2018年9月17日月曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その4)「〔略。2日〕夜が明けるが早いか巡査がやって来て、一軒一軒に「かねてから日本に不安を抱く不逞〇人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなことを知って、それにつけ込んで暴動を起こそうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じ急に起って市中各所に放火をしたのだそうです。又横浜に起ったは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺してしまい、段々と東京へ押し寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう怖くて怖くて生きた心地もなく.....」    

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その3)〈1100の証言;品川区/鈴ヶ森〉「「朝鮮人が井戸に毒を入れるから、朝鮮人を見たらぶっ殺してもかまわん」っていうようなお達しなんですけれども、私の町会でも3件そういう事件がありました。しかし殺されたのはみんな日本人だったですね。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;渋谷区〉
猪鼻虎雄〔当時渋谷町下渋谷在住。東京府庁で被災〕
〔2日夕、下渋谷で〕西郷山の方から小銃の音が聞こえてきた。その内に大砲の音まで轟いてくるので、不審にしていると、下の道をぞろぞろと人々が続いて来るので、何事かと思って、その人達に聞くと、朝鮮人が、多摩川を渡って攻めてくるのだという。老人を背負ったり、米櫃を持ったり、風呂敷袋を下げた人が、ぞろぞろと続いているのである。そして下の路の突き当りのえびすと渋谷の中間である省線の線路みちの方へ、続々と流れているのである。そのうちに、自転車に乗った男が蒼くなって、朝鮮人の一隊が、駒沢の方から、こちらへ押し寄せて来つつあるという。信じられぬことで、何が何だかわからないが、兎も角も近隣の人々と共に、私とS君がステッキを持ち、父は妹ちょう子を背負い、母と妹静も一緒に、人々の流れの中に加わったのである。
線路際まで出てみると、かなり広い省線の線路の柵内は、周辺から逃げこんだ人達でいっぱいであった。私は青山学院の朝鮮青年も一緒に連れていたのである。
そのうちに日も暮れ、どこから来たのか在郷軍人の服装の男が、提灯を持って線路わきの電信柱に昇り、敵はいま、どこそこの方面(よく聴き取れなかった)に去ったから引挙げて下さいという報告をし、間もなく群衆も引挙げはじめたのである。父が先に家の下の石垣のところまで戻ったら、日本刀の抜身をさげた男が立っていたので、父が誰かっと怒鳴ったら、日本人ですと答えたという。その夜、私達は遅くまで空家の前の広場にかたまっていた。どこから起ったものか、2日の夜から朝鮮人騒ぎが不思議に関東の広い範囲にわたって、混乱した人心を、更に極度な不安におとし入れたのである。
それからは自警団が組織されて、若い私とS君などは、近所の退職在郷軍人に指摘されて、鉢巻に竹やり持参といういで立ちで、夜毎に暗い小路を夜警に出たのである。〔略〕また、そのころ朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、目黒の火薬庫に入ったとか、いろいろとデマが飛び、早朝にわれわれ自警団員が一列縦隊となり西郷山を山狩りさせられたこともあったが、猫の子一ぴきも出なかったのである。(1925年記)
(猪鼻虎雄『生きていたしるし - わが人生記録・青春編』私家版、1977年)

岩崎之隆〔当時麹町区富士見小学校6年生〕
〔1日夕〕その内に誰言うともなく、○○人が暴動を起こしたとの噂がぱっとたち、それで無くてさえびくびくしている人達は皆ふるえあがって、そして万一を気づかって多勢の人が竹槍を持ったり、鉄棒を握ったり、すごいのになると出刃包丁を逆手に持って警戒をし始めた。而して〇〇人だと見るとよってたかってひどいめにあわせる。前の通りでも数人ひどいめにあわされたと言うことである。その暮れのものすごい有様は、今でも思いだすとぞっとする。
〔略〕裏の門田の叔母さんが、今夜の11時頃と、明朝の3時に又大地震があるから気を附けなさい、と交番に警告してあったと告げて下すった。〔略〕1時頃になると代々木の原の側の半鐘が急にヂャンヂャンヂャンヂャンヂャンと激しく鳴り出した。〔略〕そして話を聞けば今すり番をならしたのは、〇〇人が代々木に再び入った為、非常召集をやったのだそうだ。
〔略。2日〕夜が明けるが早いか巡査がやって来て、一軒一軒に「かねてから日本に不安を抱く不逞〇人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなことを知って、それにつけ込んで暴動を起こそうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じ急に起って市中各所に放火をしたのだそうです。又横浜に起ったは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺してしまい、段々と東京へ押し寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう怖くて怖くて生きた心地もなく、近所の人と一つ所に集って、手に手に竹槍、バット等を持って注意していた。
午前10時とおぼしい頃、坂下の魚屋や八百屋の小僧等が、わいわい騒ぎながら僕の家の前へ入っていった。何事かとこわごわ聞いて見ると、「前の家に〇〇人が入ったようだというので皆で探しに来たのだ」と言う。どうか早く捕まってくれればいいとびくびくしながらも、こわいもの見たさに門の所に出て見ていた。その中に段々人も大勢きて前の家を包囲しながら中を探し出した。けれどもそれは何かの間違いだったのだろう。幾らさがしても出ないので、皆はどんどん帰ってしまった。それで僕はほっとした。
余震は中々ひどく揺すってまだまだ安心出来ない。東の空を見ても火事はまだ消えないと見えて真赤である。その中に町内の若い人達が来て「今度は〇人が井戸に毒を入れ、又爆弾を投げるから用心して下さい」と警告してくれた。皆は又々震え上ってしまった。時々グワウガラガラ・・・と耳をつんざくばかりの音が聞こえる。皆あれは〇人が爆弾を投げた音だとか、或は火事と地震で物の崩れる音だとかいろいろ噂し合っていた。
(東京市学務課「東京市立尋常小学校児童震災記念文集」1924年→『新版・千代田区史・通史資料編』千代田区、1998年)

