2020年1月17日金曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月4日(その1)「〔4日から5日頃〕朝鮮人が上野の方から押しかけてくるっていうんです。それで、15歳以上の者は全部出ろっていう村のおふれがあったんですよ。.....それで千住の柳原というところに朝鮮人がいて、もうそのときは死体になってましたがね。殺されちゃったんです。記憶では3体か4体ありましたね。めった打ちにされてましたですよ、鉄棒かなんかで。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その13)「〔3日〕東京にいっても、大久保第一六連隊の騎兵は、鮮人を馬で追いながら追い撃ちですよ。それはみんな田の中にたおれてしまって流しっきりだから、証拠不十分ですけどね。こっち〔法典村自警団裁判〕は切って殺してそのまま置いたですから、そういうひっかかりはあったですね。」
より続く

大正12年(1923)9月4日
〈1100の証言;足立区〉
青木〔仮名〕
私の家は荒川の町屋の方にあったので、両親や家のことが心配で、次の日だったか(4日)夜に、荒川土手を北へ歩いていった。
千住の旧日光街道を南へ出て、千住大橋を渡るとすぐなので、震災で灯りの消えた真暗な荒川の土手を、荒川駅〔現・八広駅〕のあたりから一人で歩きはじめました。
すると間もなく、3人の人と道づれになった。心細いので、みんなと話しながら一緒に歩いた。
少し行くと自警団の人につかまった。「お前ら朝鮮人だろう」と言われて、いろいろなことを言わされた。
私は「日本人だ」と言ったが、昂奮していて、きいてくれない。たしかに一緒に歩いていた他の人は、ことばで朝鮮人だとわかったが、私の言いわけも全く受けつけない。
千住の名倉医院の南のあたりだった。警察が来あわせて、私のことばに「お前は日本人だ」と言ってくれた。
私は助かったが、他の人はやられてしまった。ピストルでやられたようだった。
(きぬた・ゆきえ「今も遺骨は河川敷に」『統一評論』1981年10月号、統一評論社)
関戸惣一郎〔当時15歳〕
〔4日から5日頃〕朝鮮人が上野の方から押しかけてくるっていうんです。それで、15歳以上の者は全部出ろっていう村のおふれがあったんですよ。笹をそいで火にあぶって菜種油をつけると。みんな集まれって。私は15だから一番若いんだよな。
それで千住の柳原というところに朝鮮人がいて、もうそのときは死体になってましたがね。殺されちゃったんです。記憶では3体か4体ありましたね。めった打ちにされてましたですよ、鉄棒かなんかで。
その朝鮮人騒ぎがおさまったのは5日頃かなあ。最初は、上野の松坂屋の方からこっちへ攻めてくる、1500人くらい来るなんていってたんだね。相当殺気立って、来たらやられるということで、みんな竹槍を支給されたんですよ。そんなデマがどこから来たかはわかんないけどね。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)

『報知新聞』
〔4日〕午後2時頃埼玉県から関東戒厳司令部に護送中の鮮人孫奉元(ソンボンウォン)外4名を花畑村宇久右衛門新田自警団金杉熊五郎(40)同人倅□一郎(18)外8名が同地綾瀬川タクミ橋上で殺害し死体を川中に投げ込んだ。

『法律新聞』(1924年3月18日)
「鮮人殺の10人乍ら 執行猶予」
昨年9月4日府下南足立郡花畑村宇久左衛門新田337金杉熊五郎外9名が同村内匠橋付近で通行中の鮮人韓鳳九(ハンボング)、朴仁道(パクインド)、金思鳳(キムサボン)、李元錫(イウォンソク)、李健在(イゴンジェ)の5名を惨殺した事件は東京地方裁判所宮城裁判長、北条検事の係りで審理中の処10日左の判決言渡があった。
懲役2年:金杉熊五郎、三角三治
同1年6カ月:片瀬良吉、金杉輿市、北島権蔵、原田留五郎、寺島治平、昼野千之助、金杉仁一郎
同1年:星野金松 以上10名共3年間刑の執行猶予。

神村志知郎〔深川猿江裏町で被災〕
〔鴻の台街道まで逃げ小松川へ。4日に田舎へ行くため〕日暮里に来た。姉の背の子が火がついたように泣く。と、通りかかった大学生が気の毒そうに近寄って、「これを少しあげて見たらどうです?」と言って、少しばかりの白砂糖をくれた。スルト又通りすがった人が、「貴方方はこの学生さんとお知り合いですか?」と問う。不思議な問かなと思って「否」と答えると、「知らぬ人に食物など貰ってはいけませんよ。現に○○が内地人の風をして、子供に毒の入った牛乳をやっているのを私は見て来たのです」と説明する。大学生は憤然として、「そんなら僕が食べます」と言って美事食べてしまって、「サアどんなもんだ」という顔をする。我々は学生にも何やら気の毒になって、「どなたも有難うございます」とのみ礼を述べた。
(中央商業学校校友会編『九月一日:罹災者手記』三光社、1924年)

