2021年1月14日木曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ12)「ともかく虚子にとって、武士の裔(すえ)として同郷の後輩には常に家長的に振る舞う子規より、都会的な知性やセンスを持つ漱石の方が、付き合いやすい面があったのは確かだ。そういえば、虚子は中学生時代の初対面の時から《たゞ何事も放胆であるやうに見えた子規居士と反対に、極めてつゝましやかに紳士的態度をとってゐた》(「漱石氏と私」)漱石に敬意を抱いていたふしもある。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ11)「要するに坪内稔典が「文章家・虚子」でいうように、《虚子に寄り添うか碧梧桐に寄り添うかで子規の死が違ってみえる》(「俳句」別冊「高濱虚子の世界」)のである。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ12)

遅すぎた文化勲章 - 虚子たちのその後


1 生涯の友でライバル ー 碧梧桐


子親没後、虚子が「ホトトギス」を受け継ぎ、碧梧桐は新聞「日本」の選者を継承した。この事が、虚子と碧梧桐の俳句上の対立の元となったといわれる事があるが、妥当な棲み分けであった。「ホトトギス」は、虚子が子規と図って兄に資金援助を乞い松山から東京に移したものだ。一方、碧梧桐は明治二十八年、子規の日清戦争従軍中「日本」俳句欄の代選をしており、一時は日本新聞社の記者だったこともある。・・・・・


(略)


ところで虚子と碧梧桐の対立は周知のように、


温 泉 の 宿 に 馬 の 子 飼 へ り 蝿 の 声


など「温泉百句」を碧梧桐が明治三十六年九月の「ホトトギス」に発表したのに対して、虚子が翌月号で《「馬の子」といふとむしろ可愛らしく無邪気な感じがして「蝿の声」の調和が悪い》と批評したのに端を発している。この二人の「温泉百句」論争は日本の俳壇史に残る程有名なもので諸説紛々だが、加藤楸邨がいうように《この碧虚の論争そのものはさしたることでなさそうに見えるが、子規没後の俳句界が、中軸をなす支えを失って、大きく碧・虚二派に分れてゆく契機をなすものと言ってよい》(『日本の詩歌』)というあたりが妥当な評価であろう。

やがて碧梧桐は小沢碧童、大須賀乙字らと句会「俳三昧」を起こして碧派を作り、明治三十九年からは大規模ないわゆる全国三千里の旅を企て、新傾向俳句運動を推し進める。一方、虚子は「ホトトギス」発刊十周年を迎えた明治四十年から、漱石の刺戟もあり創作活動に力を入れ、「風流戯法」「斑鳩物語」「俳譜師」「続俳譜師」などを次々に世に問うのである。

ところで俳壇に大旋風を巻き起こした新傾向俳句も、荻原井泉水の離脱などがあって次第に分裂、対立を繰り返すようになった。虚子はここ数年、小説家としての活動が忙しく、国民新聞や毎日新聞の読者を喜ばせたが、肝心の「ホトトギス」の方は部数が減るばかりである。そこで虚子は意を決して、小説よりも俳句に力を注ぐことにし、明治四十五年(大正元年)七月から雑詠欄を再開した。・・・・・


(略)


その後の碧梧桐のことは既に何度も述べているので繰り返さないが、やがて新傾向俳句も凋落し俳壇を引退した碧梧桐は失意のうちに、腸チフスのため昭和十二年一百一日、六十五歳で急逝した。こうして虚子は生涯の友でライバルでもあった碧梧桐を当時としても若死にといえる年齢で失ったのである。


2 小説家の誕生 - 漱石


虚子にとって子規は兄事する師というより、時には厳父のような存在であった。あれ程の間柄であっても子規に対して虚子はどこか遠慮があり、時には煙たく疎ましく思うこともあった。その点、兄二人が早くから子規と親しく虚子より一歳年長だった碧梧桐の方が、子規とはざっくばらんに接していた。

たとえば、仙台の二高を中退して東京へ引き上げて来た時でも、碧梧桐は何の気兼ねもなく子規のところに置いて貰うが、虚子は新海非風(にいのみひふう)の家を選ぶ。子規の家の手狭さもあったが、京都や仙台では二人は狭くてもずっと一緒だった。それに虚子は三高時代、一時上京して子規の許で過ごした事があるのに今回は遠慮している。虚子はおそらく、また子規に監督されるのが疎ましくなったのにちがいない。

明治三十年六月、虚子は下宿屋の娘、大畠いとと結婚するが、その事をなかなか子規には打ち明けない。いとが最初は碧梧桐と親しかったのを、虚子が射止めたため子規には言い出しにくかったのか、それとも子規に打ち明ければあれこれ指図されるのが煩わしく、それが嫌だったのかどちらかた。