大岡昇平〔作家〕
〔中渋谷716番地で2日〕午(ひる)すぎ、横浜の朝鮮人が群をなして、東京へ上って来るという流言が伝わって来た。二子玉川まで来ているということだった。
縁側に坐っていると、騎馬の兵隊が家の前の坂をギャロップで降りて行った。小石が蹄ではじき飛ばされ、板塀に当って、パチといった。駒場の奥の近衛騎兵連隊からどこかへ伝令が行ったのだろう。あご紐をかけた兵隊の頭が、塀の上に見えたので、私はパチという音のもとが小石であることを知っていたのだが、茶の間へ行ってみると、誰もいない。母も姉も弟たちも、鉄砲の音と早合点して、裏庭の隅の納屋にかくれていたのだった。
〔略〕まもなく朝鮮人が三軒茶屋まで来たといううわさが入った。それから弘法湯まで来たということになるまでに、5分とかからなかった。ラジオもない頃で、情報がどうして入ったのか、覚えはない。誰かそんなことを表を怒鳴って歩く人がいたような気がする。もう少し北の富ヶ谷の方では騎兵が乗り廻して、朝鮮人が来るから警戒せよ、とふれ廻っていたという。〔略〕女たちと弟は毛布を持って、鍋島侯爵の庭へ避難した。その晩から自警団が結成された。
(大岡昇平『少年 -ある自伝の試み』筑摩書房、1975年)

金子洋文〔作家、政治家。代々木神宮裏の長屋で被災、原っぱに避難〕
翌日〔2日〕から朝鮮人の暴動の宣伝が始まり、代々木の原っぱをよぎって襲来する、住民は神官裏の山内子爵邸に避難せよと、大声でふれて疾走する。しかし私はこの宣伝を信用しなかった。なぜなら、両隣の左方には朝鮮人の土木建者が住んでいるし、右方には朝鮮人の留学生が5、6人住んでいたが、これらの人々はヒソとして音もたてないで日本人の蛮行をおそれて、ひそんでいる。
(『月刊社会党』1983年9月号、日本社会党中央本部機関紙局)

神近市子〔婦人運動家。渋谷豊沢で被災〕
〔2日午後、流言が伝わると〕私どもは半信半疑で、たがいに顔を見合わせた。否定も肯定もできなかった。ありえないことにも思えるし、植民地化された国の人たちが、日本での境遇に不満があることは当然のようにも思われた。夕方になると、町をあげての避難さわざだった。昨日は余震を考えての避難だったが、今日は万一のことがあれば、家が焼き払われるか、屋内が荒らされると考えなければならなかった。〔略。荒地へ避難して〕提案した人の発議で、男子は夜間は交代でその一画を見回るということになり、夫と2人の青年も交代でその任務についた。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)

河合良成〔政治家。当時東京株式取引所勤務。渋谷神山町在住〕
〔2日〕参謀本部では高級肩章をつけた軍人が、部下に指令を与えていた。すでに朝鮮人暴動の話が出ており、その対策を指示していたのである。
〔略〕2日夜、人々は朝鮮人暴動の噂を聞いて、戦々兢々としていた。そのときは誰も嘘とは思わず、真剣そのものだった。私の宅の付近に回ってきた騎馬巡査に聞くと、朝鮮人は唯今渋谷の先の三角橋まで押し寄せてきているという。朝鮮人が井戸に毒を投げ込むというので、その警戒もした。近隣の人々が逃げ出すので、私も代々木の原へ逃げた。が、夜の1時、2時になっても暴動来襲の気配がないので、また家へ帰った。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)

