2018年4月10日火曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート15 (明治34年~35年)

北の丸公園
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明治34年~35年
前田家の財産を巡る争いと前田家の崩壊
卓の財産分けの要求は、親子兄弟間の確執になり、まだ家督を譲らない案山子のもとに卓、行蔵、九二四郎らが集まり、一方で妻が実の姉妹である長男下学と次男清人が結びついた。下学は東京で事業を行っており、小天では清人が矢面に立っていたが、明治33年3月、清人は37歳の若さで亡くなる。卓の4歳年上のこの兄は、外で活躍する案山子と下学を支え、卓とともに前田家の資産を管理する立場に甘んじていた。

清人の死をきっかけに、案山子や卓らと下学の対立は加速する。そして翌明治34年12月24日、前田家本邸が火災で焼失したことで対立は決定的になる。案山子は別邸にいて愛人林はなと同居していた。旅館でもあったその別邸を、卓が取り仕切っていた。そして、清人が亡くなり、下学もいない本邸を、母キヨが守っていた。けれども火災があった日、母は鏡が池のモデルとなった池のあるもう一つの別邸にいて、本邸には使用人だけがいる状態だったという。二つの別邸は道をはさんで隣接しており、たやすく行き来できた。失火説、放火説などがあるが、真相は不明。

それに先立つ11月、案山子は下学に家督を譲り、完全に隠居していた。その時、財産分けについて、何らかの妥協があった。しかし本邸は焼失し、財産は大きく目減りした。この本邸焼失をきっかけに、財産分与問題は裁判に持ち込まれる。けれどもなかなか決着がつかず、最終的には県知事が乗り出して十分割案で収まった。十分の六を下学と清人の遺族が受け継ぎ、残り十分の四を、卓、槌、行蔵、九二四郎、寛之助、利鎌の六人が平等に分けて分家とした。

このお家騒動については、争った双方の立場から、下学の長男学太郎が書き残した記録と、案山子の甥前田金儀の「明治三十五年 雑録」がある。
学太郎の「遺稿」の中に「(十六)お家騒動」の題で2ページ余りが記されている。学太郎は、まだ10代の若者ながら、清人の入院以来、父親の名代として東京から小天に来ており、いわばこの騒動の当事者の一人だった。本邸焼失後も、焼け跡の蔵の二階に寝泊まりしながら、騒動の行方を見守った。「此の不祥事は自分の脳裏に深く刻み込まれ忘れ得ざるところなるも、記して何ら益するものに非ざれば略す」と、頻末だけを簡単に記している。
記録は、「本宅全焼に先立ち、父が家督相続をしたにつけお家騒動が起こった」という書き出しで始まる。発端については、「予て快からず思っていた父母〔下学夫妻〕に、お卓伯母さん達のこと故、兄弟達を疎外するに違いないと、〔略〕お祖父さん〔案山子〕を口説き落とし、お卓伯母さん達兄弟が隠居取り消しの訴訟を起こしたのが始まり」という。つまり、学太郎の両親と卓ら妹弟はかねて仲が悪く、家督を譲ったことで自分たちが疎外されると思い込んだ卓らが、案山子を説得し、その相続を取り消す訴訟を起こしたという。争いは、小作人も巻き込んで3年余り続いた。「祖父方は小作米を差し押さえ、行蔵九二四郎の両伯父は、夜中大刀を腰にして小作人住宅の周囲を徘徊して威圧する狂態を演じた」という。

一方、前田金儀の「雑録」は、明治35年正月明けからの、裁判の流れを追った日記で、案山子側と下学側の要求ややりとりが詳しく書かれている。金儀に田尻東平、田尻準次、田尻於菟来馬ら親戚と、行蔵、九二四郎が、一団となって案山子のもとにかけつけた。彼らは小天と熊本を何度も往復し、宿に泊まって、毎日のように下学と交渉したり、弁護士との打ち合わせを行い、裁判所に書類を提出した。卓もときおり連絡に熊本まで出かけた。こうした行動はすべて案山子の指示で行われ、「案山子様」という呼び名が何度も出てくる。裁判所に書類を提出したときは、「本日いよいよ開戦の矢を放てり」と書かれている。一方で、この記録には、案山子が苦衷を和歌に詠んだり、母キヨが号泣したという記述もある。

争いは、下学の家長としてのプライドと常識に対し、妹弟は長男の付属物ではないとする卓の主張から始まった。その主張に案山子も弟や妹たちも、周囲の親戚も賛同した。
そして最終的には、「裁判長検事の調停で」、「不動産を父が五分五厘祖父が四分五厘に分割する条件で成立」したと、学太郎は書く。当時の不動産は、「政治運動に失われて半減したといわれながらも未だ四十町歩ほどあった」という。その宅地、田、畑、山林などの一つ一つを五・五と四・五で分け、さらに不動産以外の書画骨董などの財産をふくめての最終的な分割が、下学六、案山子らが四ということになった。学太郎によれば、卓たちの側が書画骨董を多く取ったとされる。

それにしても学太郎が嘆くのは、そこまで両者の間がこじれたことであり、この3年間の訴訟沙汰でさらに財産をなくしたということだ。「双方三年間に費やしたる莫大の費用は逆に没落の悲運を招いた。行きがかりとはいえ是ほどの愚挙を祖父も父もどうして気づかなかったろう」と。
「愚挙」ではあっても、なさねばならなかった。それが前田家一族の姿なのだろう。卓だけでなく、下学も他の妹弟も、そうした愚直とも言える熱い血を案山子から受け継いだのだ。たとえ家産をなくしても、自分が正しいと思うことにしたがって疾走せずにはいられない。

けれども、彼らがこの争いをいつまでも引きずらなかったことに救われる。それからほんの数年後、卓が中国同盟会の民報社で働くようになると、下学もその協力者として再び登場する。晩年の卓、槌、九二四郎らは、下学の家と盛んに行き来していた。

(つづく)




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