピレスの報告には、「モロ・ジョアンが率いるジャンク船に乗っていた大勢の日本人と共に、砂地が続く海岸にやっとのことで辿り着いた」とある。そのジャンク船の船長はモロ・ジョアンと呼ばれる人物で、その船には多くの日本人乗組員もいたことが判明する。モロ・ジョアンは、後に長崎の頭人となる町田宗賀のことである。つまり、長崎の頭人から町年寄へと出世を遂げる町田宗賀は、若い頃、自分自身でジャンク船を操って海外貿易に従事する船長であり、マカオにも出入りしていた。
これらの史料から初期のマカオのコミュニティを形成する三つの柱(ポルトガル人、中国人、日本人)が見て取れる。
町田宗賀やその手下の者たちも、マカオに住居を持ち、マカオ市の商業活動に深く関わっていた。彼らは中国人と共に活動することもあった。日本人と言っても、その身分は一様ではなく、奴隷、召使いなど使役される立場にあった人々から、自由民、商人、船団の船長まで多様であった。

1590年に書かれたアントニオ・デ・ガルセス(カセレス)の商業日記からは、マカオ港の詳細がわかる。
ガルセスの船がマカオ港に入った際の誘導係は、中国人であった。同時に何人かの中国人の海兵がナウ船に乗り込み、船が安全に入港できるよう監視していた。錨が降ろされると、船員たちは飲み物、パン、肉、魚を買った。そして、ポルトガル系中国人であるガスパール・デ・メーロと、シマン・ミンという2人の通訳(ジュルバッサ)を雇った。ガルセスは総額約372ペソで、船の整備、とくに停泊作業や、槇皮(まいはだ)詰め、釘打ち等の甲板コーキング作業、巻き上げ作業のために、作業員を雇うことにした。作業責任者は、パラッシオ、ペドロ・オルタス、ベロ・デ・ガルシアと呼ばれる中国人であった。さらにガルセスは、ペドロ・ルイス・ジャポンという日本人に対し、船一隻につき2つのロープをかける作業に20ペソを、他の作業に4ペソを支払った。ペドロ・ルイス・ジャポンは、マカオ港では重要な人物であった。

マカオの港湾機能
マカオの主要な経済活動は商品の集荷と海運であった。マカオでは、奴隷や元奴隷の大半は港湾労働者ないしは下級船員であった。マカオがアジア経済の中心地として発展した時期、輸送労働は手短に稼げる方法であった。

ポルトガル人の管理下にあったすべての港町では、奴隷は直接それぞれの主人のもとで働くか、主人の采配によって第三者の監督下の労働に派遣された。これらの労働には賃金が支払われ、その一部(おそらく50%程度)は奴隷本人に与えられた。それは、奴隷の働く意欲を掻き立てることになり、主人にとって好都合な方法だった。一方、奴隷にとっては、ある程度自由に日常生活を送ることができ、また解放を得るための資金稼ぎにもなった。マカオでも同様で、おそらくぺドロ・ルイス・ジャポンは、もともとは日本人の奴隷で、賃金を貯めて自由身分を得た人物であったと思われる。
ペドロ・ルイス・ジャポンは、ガルセスの名前で多くの労働者を雇い、船舶の補修に必要な木材を調達した。労働者らの名前は、アンドレス、バルトロメ・サィアット、フランシスコ・メロ、ロッケ・デ・メロ、フランシスコ・メンデス、フランシスコ・ベンガーラ、フランシスコ・プレット(プレットは黒色を表すポルトガル語で、この場合アフリカ人を指す)、ジョアン・ジャポン(日本人)であった。
日本人ジョアン・ジャポンは、最も卑賎な仕事に従事する賃金奴隷で、その賃金はわずか半ペソであった。労働者リストの中で、ジョアン・ジャポンは最後に掲載されている。他の奴隷の国籍、たとえばフランシスコ・ベンガーラはベンガル地方出身、フランシスコ・プレットはアフリカ出身であると推測できる。残りの者に関しては、その名前から出身地を知ることはできない。ポルトガル人の名前を持つ者は、彼らの主人の名前を有していたと思われる。たとえば、ロッケ・デ・メロはおそらく、1590年から91年、マカオ市のカピタン・モールを務めた、ロッケ・デ・メロ・ペレイラの奴隷であったと思われる。

この他、マカオには、ポルトガル人の家庭に仕える別の種類の日本人(家事奴隷)がいた。家事奴隷は主人に従属し、水汲みや食糧の調達、料理、掃除、伝令、主人の子供らの子守、主人の移動付き添いなどを務めた。1607年~08年にデ・ブレイ兄弟が編纂した東洋への航海記録集『大小の航海録』に収載されるマカオを描いた図からは、マカオの奴隷に関して多くの情報が得られる。そこには、農村の風景、漁業の様子、船から陸へ商品を運搬する作業等が描かれ、行商人2人が商品を売り歩く姿、輿を担いたり、日傘を差す奴隷たち、武装した奴隷/傭兵が騎乗のポルトガル人を護衛する様子などが観察できる。

(つづく)





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