2018年2月27日火曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート2 (明治9年~11年)

北の丸公園 2018-02-26
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明治9年
つかの間の民主主義
明治9年6月、安岡良亮知事は臨時県民会を開いた。
この県民会議員は、身分や納税額にかかわらず、男子の戸主全員に選挙権が与えられた選挙によるものであった。女性の戸主には選挙権がなかったが、納税額の多寡によらない画期的な制度であった。護久の「知事布告」の精神が生きていた。
案山子はその議員に選ばれた。案山子らは、県知事の任命制だった区長や戸長を公選制にするべきだと主張したり、それら役職者の給料増額案に反対し、建白書を県に提出する。しかし、県民会は、知事の諮問機関という位置づげだったため、それらの主張は知事によって拒否された。
このため、県内各地で農民の暴動が起こる。そこには、民費の増大や、区長や戸長が郷備金を私物化していることに対する不満もあった。

案山子は、小天村で、はやる農民を抑えて、次のようなことを行った。
暴動の主張を抑えて人々を地域ごとに21組に分け、それぞれ数名の委員を出させ、その委員を蒙正館に集めて互選で議長を決め、議会を組織した。そしてその話し合いの中で区戸長に対する要求をまとめ、それに対する回答を求めさせた。区戸長は病気を理由に回答を拒否する。すると案山子は、村役場の帳簿を押収して委員たちに調査させ、区戸長の不正や失態を明らかにして、辞職させた。
つまり、臨時ではあったが、村の問題を議会という民主的な形式を貫いて解決した。それによって暴動は激化することなく収まり逮捕者は出さなかった。

案山子のこの鮮やかな手腕に、知事は彼に区長となるよう命じた。区長公選を主張する案山子は、何度も辞退したが、熱意に抗しきれず引き受けた。そして区長という立場で、西南戦争において郷備金を守りきった。

明治10年
この年の西南戦争に際し、西郷軍に走る人が多い中で、区長職にあった案山子は、西郷軍にも政府軍につかない厳正中立の立場を表明した。
そして、西郷軍からも政府軍からも、郷備金引き渡しの要求が来たため、玉名郡の「郷備金」2万円余を守り抜くため数十人の青年を私費で雇い、交代で警備させた。

この時、卓は9歳。両軍の衝突が村の内外でもくり広げられ、屋敷の中も戦闘態勢にあった。その闘いの中で、命を落とすかもしれないと覚悟する父の姿を見る。

「郷備金」は、熊本藩が、年貢とともに徴収した雑税の一部を、「手永(てなが)」(いくつかの村の集合体である行政区分)ごとに備蓄した資金で、災害復旧や道路の整備、橋の建築、灌漑用水や溜池の新設など、村の公共事業に使うための共有財産である。ところが、明治維新によって地方制度が変わり、手永が廃止され、この資金の所有主体が曖昧になると、区長や戸長がそれを私物化することもあり、それに対する一揆なども各地で起こった。当時の2万円を明治初年の白米の値段(10kg22銭)で換算すると、今の金額にして約6億円になる。

案山子は政府軍にも西郷軍にも属さず、「郷備金は民を救うために使うもの」という考えを貫いた。その結果、どちらからも敵側の内通者とみられ、西郷軍には殺されかけたし、西郷軍敗北後は政府軍に捕われ5ヶ月間も拘留された。

案山子と池辺吉十郎
案山子は、旧知の間柄だった熊本隊隊長池辺吉十郎(漱石を『東京朝日新聞』に招いた池辺三山の父)に熊本の陣地に呼びつけられた。案山子は死を覚悟し、辞世の歌を詠んで出かけた。しかし、吉十郎の説得にも案山子は譲らず、話は決裂し、案山子は牢に入れられた。
案山子は、政府軍から逃れる池辺吉十郎の家族を自宅にかくまっていたが、吉十郎にはそのことを告げなかった。案山子が吉十郎に呼び出されたことを知り、吉十郎の父親が陣中に駆けつけ案山子は窮地を脱することになる。事情を知った吉十郎は案山子に自分の無礼を詫びた。

明治11年
海辺新地問題
案山子はこの年からの「海辺新地問題」(江戸時代に海面を干拓し埋め立てた新地の地主権を巡る問題)でも、その交渉術の巧みさとねばり強さを発揮し村民の要求を通していく。

江戸時代には、資金を提供した築造主と、実際に干拓しその土地の耕作をする者の両方が地主権を持っていた。そのため維新後、地租を納めるべき地主を特定できず、初めの地租改正では放置されていた。政府は、地租再改正に際し、築造主と耕作者が話し合いで決着するよう求めてきた。築造主の多くは藩あるいは藩主であり、藩主が地主であるという結論になりかねないが、案山子は、耕作者の地主権を主張した。
各役場の土地帳簿によれば、地所の売買、譲与、質入れ、書入れ等の権利を持っていたのは耕作者なので、当然、地主は耕作者である。その代わり耕作者は、築造主に対して徳米という税を払ってきた。もし政府が徴税権を主張するのであれば、築造にかかった費用を築造主に払い、その権利を買い取らなければならない。また、築造主を地主とするならば、耕作者がそれまで持っていた権利と払った労力に対して保証をしなければならない。
案山子は、築造主と耕作者がそれぞれ持っていた権利の質を明らかにし、その権利を政府が奪うのであれば、それに対する保証があってしかるべきだと主張した。江戸時代の仕組の現実を踏まえ、あくまで耕作者の側に立ちながら、築造主側とだけ争うのではなく、問題の矛先を新政府に向けた。直接には築造主側との交渉であるら、決定的に対立するのではなく、政府に対して共闘する余地を残した。

そして2年間の交渉の末、明治12年10月、次のような解決に至る。
「築造主を地主とするとともに、地先人民〔耕作者のこと〕は永小作人とすることに決定した。〔略〕さらに政府は永小作人に対して明治一〇年からかぞえて一七年間免訴を与える」 (加藤豊子「熊本の自由民権家 前田案山子とその周辺」)。
「永小作権」は、地主の意志にかかわらず、土地の処分などもできるという、普通の小作権よりも土地に対して強い権利をもつ制度である。つまり、築造主を地主とする代わり、耕作者には「永小作権」を与え、更に17年間小作料も無料にするという内容だ。
この結論を引き出した案山子の、近代的な権利意識と経済観念の高さ、交渉術の巧みさは相当なものだ。

小天の湯の浦の別邸
この年(明治11年)、案山子は、将来の自分の隠居所として、あるいは中江兆民や岸田俊子ら政客をもてなすため、小天の湯の浦に温泉つきの別邸を建てた。漱石『草枕』の「鏡が池」のモデルとされる、池のあるもう一つの別邸もすぐ近くにあった。
漱石らが入り今も残る別邸の湯船は、セメントで作られ、小さなプールといった趣である。尾張藩出身、工部省技官宇都宮三郎が日本初の官営セメント会社を設立し、少量の製造に成功したのはその3年前のことで、製造量を増やすようになったのは明治10年頃とされるので、別邸の湯船は、当時としては最先端の技術で作られたことになる。

(つづく)





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