ともかく結婚の事は碧梧桐から子規の耳にはいっている筈だが、虚子は何食わぬ顔でその間に何度も子規を訪ね、一度は新婚早々のくせに子規庵で一泊したこともあった。しかし半年近く経った頃、さすがの虚子もとうとう結婚のことを手紙で子規に知らせ、事前に相談しなかった事を詫びるのである。一言いえば済むことを、格式ばった手紙にしたのはまだまだ虚子に照れくささが残っていたのであろう。

もちろんその後は虚子も、長女真砂子がよちよち歩きをするようになると子規庵へ連れて行き、子規の布団の上や枕元で遊ばせている。また、長男が生まれた時は名前も付けてもらった。これは子規もよほど嬉しかったのか、倫敦にいる漱石へ《虚子ハ男子ヲ挙ゲタ 僕ガ年尾トツケテヤツタ》(明治三十四年十一月六日)と報ずる程であった。

ともかく虚子にとって、武士の裔(すえ)として同郷の後輩には常に家長的に振る舞う子規より、都会的な知性やセンスを持つ漱石の方が、付き合いやすい面があったのは確かだ。そういえば、虚子は中学生時代の初対面の時から《たゞ何事も放胆であるやうに見えた子規居士と反対に、極めてつゝましやかに紳士的態度をとってゐた》(「漱石氏と私」)漱石に敬意を抱いていたふしもある。

ちなみに例の道灌山の一件から半年程経った明治二十九年五月、虚子はまた子規の機嫌を損ねたことがあった。それは漱石の援助で虚子が帝大選科への入学を希望しながら、一年見合わすことにしたのが発端だった。それに対して子規は長い手紙を書いて虚子を叱責した。この事を後で知った漱石は子規に、


・・・・・小生が余慶(よけい)な事ながら虚子にかゝる事(選科入学のこと)を申し出たるは虚子が前途の為なるは無論なれど同人の人物が大に松山的ならぬ淡白なる処、のんきなる処、気のきかぬ処、無気様なる点に有之候大兄の観察点は如何なるかは知らねど先づ普通の人間よりは好(よ)き方なるべく左すれば左程愛想づかしをなさるゝにも及ぶまじきか。

                           (明治二十九年六月八日付)


と書き送った。漱石は子規と違って、虚子の細かい事に拘らない大らかな人柄が好きであった。漱石自身もお世辞をいったり、小手先を弄したりできない性格だったから、同じような虚子を好ましく思い、五高での給料の一部をさいて、虚子の選科での学費の一部に充てるよう申し出たのである。

ところで漱石は虚子に出会わなかったら、小説家にならなかったかもしれない。漱石は英国から帰国後も留学中と同じように、しばしば神経衰弱に悩まされた。これに困り果てた妻の鏡子が虚子に頼んで、漱石を新派や歌舞伎や能を見に連れ出して貰うが、能以外は「こんなのどこが面白いのですか」といって途中からさっさと退席してしまう。

そこで虚子は、子規の始めた「山会」に漱石を誘い出し文章を書かせる事を思い付く。その結果、漱石は「吾輩は猫である」を明治三十八年一月の「ホトトギス」に発表し、予想外の好評で連載ものとして続けることになった。さらに翌年四月の「坊っちゃん」で漱石の人気はさらに高くなる。

こうした漱石に刺戟され、もともと小説家志望だった虚子も小説への移行を決意し、前にも述べたように明治四十三年四月の「ホトトギス」に「風流懺法」を執筆したのを皮切りに、「斑鳩物語」「大内旅宿」を次々に発表した。子規没後三、四年で、二人は期せずして小説家としてデビューすることになったわけだ。

この二人の文章熱は「ホトトギス」のほかの仲間にも刺戟を与え、伊藤左千夫の「野菊の墓」、鈴木三重吉の「千鳥」、森鴎外の「護持院原の敵討」、上司小剣の「鱧の皮」などが次々に誌面を飾るようになり、「ホトトギス」はまるで小説雑誌のようになった。ところが漱石が、明治四十年四月に小説記者として朝日新聞社に入社、漱石の作品は朝日以外に載せられなくなって、漱石も虚子と会うことが減ってきた。また、二人が有名になり多忙だった上、明治四十三年末、虚子が健康上の理由で鎌倉由比ケ浜に転居したりして、よけい疎遠になってしまった。

あれやこれやで、虚子が久しぶりに漱石山房を訪れ漱石に会うのは、危篤の報を聞いて病床に駆けつけた時であった。この時の模様を鏡子は、


息を引き取る一時間ばかりも前のことでございましたでしょう。高浜虚子さんがいらっしゃいまして、

「夏目さん」とおっしゃると、

「ハィ」と返事をしました。それに力を得て、

「僕高浜ですが…」とおっしゃると、

「ありがとう」

と申していたくらいで、ほんの少し前までは、時々昏睡状態に陥ってもいたのでしょうが、なかなかはっきりしていたものでございます。        (『漱石の思い出』)


と語っている。漱石は虚子が病床に来て約一時間後に息を引きとった。大正五年十二月九日午後六時四十五分、数えで五十歳だった。


つづく




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