2022年5月28日土曜日

〈藤原定家の時代008〉永萬2/仁安元(1166)年 木曽義仲(駒王丸)元服 備後国大田荘の立券 平時忠の三事兼帯 清盛、正二位 人々の不安 摂関家領の横領        

 


〈藤原定家の時代007〉長寛3/永萬元(1165)年 平重盛参議 六条天皇(2)即位 二条天皇(23)没 額打論 清水寺炎上 平清盛権大納言 憲仁(5、のちの高倉天皇、生母平滋子)親王 より続く

永萬2/仁安元(1166)年

この年

・木曽義仲(駒王丸)、京都の石清水八幡宮にて元服。義仲と名乗る

・平清盛、安芸国知行国主となる。志通原荘を厳島神社領に(現地支配を神主佐伯景弘、下司・地頭に寄進主体の在地領主)、壬生荘を憲仁親王(高倉)・建春門院へ寄進。

・藤原定家の妻、藤原実宗女(為家母)誕生

1月
・平重衡、備後国大田荘を御厨領として後白河上皇に寄進。本家、後白河上皇(6丈布150反上納)。預所、平重衡(米1800石以上を獲得)。下司職、橘氏(在地領主)。
備後国大田荘は清盛の子の重衡から後白河院領に寄進され、重衡が預所に任じられる。立荘を命じた院庁下文の正文は清盛によって進められている。清盛がこの荘園の領家、実質の領主であった(「高野山文書」『平安遺文』)。
「後白河院庁下文」によると、同荘は「太田並びに桑原両郷の荒野山河等を、尾張守平重衡(清盛の五男)が開発し、これを後白河上皇に寄進し、これをうけた上皇が院領荘園として立券した」いわゆる寄進型荘園である。
太田庄の地には本来の在地領主とみられる橘兼隆・同光家があり、実際の開発領主であった彼等が、全盛期の平氏一門の一人である重衡に所領寄進をしたことにより、重衝の領主権が成立した。この年(永万2年)には重衡はまだ11歳であるから、実際には平氏一門に寄せられた所領ということになる。平氏は、この所領保有をさらに確実なものとするために、この荘の預所職を重衡の手に留保して、本家寄進を行い、院領荘園としての立券が果された。
全盛期に近い平氏一門といえども、その所領荘園を確保するためには、上皇の権威を必要とし、上皇もまた本家寄進をうけることによって、平氏と利益をともにし得た。

1月12日
・藤原顕広(53、俊成)、左京大夫を辞し、成家を侍従に申し任ず。
2月4日
・地震あり。10日も地震あり。

2月26日
・行願寺を供養する。
3月
・平時忠(37、清盛妻時の弟)、本位に復帰。
二条天皇没後、清盛が後白河との同盟に方針を転じ、後白河院政が復活したため復権できた。

3月29日
・平治の乱の流人源師仲・藤原惟方、召還。師仲は同年10月21日正三位に復し、翌仁安2年1月28日従二位に叙任。召還後は終生官職につかず。
5月
・「中宮亮重家朝臣家歌合」。参加歌人28人、判者は正三位・前左京大夫藤原顕広(54、後の俊成)。
6月
・藤原隆房、右近衛少将となる。
・平時忠(37、清盛妻時の弟)、蔵人となり、五位蔵人・弁官・検非違使佐を兼ねる(三事兼帯)。
宮中(蔵人)と太政官(弁官)双方の実務に関与し、司法・警察・京中の民政(検非違使)をも握る広汎な権限をもつので、才幹ある人に限られ、極めたる栄誉とされた。桓武平氏高棟の系統全体では三事兼帯の人物を輩出する流れもあったが、時信(時子・時忠の父)直系では最初である。

6月6日
・平清盛(49)、正二位に叙任。

6月20日
・地震あり。
7月15日
・平重盛、中納言

7月15日
・平頼盛(35)、太宰大弐に任命(従三位・非参議)。10月2日、異例の現地赴任。娘を太宰府府官の原田種直に嫁がせる。

7月23日
・人々の不安。
『春日権現験記絵』巻11の3段に、この日、春日の一の鳥居の辺に札が立てられ、そこには春日の三宮が「希有(けう)なる幼き人に世を領(しり)て」と言い残し春日社を去っていったという「夢」が記されていたという。天下の政が不法なために、賀茂大明神が日本国を捨てて他所に移っていったという夢を見た人もいた。

7月25日
・応天門が倒壊する

7月26日
・摂政藤原基実(24、忠通の嫡子。二条天皇の関白、六条天皇の摂政。九条兼実の長兄)、没。
嫡男基通(7)は若年の為、27日、弟松殿基房(23、兼実の次兄、院近臣)が摂政に就任。

清盛は、摂関家領のうち摂政・関白の地位そのものに付属する「殿下渡領」(でんかのわたりりよう、興福寺・法成寺・平等院・勧学院・鹿方・方上)のみを基房に伝領させ、氏長者領をはじめとする大部分の家領及び邸宅などを、すべて近衛家に相続させ、しかも基通の幼少の間は、これを基実の未亡人としての盛子(清盛娘、北白川政所、11)があずかるということとした。そして、清盛が盛子の後見人となり、摂関家領の大部分を事実上支配する。
これに対して上皇は、表面上はこれを支持。
そもそも、この案は、中宮亮の藤原邦綱(くにつな)が清盛に提案し、『愚管抄』は、これ清盛が「アダニ目ヲサマシテ聞キ喜」んだと伝えている。
こうして摂関家領の管轄に成功した清盛は、27日、摂関家の家司(けいし)平信範(のぶのり)に三河国志貴(しき)荘を知行するよう家人(けにん)安芸守藤原能盛(よしもり)を通じて伝える(『兵範記』)。薩摩・大隅・日向三国にわたる大荘園の島津荘は邦綱の知行に帰し、のちに邦網の娘の大夫三位が知行している。
しかし、治承3年(1179)6月18日白川北政所平盛子(24)没後、所領(もと摂関家所有)を後白河院が没収し、その倉預かりに前大舎人頭平兼盛を任命。清盛の後白河院幽閉を招く一因となる。             

のち、平家一門と後白河院の対立から、治承3(1179)年11月15日、基房は失脚、出家を条件に備前へ配流。 

摂関家領の横領
「さる程に其年(仁安元年)の七月二十六日 俄にこの摂政のうせられにければ、清盛の君こはいかにといふばかりなきなげきにてある程に、・・・邦綱が清盛公が許にゆきて云けるやうは『この殿下の御跡の事は、必しもみな一の人につくべき事にても候はぬなり。かたがたにわかれてこそ候しを、知足院殿の御時の末にこそ一になりて候しを、法性寺殿ばかりこそ皆すべておはしまし候へ。この北政所殿かくておはします。又故摂政殿の若君も此御腹にてこそ候は子ども、おはし候へば、しろしめされんに僻事にて候はじ物を』と云けるを、あだに目をさまして聞悦びて、そのまゝに云合せつゝ、かぎりあることゞもばかりをつけて、左大臣にて松殿おはすれば、左右なき事にて摂政にはなされて、興福寺、法成寺、平等院、勧学院、又鹿田、方上など云所ばかりを摂録にはつけて奉りて、大方の家領鎮西のしまつ以下、鴨居殿の代々の日記宝物、東三条の御所にいたるまで惣領して、邦綱北政所の御後身にて、近衛殿の若君なるやしなひて、・・・」(『愚管抄』)


つづく

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