2019年11月11日月曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その12)「〔3日〕泉岳寺近くで朝鮮の人が一人殺されて筵を掛けられていた。〔略〕数珠繋ぎの朝鮮の人達がどこに連れてゆかれるのか巡査に引っ張られてゆく。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その11)「3日目かの朝、.....警視庁の騎馬巡査が.....「唯今六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕を挟んで彼我交戦中であるが、何時あの線が破れるかもしれないから、皆さんその準備を願います」と大声で怒鳴ってまた駈けて行った。.....勿論全く根も葉もない流言であった。 そんな馬鹿なはずはないと思われることは、どんな確からしい筋からの話でも、流言蜚語と思って先ず間違いはない。そういう場合に「そんな馬鹿なことがあるものか」と言い切る人がないことが、一番情ないことなのである。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;港区/赤坂・青山・六本木・霞町〉
興宮茂
〔3日朝〕六本木の連隊に着いたときに夜が明けた。戒厳令がすでに布かれていた。部隊は続々と警備に出動して行った。警察権はすでに軍に移され治安は軍政下にあった。私もただちに出動を命ぜられ、麻布十番にある支那大使館とチェコ大使館の警備に派遣された。
朝鮮人の不穏行動の流言はますます波紋を拡げていった。まだときどき小さな余震が思い出したように襲ってくる。通りに面した商店の戸は堅く閉ざされ、要所要所に白鉢巻に武装した自警団の人たちが立っていて、通行人を一人ひとり尋問していた。今にも何か突発しそうな不穏な空気が町々にみなぎっていた。情報はすべて伝令以外に頼るものはなかった。電話網は全く破壊されていた。
〔略〕公館警備から帰ると、私の分隊は米をトラックに満載して、麻布から浅草の伝法院まで輸送するように命ぜられた。途中で暴徒に略奪されるおそれがあるので、みんな緊張して銃に装填して安全装置をかけた。
(関東大震災を記録する会編『手記・関東大震災』新評論、1975年)

馬屋政一〔印刷史研究者〕
〔赤坂溜池の自宅で〕3日になってから、不逞の徒が市中を徘徊している、という噂がパッと伝わった。所謂一犬虚に吠えて、万犬その実を伝えて、噂は噂を産み、いずれも戦々兢々の態である。どこでは不逞団の包囲を受け何十人鏖殺(おうさつ)されたとか、或は爆弾を以て放火し回る徒があるとか、なかなかの騒ぎである。男子は夜毎に日本刀や、短銃又は竹槍を携えて戸毎を警戒するという有様である。
ちょうど3日の午後11時頃であった。親友の安危に就いて是非見舞いたいと思い、暗を衝いて六本木の方に出た。警察のつい側まで来ると、大変な人だかりである。やッつけろ、殺してしまえと罵っている。見ると一人の巡査が手を振り振り多くの人々を制止している。すると群衆の中の一人が懐中電灯を取り出して包囲されている者の顔を照らした。こやつこそ本物の不逞漢だ、やッつけろと叫んだ。巡査は必死に制している。
グサッと音がしたかと思うとたちまち不逞漢と称される者の臍の上と思う所に、竹槍の穂先が現われた。ばツたり倒れると群衆は散ってしまった。誰かが背後から突き刺したものと見える。思うに、こんなことが到るところに演じられたらしい。これ以来夜の歩行は危険千万と考え、一歩も出なかった。
(島屋政一『高台に登りて』大阪出版社、1923年)

本多静雄〔実業家、陶芸研究家〕
〔3日夜9時頃、赤坂の新坂町へ向かう〕途中、あちこちの町角に自警団が立っていて、そのたびに尋問された。朝鮮人が暴動を起こして方々で放火略奪をやり始めたからだという説明であった。
〔略。5日夜〕その夜は、赤坂の新坂町で自警団を押しつけられて夜半まで警戒に当った。夜中には何事もなかったが、ときどき伝令が来て、朝鮮人が平塚方面で大挙して日本人を襲ったとか、馬入川〔相模川河口付近〕辺りで朝鮮人が大勢殺されたとかいう、流言飛語がつぎつぎに流れてきた。深夜に朝鮮人が襲って来たと、まことしやかに言って歩く者もいる始末であった。
(本多静雄『青隹自伝(上巻)』通信評論社、1984年)

