2020年7月18日土曜日

慶応4年/明治元年記(20) 慶応4年(1868)4月21日~30日 有栖川大総督、江戸城入り 第2次宇都宮城攻防戦(新政府軍が宇都宮奪回、大鳥軍は日光・今市に向かう) 清川口の戦い(庄内藩Vs薩長・新庄藩兵 東北最初の本格的戦闘) 近藤勇斬首 ハワイ移民始まる  

慶応4年/明治元年記(19) 慶応4年(1868)4月16日~20日 大鳥圭介脱走軍、小山・宇都宮占領 榎本武揚、新政府に軍艦を引渡す(優秀艦は手元に残す) 仙台・米沢・二本松藩の会津謝罪周旋
より続く

慶応4年(1868)
4月21日
・(新5/13)・米沢藩の会津謝罪周旋。米沢藩使者と会津藩梶原・内藤・一瀬・山川・倉沢・山田ら会談、容保父子の謹慎と削封の2条件での周旋を依頼。翌22日、梶原・伊東・河原・土屋ら、謝罪歎願の為米沢を訪れ、竹股・木滑・片山らと会談。同日、梶原は、米沢にいる上山藩士増戸武平を訪ねる。翌23日、増戸が梶原を訪ねる。
・有栖川大総督、諸軍を率い江戸城入り。
この頃、彰義隊1千、遊撃・歩兵・砲兵・純忠水心など諸隊併せて2500。官軍と彰義隊の衝突が至る所でおこる。金座肝煎り役・長岡右京が京都に行って岩倉に運動、官軍となって江戸に戻り、これを狙っていた彰義隊に先んじて金銀座を封鎖。彰義隊は右京の別荘(本所小梅)を襲撃、家族殺害9人、居合わせた官軍殺害3名、右京は取り逃がす。
・大鳥圭介隊、宇都宮~壬生間の安塚で因州・土佐軍と交戦。山国隊、戦死2・不明1・重傷1・軽傷3。壬生城へ退却。
宇都宮城を奪取した大鳥軍、新政府軍の援軍接近を知り、21日、秋月を指揮官とする伝習隊4小隊・幕府歩兵隊第7連隊・御料兵・別伝習隊(会津兵で構成、装備は悪い隊)・桑名藩兵等による別働隊を編成、壬生城攻撃の為出撃。また、壬生城側面攻撃のため伝習隊士官大川正次郎に伝習隊2小隊を任せ出陣させる。壬生城の河田は迎撃のため、壬生城北部の安塚に土佐軍2小隊(日比1番隊・小島2番隊)及び北村砲兵隊、鳥取軍山国隊・吹上藩及び松本藩合併1小隊・大久保勢1小隊を出撃させる。河田の許に、「壬生藩士達が旧幕府軍と通じている恐れあり」との報告が入り、河田は壬生城から動けず、安塚の戦いの緒戦では指揮を取る事が出来ず。
安塚の戦い。
22日払暁、大鳥軍別働隊が安塚北の姿川を豪雨の中で渡河、安塚を守る宇都宮救援軍(新政府軍)新政府軍との間で戦い開始。旧幕臣大久保氏の手勢1小隊などの伝習隊シャスポー銃(後装施条銃)による猛射撃に、土佐軍隊・鳥取軍山国隊以外の新政府軍はなすすべなし。しかし、土佐軍と鳥取軍山国隊が装備する前装施条銃ミニエー銃が豪雨により次第に不発がちになり、戦線崩壊の危機に陥る。安塚の新政府軍不利の報告を受けた壬生城の河田は、有馬藤太に壬生藩兵監視を任せ、土佐軍3小隊(宮崎5番隊・真辺6番隊・平尾11番隊)・鳥取軍11小隊(天野隊)と佐分利砲兵隊を率い出撃、姿川に向かう。河田の戦場(姿川)到着後は、河田は安塚の新政府軍の指揮を取る。河田は、崩壊寸前の新政府軍に「退く者は斬る」と兵士を叱咤激励、新政府軍は戦線を建て直し、大鳥軍を姿川北岸に押し返し、淀橋を渡って北上、幕田まで追撃。大鳥脱走軍別働隊の主力の伝習隊は、その後装施条銃のシャスポー銃による猛射撃は新政府軍にとって脅威だったものの、その隊員の多くが町民農民によって構成されてるため白兵戦には弱く、この河田自らが率いる突撃により白兵戦になったため撃破され敗走。他の大鳥軍も伝習隊敗走につられて退却、辛うじて河田率いる新政府軍が勝利。しかし、河田側も損害多く追撃を諦め、全軍壬生城に後退。
