2021年4月25日日曜日

尹東柱の生涯(18)「1943年7月10日 宋夢奎、京都下賀茂警察署に逮捕。7月14日 尹東柱と高熙旭、逮捕。12月6日 3人共、検察送り。1944年1月19日 高熙旭、釈放。」   

尹東柱の生涯(17)「1943年初夏(5月か6月) 同志社大学の学友と平等院~宇治川に送別ピクニック。天ヶ瀬吊り橋で記念写真。この時点で尹東柱は帰国を決めていた。参加者から乞われて、川原で朝鮮民謡「アリラン」を母国語で歌う。」

より続く

1943年7月10日

宋夢奎、下賀茂警察署に逮捕。

7月中旬

尹東柱、松原輝忠に文学は民族の幸福に立脚すべしと民族的文学論を説く。(於武田アパートY)

1943年7月14日

尹東柱、京都下賀茂警察署に逮捕、拘禁。特高刑事による取り調べ。

同日(7月14日)

高熙旭(三高生、宋夢奎と同じ下宿)、逮捕

高熙旭の証言

当時は太平洋戦争が勃発したあとで、世の中すべて戦時体制に突入するというので、三高もやはり三年制の学制が二年六カ月に短縮されました。それで七月に卒業試験を受けることになったんです。逮捕された日はちょうど一週間つづいた卒業試験が終わる前の日でした。朝、登校準備をしているところに刑事たちが入ってきたんです。

刑事は「洗面道具を持ってわたしといっしょに行こう」といって連行しようとした。わけがわからず理由を問う彼に何の説明もなされなかった。ともかく試験終了日をわずか二日間残すだけだからといって、「どういうわけかわからないが、いっしょに来いというなら行こう。ただ明日まで待ってくれ。卒業試験を今日と明日の二日間受けられなければ、卒業できなくなる」と事情をいったが、拒絶されそのまま連行された。

警察は彼を拘禁したのち、なんの措置もなく数日間そのままにした。彼はつかまったわけがわからないということと、卒業試験のことで何日も焦燥にかられた。ついに取調室に呼ばれていくと、すぐに「宋夢奎を知っているか」と訊かれた。「そうだったのか!」という思いがさっと頭をかすめた。自分が逮捕される数日前から下宿の家で宋夢奎の姿をまったく見かけなかったが、彼は卒業試験に忙しくて別に気にしていなかった。そうだとすれば宋夢奎は自分より何日か前につかまり、自分も彼に関連して「思想問題」でひっぼられたのだと、そのときになってはじめて思った。

その間、宋夢奎とともに「朝鮮の独立」とか「朝鮮民族の民族意識を覚醒させるための文化運動」といった問題について意見を交わし、自分は今後、演劇分野に進んで演劇を通じての民族文化運動をしてみたいという抱負を示したこともあったのだ。

日警の取調べにたいして彼は最初、黙秘権を行使しようとした。すると取調官は一連の書類を見せた。それはおどろくべきことにほとんど一年近く尾行し盗み聞きして作成された記録だった。何月何日何時に下宿の部屋の明かりが消え、何日にある食堂で宋夢奎と尹東柱と高熙旭の三人が会っていっしょに会食したとか、ある日の何時まで宋夢奎の部屋である内容の話をしあったとか、そんな具合に詳細に記されたものだった。

取調官は宋夢奎を監視して作成した書類を出し、「宋夢奎は要視察人だから、この間ずっと監視していた」と明かした。これを見て高熙旭はそれ以上黙秘権を使う気にならず、取調べに応じた。拷問はとくにひどく受けなかった。

警察で取調べを受けているときには留置場で他の在署者といっしょにいた。もちろん事件関連者とはたがいに隔離させたため、誰がどこにいるかはわからなかった。ただ取調べを受けるときの話から宋夢奎と尹東柱がともに捕まっていることはわかった。取調文書に登場する他の人物たちとはまったく面識さえない間柄だった。