〈1100の証言;荒川区〉
司法省「鮮人を殺傷したを事犯」
4日午後4時、尾久町上尾久熊319国民銀行空地で、宮杉益五郎が金祥年に短刀を突きつけたが他人に阻止された。
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

南千住警察署
9月2日鮮人暴行の流言伝わるや、自警団その他の、鮮人に対する迫害漸く盛にして、午後9時30分に至りては鮮人を本署に拉致するもの少なからず、中には負傷者をも出すの有様なりしかば、堅くその軽挙を戒め、民衆の反省を促すに努めしが容易に肯かず、更に3日午前1時頃に及びて「鮮人約200名は本所向島方面より大日本紡織会社及び隅田川駅を襲撃せり」との流言あり、即ちその万一に備えんが為に署員を同方面に急派したれども何等の事なかりき。然れども蜚語は益々拡大して鮮人の毒薬撒布・海嘯の襲来・大地震の再襲等人心を刺戟・惑乱するの報道頻りに伝わりて騒擾を極めしが、本署の保護・検束せる鮮人の如きも、演武揚に67名・交隣園に117名・第二峡田小学校に250名合計434名の多数に上れり。
しかるに翌4日午前、鮮人労働者相愛会幹事等2名は帰宅を懇望して已まざるを以て、途中保護の為に正服巡査2名・兵士2名を付せんとしたれども、その準備を整うるを待たずして切に開放を要請せるが故に、遂にこれを許し、内鮮係巡査1名をして保護尾行せしめ、三ノ輪王子電車軌道踏切にさしかかれる折しも、たちまち群集の包囲・乱打する所となり、尾行巡査また重傷を負えり。これにおいて署員10名を急駛(きゆうし)してこれを鎮撫し、その鮮人1名及び尾行巡査には応急手当を為して漸くその生命を救いたれども、他の1名は遂に行方不明と為れり。
〔略〕本署の保護せる鮮人の全部はその後これを日本橋区蠣殻町日鮮起業会社内相愛会事務所に引渡し、支那人87名は証明書を交付して帰国の途に就かしめたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

南千住警察署日暮里分署
9月2日午後8時頃地震の再襲、鮮人の暴行等云える流言行われしが、就中鮮人に対する杞憂は自警団の過激なる行動を促し、戎(じゆう)・兇器を執りて通行人を誰何(すいか)・審問せるのみならず鮮人迫害の余波は良民を苦むるの暴行をも生じたりしが、是日本署において保護・検束したる鮮人は70余名に及び、署内狭隘を告ぐるに至れるを以て、これを第四日暮里小学校に収容せり。然るに午後2時頃裸体に赤帯を締め、帯刀して町内に示威行列を為せる15名・壮漢ありしかば、これを検束して戎・兇器を押収したるに、尋て同4日正午頃収容の鮮人1名逃走を企つるや、民衆は警察の監視怠慢を罵り、遂に数百名の集団を為して当署及収容所に迫りて、形勢険悪なりしが、漸くこれを鎮撫するを得たれども、なお万一の変を慮り、軍隊と交渉して兵員2名の派遣を求め、その援助の下に警戒を厳にせり。かくて管内の騒擾は同5日まで継続せし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『東京日日新聞』(1923年11月2日)
「暴行自警団の取調べひとまず打切り 南千住の鮮人殺し8名の収監を最後に」
9月4日午前11時南千住新町通りで南千住署巡査飯塚清一の保護する南千住駅前相愛会人事課長鮮入金英一(30)、斐東珠(32)の両人に暴行を加え金を殺害し飯塚巡査及び斐に重傷を負わせた同町自警団左記8名は、30日いよいよ起訴収監された。なお暴行自警団の取調べはこれを最後に打ち切ることになった。
千住町345杉本寅吉(39)、通新町61葬儀屋秋本弥七(38)、三ノ輪389吉澤方人夫宇佐実伊平(63)、同18菓子職小島辰造(20)、同44蓄音機器商宇田川方雇人林忠雄(31)、同三ノ輪新開地286職工吉田清次郎(21)、同下駄商山田熊吉(40)、同高溝民太郎(21)。

つづく




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