2018年10月11日木曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その23)「鮮人200名余り或は船に乗り或は泳いで月島に襲来した。そこで兵士が25名ばかり警戒のために上京し「鮮人は殺してしまえ」と命令したので島民は必死となって奮闘し片っぱしより惨殺した。それは実に残酷なもので或は焼き殺し或は撲殺し200余名の血を以て波止場を塗り上げられた。そしてさきに捕縛した者まで殺しつくした。〔略〕自分なども最初の一人を殺す時はイヤな気持もしたが、3人4人と数重なるに従って良心は麻痺し、かえって痛快な気特になってあった。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その22)「暴動鮮人は自衛上これら防護団のために殺され又は捕縛されたが、最も多いのは2日朝上野東照宮前に200人捕縛されているのを実見した。それらはことごとく顔面手足ともに血みどろで労働者風のもの、学生、乞食の姿、鮮婦人も混じっていたが、自動車でドシドシ送っていた。」
から続く

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;台東区/橋場・山谷〉
松本君
〔山谷で焼けトタンで囲い〕2日の夜、もう寝ようってんで、女どもがまん中へ入って、男の人たちがへりへずっとなって。そうしたら、夜中の1時頃だったか、ピタピタピタピタ、誰かが歩いて逃げてくるようなの。何だろう、おっかないね、って小声で話してね。するとすぐにね、軍隊かなんかでしょうが、焼けトタンをパンパンはたいてね。「いま、ここへ誰か逃げてきてかくれてないか」っていうんです。そのいい方がすごく乱暴でした。それで中へね、抜き身の剣をずっと突っとおしてね。父親たちがトタンをあげて見せたらいないとわかったのか、それからまわりじゆうのトタンをたたきながら、向こうの方へいきました。でも凄くこわい思いをしましたよ。
(『古老がつづる台東区の明治・大正・昭和』台東区教育委員会、1981年)

〈1100の証言;中央区〉
岩野ハナ〔当時東京市立京橋高等小学校専攻科1年生〕
〔2日夜、浜離宮で〕夜中にふと眼を覚ますと、竹の棒をもって騒いでいました。お母さんに聞くと、不逞鮮人が来たと言うことです。昨日の恐しかったのが未だ覚めないうち、又こんな恐い思いをするのかと、首を締めて堅くなっていました。3日の夜も騒ぎました。
(「大震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)

蛯原詠二〔当時『いはらき新聞』記者〕
「草の中へ首を突込み窒息を免れた恐ろしい一夜」 (京橋三十間堀本社在京記者姥原詠二氏遭難談)
〔2日、浜離宮で〕夕刻になると、大井町方面に集まった2〜3千人の鮮人が離宮の倉庫を目がけて襲来するという噂が伝わった。離宮を護っている近衛兵が喇叭で警戒信号をする、女、子供は悲鳴を挙げる、まるで戦場の騒ぎ。男達は兵士と一緒に門を護ることになったが、突然裏の濱手にときの声が上ったので、「それ鮮人だ!」と騒ぎ出したが、それは月島を追われ大川へ飛込んだ鮮人200〜300名の中の10名ばかり離宮の石垣へ這い上ったのを撃退した声とわかってようやく胸をなでおろした。それからは鮮人襲来の防禦に疲れ切り〔略〕。
(『いはらき新聞』1923年9月8日)

小笠原吉夫
「鮮人の爆破に月島忽ち全滅」
〔月島3号地の鉄管置場で〕翌朝〔2日朝〕に至って警視庁より「鮮人は爆弾を所持して工場その他を爆破し又井戸に毒薬を投じている。鮮人を見つけたならば直に捕縛せよ」との達しがあった。これで対岸の火災の原因もわかり又島内の爆音の正体も明になった訳だ。
〔略〕鮮人200名余り或は船に乗り或は泳いで月島に襲来した。そこで兵士が25名ばかり警戒のために上京し「鮮人は殺してしまえ」と命令したので島民は必死となって奮闘し片っぱしより惨殺した。それは実に残酷なもので或は焼き殺し或は撲殺し200余名の血を以て波止場を塗り上げられた。そしてさきに捕縛した者まで殺しつくした。〔略〕自分なども最初の一人を殺す時はイヤな気持もしたが、3人4人と数重なるに従って良心は麻痺し、かえって痛快な気特になってあった。
(『山形民報』1923年9月7日)

高瀬よしお
当時私は東京の月島二号地に住んでいました。家は新築したばかりでつぶれませんでしたが、外の空き地に避難した私たちは、火災を逃れる群衆におされて三号地へ逃げました。
三号地の土管材料置場の小屋の中で一夜を迎えた翌日〔2日〕、水を求めて外へ出ると、5、6人の裸の男が針金でしばられて、周りに刀や鉄棒を持った作業衣の男数十人がこづきさながら歩いているのが見えました。やがて石炭の焼け残りの火のところにくると針金でしばられた男の両手足を持って火の中に投げ込みはじめました。私はびっくりして逃げ帰り、母に告げたことを覚えております。
同じ日、岸壁にいくと、これも針金でしばられた裸の男10人ぐらいが、次々と海に投げ込まれているのが見えました。
(『アカハタ』1982年9月3日→姜徳相『関東大震災 - 虐殺の記憶』青丘文化社、2003年)

矢島敏子〔当時東京市立京橋高等小学校1年生〕
〔2日、月島三号地で〕昼すぎになってから朝鮮人のさわぎで兵隊さんや、少年団の人たちが皆んなかなぼうをもって朝鮮人たいじだといって鮮人をおっかけまわしていました。午後3時頃〔略〕少年団の人が5、6人でかなぼうをもって私がいるてっかんのそばをどこだどこだといってかけだしてくるので私は又鮮人だと思っておいしくたべているごほんもたべず、ただあっけにとられてびくびくとしていました。
(「震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)

吉本三代治
翌朝〔2日朝〕から埋立地〔月島〕を中心に朝鮮人の暴動デマ騒ぎで目の当り斬り殺された姿を見て、むごい、と顔を覆ったのが当時旧制三中の中学3年生(両国高校)に在学の時だった。
(『抗はぬ朝鮮人に打ち落す鳶口の血に夕陽照りにき ー 九・一関東大震災朝鮮人虐殺事件六〇周年に際して』九・一関東大震災虐殺事件を考える会、1983年)

日本橋久松警察署
9月1日午後2時「海嘯将に来らんとす」との流言起り、一般民衆の不安甚しくして避難の準備を為すもの少なからず、その本署の楼上に来りしが、幾もなく管内猛火の漲るに及びて自ら止む。然るに火既に鎮まりたる翌2日の午後4時頃に至り、鮮人暴行の流言新に起るや、民心の興奮その極に達し、遂に又自警団の跋扈を見るに至り。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

つづく




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