尹永春が尹東柱に面会した時の様子

取調室に入っていくと、刑事が机の前に尹東柱を座らせて、尹東柱が書いた朝鮮語の詩と散文を日本語に翻訳させているのである。これより何カ月か前にわたしに見せてくれた詩の中でもっともよいものだと思われる詩はほとんど翻訳していたようだ。この詩をコロッケ(興梠(こうろぎ)のまちかい)という刑事が調べて一件書類とともに福岡刑務所に送ったのである。東柱が翻訳していた原稿の束は相当に厚みがあった。たぶん何カ月かまえにわたしに見せてくれた原稿のほかにももっと多くのものが入っていたのだと思う。いつも笑っていた彼の顔は少し青ざめていた。弁当をわたすと刑事はそれを机の前に置き、もう時間がきたから早く出て行けといった。

東柱はわたしに「叔父さん、心配なさらずに家に行って祖父や父、母に、すぐ釈放されて出て行くと伝えてください」。これが生前彼に会った最後の瞬間となった。わたしは一人になって考えてみて、せいぜい一年ほど監獄で苦しんだら出てくるだろうと思った。まさか死ぬことはないだろうと・・・こう自分を慰めもした。東京から肌着を準備して持っていったがそれもわたして、着替えなさいといいつけて取調室を出て行くわたしの足はうまく動かなかったし、頭はどこかにぶつけたみたいに鬱憤でかっと熱をもち、声を上げて泣きたい気持ちだった。

(尹永春「明東村から福岡まで」『ナラサラン』23集、ウェソル会、1976年、112 - 113頁)


12月6日

宋夢奎・尹東柱・高熙旭、ともに検察送りとなる。以後は検事局の監房でそれぞれ独房生活となる。

高熙旭の証言

警察署でも検事局でも、尹東柱を一度も見たことがないが、宋夢奎は検事局の廊下でただ一度だけ出くわしたことがある。検事局に移されてからほぼ二カ月たってはじめて検事に呼ばれ取調室に行ったのだが、宋夢奎は先にそこに呼ばれて監房に戻っていく途中だった。彼は高熙旭を見ると微笑を浮かべてみせた。なんの含みもない曇りのない微笑だった。最初、逮捕されたときには処罰にたいする恐怖と、とくに自分が「要視察人」であることを明らかにしなかった宋夢奎にたいする恨みをもっていたが、そのときにはすでにすべてのことをあきらめて、むしろ楽な気持ちになっていたので、彼に向かってやわらかく笑い返すことができたという。

このときの宋夢室の微笑を浮かべていた顔がいつまでも忘れられなかった。こっちには護送人がはりつき、あちらのほうにも同じく護送人がくっついていて、一言も話すことはできなかった。結局、それが最後に見た宋夢奎の顔になった。


いま残っている公判記録によって彼らの事件は江島孝検事の担当とされたことが明らかになった。彼は、高熙旭に自分が三高の先輩であることをそれとなくほのめかしている。

特高では彼ら三人をすべてひっくくることができると判断したが、江島孝検事は特高の書類を検討して最初から高熙旭については手早く処理したようだ。彼の証言にあるとおり検事局監房に収監中、彼は検事の審問をとくに受けずにすごしたという事実と彼ひとりだけ先に釈放された事実がそれを証明する。年が変わって1944年になると検事は1月19日付で高熙旭を「起訴猶予」処分にして釈放した。〝嫌疑なし〞で処理するのでなく「起訴猶予」としたのは、「こんどだけは容赦するから謹慎せよ」という意味をたぶんに込めたものであろう。


1944年1月19日

高熙旭、釈放される。

高熙旭は下宿に戻った。帰ってきた彼を見て下宿の主人が「ごめんなさい」としきりにあやまった。ずっと警察が彼らを監視し、彼らがいっしょに話をしているとそれをひそかに盗み聞きしていたが、そういう事実を絶対に知らせるなと厳命されたので、知らせることができなかったという。

そのときから彼にもいつも刑事の監視がつきはじめた。彼がどこに住所を移して行っても、そこにどう連絡が行くのか影のようにかならず刑事があらわれた。それが解放時までつづいた。今や彼も「要視察人」となったのだ。

三高の卒業試験をすべて受けられないまま逮捕されたので、彼は「落第」として処理されていた。彼はふたたび3学年に通いはじめた。三高を卒業したあとは東京帝大英文科に進学した。しかし、1945年、太平洋戦争の末期に入って米国の飛行機による日本本土空襲が激しくなると、彼は学業を中断して帰国した。

解放後、彼はソウル大学英文科に転学して学業を継続した。英文で作成した卒業論文の題目は「自然詩人としてのワーズワース」だった。


つづく



0 件のコメント:

コメントを投稿