4月22日
・東山道本隊、結城占領。
・奥羽鎮撫使沢副総督より本荘藩に、23日、亀田藩に、庄内藩征討命令。
・オーストリア、皇后エリザベト(30)、女児(マリア・ヴァレリー)出産
4月23日
・奥羽鎮撫軍庄内征討軍(沢副総督・大山参謀)、新庄入り。ここを本拠とする。
・宇都宮攻防戦。政府軍、宇都宮城攻撃。宇都宮・壬生藩兵の後方から政府軍(土佐・薩摩・因州)が進撃。戦いは日暮時まで続くが、兵は今市方面へと退却となり宇都宮城は政府軍に奪回される。土方歳三、負傷・今市に下る。
第2次宇都宮城攻防戦。
河田率いる宇都宮城奪還軍第1陣は一旦壬生城に退くが、暫くして野津道貴・大山巌率いる第3陣が壬生城に到着。23日早朝、河田が補給・編成の時間を主張するが、野津道貫・大山巌の第3陣は独力で宇都宮城攻撃のため壬生城を出撃。午前10時頃、第3陣は宇都宮城の城下町南西を守る六道辻陣地を猛攻し奪取。次に、城下町を突破して城西部の松ヶ峰門を攻撃。城下士小銃6番隊の狙撃兵を先行させ、背後から残りの兵を散兵させて前進するが、宇都宮城に肉薄するものの犠牲者が続発。大鳥が迂回部隊を六道辻陣地に向けると、第3陣は退路遮断を恐れ六道陣地に退却。大鳥は、六道陣地に退却した第3陣を宇都宮城から砲撃、第3陣は砲弾等の物資を撃破され行動可能となる。
午後3時頃、伊地知率いる第2陣(奪還軍主力)が宇都宮城城下に到着、宇都宮城南方陣地を攻撃し、予備の砲弾を六道陣地の第3陣に送る。第3陣は再び松ヶ峰門を攻撃。伊地知の第2陣は、御料兵が守る陣地を攻撃、御料兵を敗走させ陣地を奪取し、北上、宇都宮城南門の下河原門を攻撃。夕方、河田の第1陣(鳥取軍の一部、土佐軍半大隊は不参加)も到着、城北部の大手門方面を攻撃。しかし、桑名藩兵が宇都宮城北の明神山・八幡山頂から猛射撃を行ない、河田隊は明神山を突破出来ず。北から河田の第1陣、南から伊地知の第2陣(主力)、西から野津道貫・大山巌の第3陣が攻撃する中、大鳥軍も次第に劣勢に陥り始め、多数の死傷者が出始め、大鳥・土方等が負傷する状況に陥るに至り、大鳥は撤退を決意、新政府軍の攻撃を受けていない城北東部の今小路門より奥州街道に撤退(明神山の桑名藩兵の援護射撃により、追撃をさほど受けず撤退)。東山道軍は宇都宮城奪回後暫く留まるが、参謀板垣退助が残りの東山道軍を率い宇都宮城で合流、その後二手に分かれ、伊地知率いる部隊は白河方面に、板垣率いる部隊は日光方面に向う(大鳥軍を追跡)。大鳥軍は野州の旧幕軍を全て指揮下に入れ、幕府歩兵隊第7連隊と御料兵を併せて伝習隊第3連隊とするなど戦列を立て直し、日光・今市で板垣隊と激突する事になる。
・(新5/15)榎本釜次郎、勝海舟を訪問。
4月24日
・最上川筋清川口で戦闘、薩8、長4、庄8戦死
・宇都宮での敗北幕府軍、今市より日光に到る。土方歳三、日光に詰める八王子千人同心の土方勇太郎を呼び、面談。昼時、土方・秋月両人、10人余りの護衛者(島田魁・漢一郎・松沢乙造・中島登ら)をつけて会津へ落ちる。
・山国隊、戦死者2を仮埋葬し、25日、壬生城より宇都宮へ移動。
・海援隊、正式に解散を告知。
・清川口の戦い。早朝、庄内藩清川村に薩長兵・新庄藩兵が攻撃。夕方近く、薩長軍、新庄に追い返される。政府軍戦死薩8・長4、負傷9。庄内軍戦死8、負傷13。緒戦に勝った政府軍と追撃戦で優勢の庄内軍の痛み分け。東北で最初の本格的戦闘。
・越後各地で悪評の衝鋒隊、柏崎・高田と移動。この日単独で信州入り、飯山城を囲む。松代藩・尾張藩・飯山藩等の攻撃に敗れて十日町方面に退却。
