2020年10月26日月曜日

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」   

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ3)「子規の主治医であった宮本仲博士は、こう語っている。 「子規も偉かったが、御母堂と御令妹の奉仕と愛もまた偉いものだった」 子規が身体に何箇所も穴が開き、膿が流れ出し、毎日ガーゼを替えるたび痛みで号泣しながらも、俳句と短歌革新という大業を成就できたのは、母八重と妹の律の献身的な看護と奉仕があったからこそだと感動を込めて話しているのだ。」

より続く

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)

もう一人の看護人・寒川鼠骨

(中略)

鼠骨さんこそは子規庵と子規の家族の看護人なのだ。


電鈴のボタン

・・・・・

正岡子規の最良の看護人である妹の律さんを支え抜いて、その生涯を看取ったのは、寒川鼠骨さんである。

鼠骨さんが昭和十六年(一九四一)に改造社の『俳句研究』に書いている回想録「律子刀自を懐(おも)ふ」を紹介したい。

「お律さん(私はこう呼んでいた)は、私の宅とは壁一重を隔てる子規庵を護って居られた。

老齢であるにもかかわらず、女中なしで、ひとり寂しく暮して居られた。

それで萬一の場合の用心にとて、私の宅と扉一つで往来できるよう電鈴をつけ、お律さんがボタンを押されると私の宅のベルが鳴るようにしてあった」

つまり、子規庵が再建されてからは、鼠骨さんは、子規庵の隣に家族で住んで、子規庵を護ると同時に、老齢の律さんも護ったのだ。

(中略)

「お律さんは、電鈴のボタンを枕元にして、子規居士の病室だった部屋に、居士と反対の方向である北枕に寝られるのであった。そうした設備をしてから十余年の間、扉の開閉は毎日のようだが、ベルの鳴ったことは一度もなかった」

そして、こうも続けている。

「お律さんは令兄子規居士と反対に、平生極めてお達者であった。身に病あることを知らない人であった。子規居士に似て、ざわめて健啖、南瓜なんかは、私の家人四人が食べる分量を一人で食べられるので、大笑いしたほどであった」

「だから子規居士の五十年忌までは生きているつもりだと語っておられた」

しかし、律さんは七十歳をこえるころから、体に異変がおきるのである。

「ベルは鳴らなかったが、ベルよりも大きな物音が響いた。お律さんの寝室の方からであった。(・・・)急いで扉を排してお律さんの寝室へ行ってみると、お律さんは蒲団の上に横たわって居られた。『どうなきったの』。『少し目まいがして倒れましたが、イエ、タイシタこともありません』。『大丈夫ですか』。『大丈夫です、すみません、おやすみ下さい』。その夜はそれだけで済んだ」

翌午前六時、再び大きな物音がした。急いで駆けつけると、お律さんは寝室の次室に倒れていた。

「『小用に行きたいのです』と言われるので、すぐ前の縁側の便所へ後ろ抱きにして伴(つ)れていく」

医者を呼んできてもらうと、軽い脳溢血だということであった。

舌が少しもつれていたが、高熱を発して小石川の東大分院に入院した。

- 丹毒という診断であった。

寒川鼠骨さんは病室に泊まりきりで看護した。しかし、律さんの衰弱はひどい。

そこで鼠骨さんは、律さんの耳元に口をよせて魔法の言葉を言ったのだ。「お律さん、あんたはさむらいの娘でしょ。しっかりして下さい」「あなたはさむらいの娘なんですよ」と。


さむらいの娘

その魔法の言葉を聞いた律さんは、どう反応したか。鼠骨さんの一文を借りる。

「『お律さん、しっかりしてください。食事を食べてください。さむらいの娘でしょ』と声をかけると、お律さんは首肯(うなづい)た。二人の看護婦はひそかに笑っていたが、お律さんは何時も”さむらいの娘”と自分でも言っておられ、真にさむらいの娘の気魄で一生を過ごされたのであった」

時代はすでに昭和。とうに侍の身分は消えて、チョンマゲも腰の刀もなくなっている。鼠骨さんはどんな憲味をこめて〝さむらいの娘〞を口にしたのだろう。また鼠骨さんの一文を借りよう。

「お律さんは”さむらいの娘”であるから、猥(みだ)らなことが大嫌いだった。お律さんはチャボを育てるのが道楽で、また上手であって、可愛いい沢山のチャボを育てられたのだが、小さなチャボが成人すると、みな他に譲ってしまわれるのだ。卵を割って出たばかりの、黄色の生ぶ毛の雛を育てる間が楽しいようであった。しかし、卵を生まずためには親鶏が必要であり、その親鶏が朝早く塒(ねぐら)の箱を開けられたとき、庭に飛び出すや否や、交尾をするのである。するとお律さんは、それを目の敵のように竹箒を持って雄鶏を叩いて追っ払うのだ。雄鶏は悲鳴をあげて逃げ回る。こうして一時間近くも葛藤(たたかい)が続く。『どうしたんですか』とたずねると、『朝から無作法ですもの。行儀を直さんといけませんから』と答える。律さんは誰に対しても『さむらいの道』を要望するのだった」

(中略)

『仰臥漫録』の明治三十四年十月十日の日付の日記を読んでみるといい。

(中略)

「新聞雑誌も見られずややもすれば精神錯乱せんとする際この鼠骨を欠けるは残念なり 鼠骨は今鉱毒事件のため出張中なり」

これは、足尾銅山の鉱毒事件のことをさしている。多くの農民が倒れ、日本最初の公害事件とされているが、鼠骨さんは農民救済に立ち上がった地元の代議士田中正造の活動を日本新聞に書き、熱烈に応援していたのだ。彼はついに日本新聞の社説で、時の山縣内閣への官吏侮辱罪に問われ、十五日間、収監されてしまう。しかし、鼠骨さんはへこたれず、『新囚人』という監獄体験記で応じているのである。

