2021年4月24日土曜日

小林のり一著『何はなくとも三木のり平 父の背中越しに見た戦後東京喜劇』を読む。「東京ッ子の多くがそうであるように、三木のり平もまたすこぶるシャイなびとであった。だがシャイと言われるひとのほとんどが、じつは内なる傲慢さのやつしであったり、慇懃無礼の裏がえしであることを思えば、三木のり平の「含差」こそがほんもので、ほんものであるが故のさびしさをそなえていた。もうこんな東京ッ子は出てこない。」(矢野誠一)   

 

小林のり一著『何はなくとも三木のり平』を読んだ。

三木のり平といえば桃屋のCMの印象が強烈だが、ずっと昔、すごく面白い喜劇を観た遠い記憶があった。それは、多分、『雲の上団五郎一座』の事だったのかもしれない。微かに八波むとしという名前も覚えてる(この方、自動車事故で亡くなられたんだ)。その喜劇、本著によれば、いわゆる「玄冶店(げんやだな)」の一幕だったんだね、多分。

誰かのツイートで知った本著を図書館の閲覧登録をしたのだが、その時点で既に待ち行列が出来ていた。更にその後、朝日新聞の書評欄で取り上げられ、更に私のうしろに長い待ち行列が出来た。

著者は三木のり平の長男、三木のり一。

三木のり平、私の父(大正14年生まれ)とほぼ同い年だった。

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三木のり平;本名は田沼則子(たぬまただし)。

大正13(1923)年4月11日生まれ。しかし、実際は大正12年9月1日の関東大震災直後の同月か10月初め尾久というところの赤十字のテントで生まれたという。本籍は、東京市日本橋区浜町、実家は「芳柳(ほうりゅう)」という待合(芳町と柳橋の間にあったことからの命名)。

絵が好きで日大美術科に進む(中退)。舞台美術をやるために劇団に入ったが、役者に転向。その理由は、、、、

で、舞台美術やってるうちに、演出とか効果とか照明とかいろいろ分野はあるし志願者も居たんだけれども、先輩が「先ず役者になって舞台に立ってみれば、いろいろな分野のこともよくわかるぞ」って教えくれたんでやってみた。その頃の学生で芝居やってるのは地方から出て来たのが多かっだんですね。どうしてもみんなナマリがある。芝居の基本は標準語だったから、ぼくはその点、楽だったし有利だったんですよ。だもんだから僕より上の先輩にセリフを教えるようになっちゃったの。・・・・・

で、昭和8年、築地小劇場への応援中に逮捕される。

り平 いえネ。学生演劇仲間で築地小劇場へアルバイトに手伝いに行ってた時なんですよ。移動劇団がやってましたがネ。千田是也さんの陰の演出の芝居だったんですよ。ポクの場合は別件逮捕ですよ。チョイとした盗みをしたとか言うのを、どっかから恰ってくるんだからネ工。エライもんだ(笑)。で、「何かないか。あるだろう」って罪をつくつちゃうんですよ(笑)。思想的なもんじゃないの全然・・・。こっちはチンピラなんだしマルクスもレーニンもわかってないんだからネ。日本をひっくり返そうとか革命のとか考えてもいやしない(大笑)。一週間、本庁に居てタライまわしに空いたとこ空いたとこ行かされて・・・。別に訊問するわけじゃないしネ。罪をつくりやアいいんだから・・・。たまに「何か思い出せ、このーなんて(笑)。それで、何か言わないと出してくれないんだから参っちゃうよ。で、学徒動員で工場に行った時に病院の冷蔵庫から病人用のバターを持ち出して、それを売った事があるのを思い出してネ。それを言って出してもらったんです。

・・・・・一応、軍需物資を持ち出したってんで「特別軍事法」ってのに引っかかったんです。それでネ。ブタ箱で何日かオマンマも食べたでしょ。・・・・・

このあたり、先の役者転向の理由・背景などにも所謂「シャイとか含羞」の匂いがある。

次に、喜劇、商業演劇への転向については、、、

のり平 (略)結局、昔ゴーゴリの「検察官」やった時が基本でしょうネエ。千田是也、青山杉作両先生の共同演出だったんだけれども、青山先生は商業演劇を手がけられましたから「あなたは商業演劇の方へいらしたらどうですか」ってお世辞だが、新劇やっててもお前は駄目だって言われたのか、わからないけれども(笑)・・・ま、その辺なんですネ、きっかけになったのは・・・。で、「やるんなら喜劇をおやんなさい」ってすすめてくださったんですなア。

志ん朝さんものちに対談で話されています。
「もともとあの方(のり平)は新劇の出で、俳優座なんですね。(略)浜田寅彦さんって知ってます?(略)あの方なんかと同期で。自分たちでお芝居をやってて、そのときに誰か、僕は名前忘れちやったけど有名な演出家が稽古を見てて、「今、あすこの後ろを歩いてる通行人をやってる男は今に偉大な喜劇役者になるよ」って言われたんだそうです」(『文藝別冊KAWADE夢ムック永久保存版古今亭志ん朝落語家としての生涯』河出書房新社)。

ここから、いわゆる「三木のり平」でイメージする喜劇俳優としての人生が始まる。

その後の活躍については、『雲の上団五郎一座』とか、森繁劇団の『南の島に雪が降る』『佐渡島他吉の生涯』など役者として、さらに演出家として『放浪記』『おもろい女』(主演森光子)がある。

そして、晩年。

平成五年にうちの母が亡くなり、続いて平成九年には西村晃さん、小野田勇先生という日大での同窓生で終生親友だった二人も亡くなりました。二人に先立たれた父はテレビの上に写真を飾り落胆し、深酒のあげく後を追うように亡くなりました。
この時期、のり平を慕って下さった方も多々いてくださいました。高田文夫先生もそのおひとりです。

平成11(1999)年1月25日没。享年74歳。

矢野誠一さんは、次のように書いてくださっています。
「三木のり平は正真正銘の東京ッ子だった。なにも日本橋浜町育ちといった事実だけではなく、明治の変革いらいこの都会がさんざなめてこざるを得なかった固有の苦渋と屈折を、このひとは見事に具現していた。東京ッ子の多くがそうであるように、三木のり平もまたすこぶるシャイなびとであった。だがシャイと言われるひとのほとんどが、じつは内なる傲慢さのやつしであったり、慇懃無礼の裏がえしであることを思えば、三木のり平の「含差」こそがほんもので、ほんものであるが故のさびしさをそなえていた。もうこんな東京ッ子は出てこない。
舞台人三木のり平を多くの人に知らしめるに、東宝映画社長シリーズにおける「ぱアっとやりましょう」が口ぐせの宴会部長の果たした役割は大なのだが、当人には忸怩たる思いがあったはずである。結果として最晩年の仕事となった木山事務所公演の二本の別役実作品『はるなつあきふゆ』『山猫理髪店』で見せた夾雑物をきれいにそぎ落し、乾いたとしか言いようのない演技スタイルにたどりついたことで新劇回帰の思いを果し、しごくあっさりと東京ッ子三木のり平は彼岸に渡ってしまった」(『舞台人走馬燈』早川書房)。

すごくいい文章だ。

おわり




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