2022年5月29日日曜日

〈藤原定家の時代009〉永萬2/仁安元(1166)年 藤原俊成(53、定家の父)従三位 藤原成範・平頼盛(忠盛五男)従三位 後白河上皇(40)第4皇子憲仁親王(6、後の高倉天皇)を皇太子 平時子(42)二位、平滋子(25)三位 平清盛(49)内大臣 藤原定家(5)従五位下        

 


〈藤原定家の時代008〉永萬2/仁安元(1166)年 木曽義仲(駒王丸)元服 備後国大田荘の立券 平時忠の三事兼帯 清盛、正二位 人々の不安 摂関家領の横領 より続く

永萬2/仁安元(1166)年

8月6日

・地震あり。

8月27日

・「仁安」に改元。

8月27日

・藤原顕広(53、俊成)、従三位に叙せられ、念願の公卿の地位に就く。翌年12月24日、本流に復し、俊成と改名。

8月27日

・藤原成範・平頼盛(忠盛五男)、従三位に叙任。九条兼実(18)、左大将に任命。院近臣の藤原成親、参議。

忠盛五男頼盛:

各国守を歴任。さらに越前・尾張・紀伊・加賀・佐渡の知行国主。

仁安元年太宰大弐(だいに)となり、同年8月従三位に進む。翌々年参議。寿永2(1183)年正二位・権大納言に昇る。清盛の弟中でもっとも栄進した。

頼盛は清盛とそりが合わず、一門中に少なからぬ不協和音を奏でる。平家の治承3年クーデタでは、反対派公卿の大量解官(げかん)のなかに頼盛の右衛門督(うえもんのかみ)も入っており、彼を六波羅に討つとの噂さえ流れたほど。

清盛は忠盛の長男で嫡子であるが、実子ではなく白河院の落胤。

一方頼盛は『源平盛衰記』が「当腹ノ嫡子」と書く(巻一「忠雅播磨米」)。「当腹」とは嫡妻(むかいめ、正妻)の子という意味で、忠盛の正室になった修理大夫(しゅりのだいぶ)藤原宗兼の娘宗子(そうし)が生んだ子である。頼盛と母を同じくする兄に家盛がいたが、久安5年2月天折。

母の宗子は白河・鳥羽院の代表的近臣、藤原顕季・家成らの縁者であり、頼盛自身も後白河院政期、院近臣や鳥羽と美福門院の間に生まれた八条院暲子(しょうし)に代表される女院勢力と政治的に連携していた。

彼の妻は、八条院の乳母と法印寛雅(かんが、鬼界島に流された俊寛僧都の父)の間に生まれた娘である。

早くに母を亡くし後ろ盾をもたない清盛に比べ、頼盛は正妻の子であり十分なバックアップがあった。もし清盛が皇胤でなければ、また速やかな昇進を果たしていなければ、頼盛が一門の棟梁になったかもしれない。それが頼盛と彼の周辺にとっての不満のたねであった。

9月1日

・藤原定家の伯父快修、天台座主に還補。

9月4日

・後白河院、日吉社に御幸。5日、還御。9日、熊野精進屋に入御

10月5日

・後白河院、熊野より還御

10月10日

・後白河上皇(40)第4皇子憲仁親王(6、後の高倉天皇)を皇太子とする。平清盛、東宮大夫に任命。東宮の亮には清盛の弟教盛(のりもり)が就任。九条兼実(18)、皇太子傅(ふ)に任命。権大夫(ごんのだいぶ)に邦綱、亮(すけ)に教盛(のりもり)、権亮(ごんのすけ)に藤原実守、大進(だいしん)に知盛、権大進に藤原光雅(みつまさ)が任じられる。

東宮坊の主要な官職は傅の摂関家の九条兼実以外は、平氏一門が占め、さらに乳母には藤原邦綱の娘と重盛の室が選ばれ、重盛は乳父(めのと)となった。21日には清盛の妻時子が二位に、滋子が三位に叙される。こうして東宮を平氏が支える体制が生まれる。

『兵範記』が語る当日の模様。

後白河上皇と同宿していた憲仁は、東山の法住寺殿から上皇とともに東三条邸に向かった。殿上人30余人が前駆となって、その後を13人の公卿が行進し、続いて院の車とその護衛の重盛が行き、さらに検非違使、五位・六位の30余人が続く。次に憲仁の行列となり、前駆18人に続く公卿7人の最後尾には清盛が位置し、憲仁の車には母の滋子(しげこ)が同乗、右中将藤原実守(さねもり)が後に控え、検非違使らが続き、最後尾は摂政の行列であったという。