5月に入り長岡に転戦。桑名・会津藩兵と共に共闘。約1ヶ月近く、長岡方面・会津への街道沿いを転戦、8月末、会津入り、仙台へ移動、多くは榎本艦隊と函館へと向かう。
4月25日
・奇兵隊・薩州合併軍、北越戦線へ。
・近藤勇昌宣(35)、板橋において斬首。3日間梟首
・薩長合併会議処、設置。
・ハワイ移民が始まる。日本人120余人、契約移民としてハワイに渡る。
4月26日
・土方一行、田島に至り、秋月と別れる。土方に従う者、島田魁、中島登、漢一郎、畠山二郎、沢忠助、松沢乙造6人。
・米沢藩執政木滑要人の嚮導で会津藩降伏使節、白石城に到着、総督府への斡旋を依頼。
・庄内藩軍事掛菅実秀、鶴ヶ岡城に来ていた会津藩南摩八之丞・佐久間平助と共に、会津に向う。会津藩主容保と会談、ともに戦うことを誓う。この日、会津には仙台藩参謀玉虫左太夫・若生文十郎、米沢藩重臣木滑要人・片山仁一郎が来ており、菅は仙・米との連携を確認、意を強くして本格的戦闘に入る。
・庄内軍(酒井兵部隊)、天童領内越境。29日、山形・山ノ上藩が来援し、最上川はさみ庄内藩と天童・山形・山ノ上藩が対峙。
4月27日
・土佐藩参政真辺栄三郎、海援隊解散通告。海援隊士石田英吉・菅野覚兵衛ら、長崎振援隊結成。奥羽戦線へ。
4月27日
・大村益次郎、軍防事務局権判事から最高職軍防事務局判事に昇進。東京入りして彰義隊討滅を主張。渋っていた西郷も同意。
これより先、江戸に派遣された佐賀藩江藤新平は、勝海舟の策略と大総督府(西郷ら)が勝に篭絡されている状況を新政府に報告。新政府は、彰義隊討伐及び奥羽越列藩同盟との戦いの指揮の為に大村を派遣。
・夜、相州羽田村で打毀し。春米屋・質屋14軒が打毀し。この時は村役人がほどよく報告して済ませる。のち、江戸の市中取締方が知ることになり、翌閏4月21日、首謀者を急襲、即死3人・逮捕10(のち釈放9)。
4月28日
・仏教語を神号にしている神社の由来報告、鐘・仏具を神社に置くこと禁止。廃仏毀釈各地でおこる。
・土佐・因州隊(第1線谷干城指揮)、日光へ大鳥軍追跡。29日、土佐藩兵、今市進入。大鳥隊2千、今市の戦いに敗退、会津に退却。
4月29日
・土佐藩長岡謙吉、大監察小南五郎右衛門より海援隊隊長命ぜられる。京都。
・土方歳三一行、会津若松七日町の清水屋へ入り、唐津藩大野右仲と会見。新選組先発組結集。以後、歳三は療養生活に入る。新選組は斎藤一(山口次郎)が指揮をとる。
・龍源寺に近藤勇を埋葬。
・米沢・仙台藩の会津謝罪周旋(救会嘆願)。七ヶ宿関村会談(仙台藩領苅田郡)。会津(梶原平馬・伊東左太夫・山田貞助ら)・仙台(家老坂英力・同但木土佐・真田ら)・米沢(家老竹股美作・参政木滑要人)、降伏条件で会談。翌閏4月1日、引き続き会談。仙台・米沢藩使節、会津側に救会嘆願の骨子(藩主父子の蟄居・減封、鳥羽・伏見の戦いの指揮者処罰(誅殺))を示す。会津藩は最終的これを拒否。
この頃、日光で戦闘開始(旧幕軍大鳥の参戦)、会庄同盟、坂田の豪商本間家の財政的支援など会津を勇気つける背景。仙台藩は奥羽列藩の力で会津謝罪(嘆願)を政府に訴える方向に転換。
月末
・水戸藩天狗党生存者武田金次郎(耕雲斎の孫)ら江戸着。水戸・諸生派党類と見られた10数人が斬られ、10数人が捕縛。5月末、武田らは水戸に戻る。水戸でも諸生派縁故の者10数名が斬られる。

つづく



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