つまり、彼はユーモア一点張りの人間ではなく、熱血の人でもある証明となっている。


子規庵庭園の復元

(略)

沈下庭園の眺め

(略)


もう一度痛いと言うとおみ

明治三十四年というのは、子規にとって最後の誕生日の年になった。『仰臥漫録』には、こう書きとめてある。

「岡野の料理二人前を取り寄せ、家内三人にて食う。(・・・)いささか平生看護の労に酬(むく)いんとするなり。けだしまた余の誕生日の祝いおさめなるべし」

子規は冷静に死期を予感しているのだ。

「料理は会席膳に五品

○きしみまぐろとさより 胡瓜(きゆうり) 黄菊(きぎく) 山葵(ワサビ)

○椀盛 莢豌豆(さやえんどう) 鳥肉 小鯛の焼いたの 松蕈(まつたけ)

〇口取 栗のきんとん 蒲鉾 車蝦(えび) 家鴨(あひる) 煮葡萄

○煮込 あなご 牛蒡 八つ頭 莢豌豆

O焼肴 鯛 昆布 煮杏(にあんず) 薑(はじかみ)」

岡野とは有名な料理屋である。夢見た料理屋の会席膳を「二人前」取り寄せて、それを家族水入らずの三人で食べているのだ。

前年の誕生日は御馳走の食いおさめをやるつもりで、「碧四虚鼠」の四人を招いている。つまり、碧梧桐、四方太(しほうた)、虚子、鼠骨の愛弟子を招いて食べて愉快な会食となっているが、

「それに比べると今年の誕生日はそれほどの心配もなかったがあまり愉快でもなかった。体は去年より衰弱して寐返りが十分に出来ぬ。(・・・)それでも食えるだけ食うてみたが(・・・)夕刻には左の腸骨のほとりが強く傷んで何とも仕様がないのでただ叫んでばかり居たほどの悪日であった」

子規にとっては悪日であったが、家族に平素の看護の感謝を伝えることが出来た「良日」でもあったのだ。最良の看護人である八重、律の二人は、翌日の本当の誕生日には、小豆飯を作り、鮭の味噌漬けと赤貝と烏賊(いか)の酢の物を添えて祝いの食事としている。これを子規は、夢の岡野の会席膳より御馳走として、来客の伊藤左千夫と鼠骨と共に食べ、大いに食後話がはずみ、子規もいつもより容易(たやす)く喋っている。

- まこと看護はデリケートでむつかしいものである。

子規が予感したとおり、明治三十四年の誕生日は最後となった。つまり、翌年の九月、三十五歳にとどく寸前に子規は没した。

(略)

息を引き取った子規の枕元で、八重は、「ノボさん、もう一度痛いと言うとおみ(言ってごらん)」といって、大粒の涙をぽたぽたと落としたという。親にとって、我が子が先に逝くことぐらい切ないものはない。

妹の律は、自分が貼り付けた背中のガーゼをなでるようにして、「兄さん、兄さん」と涙を流した。子規にとって、母と妹の涙が末期の水となったのだ。

(略)

私は、律さんの壮絶ともいえる看護ぶりと、兄子規の俳句にかける壮絶な闘いぶりを書いてきて、律さんのもうひとつの仕事を確かめることができた。それは、子規の俳句革新のすべてを、次の代までも伝えたいと、奮闘したことだ。それも、決して自分が正面に出ることなく、あくまでも兄子規が主人公だった。このことで、私は律さんこそ世に数少ない「最強にして最良の看護人」と認めたのである。

(略)

病床における苦しみのはけ口を、律さんに向けてののしった子規さんだが、『仰臥漫録』の中にはこういう記述もある。

「もし一日にても彼なくば一家の車はその運転をとめると同時に余はほとんど生きて居られざるなり」

「故に余は自分の病気が如何ように募るとも厭わずただ彼に病なきことを祈れり (・・・)余は常に彼に病あらんよりは余に死あらんことを望めり」


死のレッスンを支えてくれたのは『仰臥漫録』

余命二、三年と宣告された私自身の”死のレッスン”であるが、胆のう癌と診断されたものの開腹手術の結果は「胆砂(たんさ)」であった。しかし心筋梗塞により心臓の半分以上は壊死し、癌はその後、他の臓器に次々と発生した。まるでモグラ叩きのように手術を繰り返しながら、私はこの四十年を息浅く過ごしている。

何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。

そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。

おわり

(註)

上記の早坂さん著作の引用では省略した寒川鼠骨の貢献についてWikipediaに簡潔に書かれているので、下記する。

1945年(昭和20年)(70歳)、4月の空襲に自宅も子規庵も焼かれたが、鼠骨が提案し設計して建てた土蔵に保管した子規の遺品・稿本類は守られた。10月には歌会を再開した。罹災した政教社の今後を議する事もあった。1946年9月焼跡に仮宅が建つまで、斜め向かいの書道博物館に仮寓して、毎暁土蔵を盗難から守った。


1947年、子規庵を再建する資金に、『子規選集 全6巻』を編み、その出版を1949年春に、再建を1950年に了えた。そこに住み、9月19日の子規の祥月命日の子規忌、その母・妹の回忌の法要を、続けた。参会者が減り間隔が開いたけれども、子規庵歌会を続けた。

最終的には和解したものの、正岡家養子の忠三郎は寒川鼠骨をこころよく思わず対立もあったようだ。この辺りは、のちほど関川夏央『子規、最後の八年』(メモ)にも触れてある。




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