21日、兼実、左大将に辞任。11月12日兼実、右大臣に任命。

平教盛について、『源平盛衰記』には「(清盛は)兄弟多クオハシケル中ニ、コトニ此人ヲバ糸惜(いとほしく)オボシテ、一日モ見ネバ恋(こいし)クヲポツカナ(覚束な)ケレバトテ、六波羅ノ惣門ノ脇ニ家ヲ造テ居(すゑ)置給ヒタレバ、異名ニ門脇宰相卜申ケル也」(巻六「丹波少将被召捕」)とある。仁安元(1166)年10月10日、清盛が憲仁親王の東宮大夫に就任した際、次官たる亮には教盛が就任した。清盛が自分の兄弟と上司-下僚の関係になった例はほかになく、この人事は清盛の強い希望によって実現したと考えられる。

忠盛の四男教盛(のりもり):

久安4(1148)年従五位下、保元・平治の乱をはさんで国守などを歴任。応保元(1161)年憲仁(のりひと)親王(後白河第四皇子)の立太子を企てた陰謀に関係して官職を解かれる。翌年許され能登守・内蔵頭(くらのかみ)・東宮亮(とうぐうのすけ)を経る。仁安3(1168)年、憲仁が高倉天皇となって即位すると蔵人頭、そして参議になり正三位に進む。母は少納言藤原家隆の娘で、経盛の母同様、忠盛との関係は長続きしなかった。能登・越前の知行国主になっている。養和元年権中納言、翌寿永元(1182)年従二位、同2年正中納言に進む。

検非違使平盛国(伊勢平氏)、東宮主馬署の首(かみ)兼任を命じられ「主馬判官」と呼ばれる。

10月21日

・平時子(42)が二位、平滋子(25)が三位に叙任。

11月3日

・後白河院、新たに鳥羽離宮に北殿を造営してこの日御幸。

11月4日

・松殿基房、左大臣辞職。

11月11日

・平清盛(49)、内大臣に任命。清盛が美作の知行国主、平宗盛が美作守となる。藤原経宗、左大臣。九条兼実、右大臣。

11月13日

・久我通親、正五位下となる。

11月16日

・清盛の内大臣拝賀の儀式。前駆は30余人(13人の内殿上人、8人の院殿上人、10人の諸大夫に本家の勾当(こうとう)2人)、9人の公卿がつき従い、上皇・東宮・天皇・中宮・摂政邸を順々に回って、大波羅に戻ると、政所の吉書始(きつしよはじめ)めが行われ、侍所始めも行われた。

任大臣の拝賀の日に蔵人頭の藤原朝方(ともかた)と藤原実家が解官される。2人とも院近臣。解官理由は、任大臣の節会の直後に行われ五節(ごせち)の節会に出席しなかったというもの。節会不参は「希代の事」と称されており(『兵範記』)、清盛の内大臣就任への不快感の表明とも考えられる。

11月18日

・摂関家の基実(もとざね)の北政所となった盛子(清盛娘)、憲仁の准母として従三位となり、准三宮を宣下

11月21日

・平資盛、従五位下に叙任。平維盛より先。

12月

・宇佐宮大宮司の宇佐公通(きんみち)、大宰権少弐に任じられる。更に、安元2年(1176)には対島守、さらに豊前守などの受領になる。

12月1日

・京都で大火。

12月2日

・平清盛の辞任により、平重盛(29)が春宮大夫に任じられる。

12月22日

・皇太子憲仁親王、着袴の儀。

12月22日

・延暦寺五仏院など諸院、焼失。

12月30日

・平治の乱で功労のあった源頼政(61)、内の昇殿(皇居殿上の間の参内)を許される。

12月30日

・平資盛(重盛の子)、越前守となる。

12月30日

・藤原定家(5)、皇后宮の御給により従五位下となる。貴族社会入り。光季を季光と改める。

定家は、長寛元年(1163)の「皇后給」の「給」が当てられる(定家は皇后に配分された長寛元年分の年給の未使用分をこの年仁安元年に適用されて五位となる)。定家の給主の皇后は、藤原公能と定家の叔母豪子(ごうこ)との間の女の忻子(きんし)。この年の皇后宮大夫は忻子の兄弟の徳大寺実定、更に嘉応2(1170)年には俊成が実定より譲られ大夫となる。徳大寺家との強い繋がり。徳大寺実定は和歌・管弦に秀でた風流人で「平家物語」「古今著聞集」にも登場。

年給制度:

有力貴族には毎年官位申請する権利があり、申請者の貴族(給主)は官位についた人物より任料を取得できる。

公卿に昇るコース:

①近衛少将・中将~参議・中納言・大納言に至るコース(定家)。

②蔵人・弁官~参議・中納言に至るコース(実務官人)。

③諸国の受領~三位に至るコース(諸大夫)。


つづく

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