〈1100の証言;港区/麻布〉
秋山清〔詩人〕
〔麻布区龍土町で〕9月3日の夜には、剣付鉄砲で兵タイが人を突いたのを見た、といって麻布の六本木あたりにもうわさが流れた。前後して朝鮮人の襲撃ということが言われてきた。
〔略〕震災の時の朝鮮人虐殺は二つの方向からなされた。一つは、震災の火のまだ燃えつきぬ中に、軍と警察によって拉致され、集められた朝鮮人が江東の一地点で、何ものの理由もないままに、銃剣をもって、勝手に撃ち殺され、突き殺された、という事実である。その数は3千といい、5千といい、もっと多いともいう。詳細はいまに至ってますます判明せぬというのが正しかろう。〔略〕
「目黒の柿ノ木坂に鮮人が大勢集合して、いま渋谷に向かっている」「もう宮益坂を上って、青山6丁目から六本木に向かっている」「今青山墓地まで来ている。その数はわからない」 〔略〕「青山6丁目から霞町まで来ている。皆用心しろ。戸を立てて家から外に出ないように。鮮人は六本木に向かっている」
だが六本木には何者もやって来ない。〔略〕たまりかねて私は町内の顔役や自警団の幹部たちが提灯をつけて屯しているそのテントの中に入っていった。〔略〕まくしたてるようにぶちまけた。〔略〕「朝鮮人が、地震と火事の最中に、あっちこっちから集まって来て、日本人を襲撃するなんてことができるものだろうか」 〔略〕そこにいた皆が私の意見に同意した。〔略〕
それから2、3日たってその反動がやって来た。私の借りていた家の家主〔略〕が、少し気色ばんだ顔つきで、夫婦で私らの2階に上って来た。〔略〕「ともかく、1日も早く引越して貰いたい」
(秋山清『わが大正』第三文明社、1977年)

麻布鳥居坂署
9月3日の夕、鮮人に対する流言始めて喧伝せらる、即ち「大森・品川又は横浜方面より襲来せるもの2千人に遷す」「300人乃至500人の鮮人管内に襲来せんとして今やまさにその途上にあり」「管内各所には既に鮮人等潜入して強姦・殺人又は毒薬を井戸に投ずる等の暴行中なり」など言えるものこれなり、これに於て自警団の粗暴なる行動を促し、鮮人の民衆によりて本署に伴わるるもの50名に上り、而して通行人5名は広尾町に於て青年団員に誰何せられ、かつ長さ1寸の鉄棒を所持せるを詰問せられて俄に脱走を企てしを以て、団員の追撃する所となり、乱闘の結果重傷を負えるが如き事実に乏しからず。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;港区/芝・赤羽橘・一之橋〉
井口廣二〔当時芝区櫻川尋常小学校3年生〕
〔芝で〕3日目の晩に〇〇人のさわざでみんな外へ出ましたらまっくらでじつにすごかった。ぼくはきょろきょろしているうちに兵隊さんがきて「〇〇人がくるからしずかにしろ」といわれました。〇〇人が来たらぼくはどうしようとかんがえているうちに皆は門の中へかけこんでじっとしているからぼくもはいってこえをだしませんでした。そのうちに人は一人ずつかえってゆきます。そのうちに妹がねむくなったのでぼくも安心してねてしまいました。
(「震災から今日まで」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常三年の巻』培風館、1924年)

〈1100の証言;港区/高輪・泉岳寺〉
伴敏子〔画家。当時15歳。北品川で被災〕
〔3日〕泉岳寺近くで朝鮮の人が一人殺されて筵を掛けられていた。〔略〕数珠繋ぎの朝鮮の人達がどこに連れてゆかれるのか巡査に引っ張られてゆく。
(『断屑 - 自立への脱皮を繰り返した画家の自伝』かど創房、1988年)

伏見康治〔物理学者、政治家。当時14歳。高輪二本榎で被災〕
9月3日か4日だったか、そろそろ暮れるという時刻に、「朝鮮人が攻めてくる」という噂が、本当に物理的な風でもあるかのような勢いで通過していった。ついで、自衛団のよびかけがあって、二本榎の連中は伊皿子の近くの高松宮の庭園に逃げ込めという布令が伝わってきた。父は、なげしに置いてあった先祖伝来の槍や刀をおろして、塵を払って武装したりした。僕は姉妹と母を連れて自転車を押しながら高松宮家へ逃げこんだ。
「足が地につかない」という言葉があるが、母はこの時本当に足が地につかない様子であった。そのうちに「12歳以上の者は防衛隊を組織しろ」という声がかかってきて、姉が、貴方はまだ12になっていないのだから出なくてもいいのよ、などと引きとめる。僕は悲痛な顔をして防衛隊に加わろうとしだ丁度その時に、朝鮮人暴動はデマだという声が伝わってきて一件落着。しかしそれは高輪近辺だけの話で、品川あたりでは流血の事件があったという。
(伏見康治『生い立ちの記』伏見康治先生の白寿を祝う会、2007年)

つづく

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