九重年支子〔発明家。当時17歳。渋谷桜ヶ丘で被災〕
2日目ぐらい、まだ余震で庭に皆避難しているとき、夜警の一人が「お宅の庭に誰か逃げて隠れているように思うのでさがさせてください」と言う。母はどうぞと言ったが、首をかしげていた。外には夜警が人が通るたびに、「誰だ!」とどなっていた。道玄坂の中将湯のそばで、誰か、と聞いても返事しないので刀で切り殺されたという話が伝わってきた。皆殺伐となり、流言飛語が飛び交っていた。地震よりこのほうがこわかった。
(九重年支子『今は昔のつ・づ・き』主婦の友社、1989年)

瀧富太郎〔日本橋堀留町で被災、淡谷道玄坂へ避難〕
〔2日〕「今暁、朝鮮人の暴徒が横浜に上陸し、今夜あたりは玉川から渋谷を経て帝都を、大挙襲撃するそうだから、渋谷は危険だ」などというデマが飛び、大勢の店員や家族をかかえて、私は随分気をつかいました。
(瀧富太郎『風雪七十年 - 自伝』私家版、1962年)

梨本宮伊都子
〔9月2日、渋谷宮益坂の梨本宮邸で〕夕刻、又々行水して、はじめて家の内にて夕食をなし、追々おちつくならんとよろこびいたるに、火事の鐘の音きこえたる故、裏に出みるに、人々さわざ、いたずらに、やけない家に火をつける人がある。大へん大へんと云いつつ通る人あり。又、東北の方にあたり火の手はエンエンとあがり、又々、昨夜の如く雲も赤くなりつつあり。いずこならんと思う内、宮様、表よりかけてならせられ、朝鮮人の暴徒おしよせ来り今三軒茶屋のあたりに300人もいる、それが火をつけてくるとの事。
これは大へんと家に入、色々大切なる品々とりあつめ鞄に入れ、衣服をきかえ、立のきの用意し、庭のテント内に集まり、家中の人々、皆々庭に出、火をけし、恟々たる有様。日はくれる。心細き事かぎりなし。遠くにて爆弾の音などする。
松平信子〔伊都子の実妹〕は節子を連れ避難し来り。恆雄・一郎は護身用のピストル・鎗等持ちて家の付近を警戒するよし。その内、兵隊12名・憲兵3名・巡査も来り、邸内のすみずみそれぞれかため、テントのまありも兵と家の人々にてかため、いつにても夜はふせぐ有様ものすごし。いまだ、もう、せんなし。運は天にまかせ、もろもろの神の御守護をまつのみと、一日おがみてしずかにテント内にいる。
やがて門内には町よりの避難民ぞくぞく入りこみ、玄関前など2千人余もいる。この時の心というものは何もなく、只、無事ならん事のみ、心に神をいのるのみ。
10時ごろ、呼子の音して町の方そうぞうしく、何かと思えば、今こっちへ朝鮮人にげこんだ、いやあっちと外は外にて人ごえ多く、兵は猟銃をつけ、実弾をこめてはしる。その内にピストルをうつ音、小銃の音、実に戦場の如し。やがて又静かになる。今、宮益にて百数名、六本木にて何名とっつかまったとの事。夜通しおちつかず。一同テント内にて、夢うつつの如くしてくらす。
(小田郁雄次『梨本宮伊都子妃の日記 - 皇族妃の見た明治・大正・昭和』小学館、1991年)

原田茂〔デザイナー、文化服装学院名誉学院長。千駄ヶ谷で被災〕
翌日〔2日〕くらいから周囲の雰囲気が奇妙に殺気立ってきました。朝鮮人が暴動を起こすとかいう噂がとびかい、自警団が組織されて、男の人たちが恐ろしい形相で棍棒や竹槍を持って、街角に立っています。夜は危険だから出てはいけないと言われるし、再び地震があるなどという噂もあって夜もおちおち眠れません。
(原田茂『たてよこの糸 - 洋裁教育五十五年』文化出版局、1978年)

原田静江〔助産師。広尾で被災〕
2日の日には、朝から大井や川崎の方から人が大勢通るの。朝鮮人が攻めて来るからお逃げなさいって町会の人がいうの。ところが、築地の方の人が臨月なの。子供や人夫4、5人連れて荷車で家に来るの。陣病はひどくないけど、ショック受けてるんですね。1日の昼からなにも食べていないというので、子供や人夫にもご飯を食べさせ、世田谷まで行くというので、お弁当を持たせて出さしたの。そのうち、あっちからもこっちからもお腹が痛いとやってくるの。なかなか麻布三連隊へ逃げれないの。夜になって「朝鮮人はおりません。安心してお宅へお帰り下さい」といわれた。
(『助産婦雑誌』1967年6月号、医学書院)

つづく



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