2022年8月10日水曜日

〈藤原定家の時代083〉治承4(1180)8月24日 頼朝、椙山の鵐窟に隠れる。追手の梶原景時はこれを見逃す。箱根権現別当行実の弟永実の助力で箱根権現に向う。北条宗時(義時兄)討死      

 


治承4(1180)

8月24日

・頼朝、土肥実平・遠平の案内で、椙山の鵐窟(しとどのいわや)に隠れる。追手の梶原景時はこれを見逃す。箱根権現別当行実の弟永実の助力で箱根権現に向う。

25日、箱根権現出発。小道峠で敵と遭遇し、再び椙山に戻り、27日迄鵐窟に潜む。

北条宗時(義時兄)、早河辺にて討死

石橋山の敗戦後、甲斐国に向かおうとする父時政・弟義時に対し、宗時は土肥山から桑原・平井郷(静岡県函南町)を経た「早河」の近くで、伊東祐親の軍兵に射取られた。

「武衛椙山内堀口の辺に陣し給う。大庭の三郎景親三千余騎を相率い重ねて競走す。武衛後峰を逃げしめ給う。この間加藤次景廉・大見の平次實政、将の御後に留まり、景親を防禦す。・・・武衛また駕を廻し、百発百中の芸を振るい、相戦わるること度々に及ぶと。・・・北條殿父子三人、また景親等と攻戦せしめ給うに依って、筋力漸く疲れて、峯嶺に登ること能わざるの間、武衛に従い奉らず。・・・早く武衛を尋ね奉るべき旨命ぜらるるの間、各々奔走し数町の険阻を攀じ登るの処、武衛は臥木の上に立たしめ給う。・・・

武衛この輩の参着を待ち悦ばしめ給う。實平云く、各々無為の参上、これを喜ぶべしと雖も、人数を率いしめ給わば、この山に御隠居すること、定めて遂げ難きか。御一身に於いては、例え旬月を渉ると雖も、實平が計略を加え、隠し奉るべしと。而るにこの輩皆御共に候すべきの由を申す。また御許容の気有り。實平重ねて申して云く、今の別離は後の大幸なり。公私命を全うし、計りを外に廻らさば、盍ぞ会稽の恥を雪がざらんやと。これに依って皆分散す。悲涙眼を遮り、行歩に道を失うと。・・・また北條殿・同四郎主等は、筥根湯坂を経て、甲斐の国に赴かんと欲す。同三郎は、土肥の山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河の辺に於いて、祐親法師が軍兵に囲まれ、小平井名主紀六久重の為射取られをはんぬ。茂光は行歩進退せざるに依って自殺すと。・・・

景親武衛の跡を追い、嶺渓を捜し求む。時に梶原平三景時と云う者有り。慥に御在所を知ると雖も、有情の慮を存じ、この山人跡無しと称し、景親が手を曳き傍峰に登る。・・・晩に及び、北條殿椙山の陣に参着し給う。爰に筥根山の別当行實、弟僧永實を遣わし、御駄餉を持たしめ、武衛を尋ね奉る。・・・永實件の駄餉を献る。公私餓えに臨むの時なり。値すでに千金と。・・・

その後永實を以て仕承と為し、密々筥根山に到り給う。行實の宿坊は参詣の緇素群集するの間、隠密の事その便無しと称し、永實が宅に入れ奉る。この行實と謂うは、父良尋の時、六條廷尉禅室並びに左典厩等に於いて聊かその好有り。茲に因って、行實京都に於いて父の譲りを得て、当山別当職に補せしむ。下向の刻、廷尉禅室下文を行實に賜い東国の輩に備う。左典厩の下文に云く、駿河・伊豆の家人等、行實相催せしめば従うべしてえり。然る間、武衛北條に御坐すの比より、御祈祷を致し、専ら忠貞を存ずと。石橋合戦敗北の由を聞き、独り愁歎を含むと。弟等数有りと雖も、武芸の器を守り、永實を差し進すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「甲辰。武衛は杉山の内の堀口辺りに陣を構えられた。大庭三郎景親は三千余騎を率いて再び迫ってきた。頼朝は後方の峰に逃れられた。この間に、加藤次景廉と大兄平次実政が頼朝の後にとどまり、景親の軍勢を防いだ。そして景廉の父である加藤五景員と実政の兄である大兄平太政光は、それぞれに子を思い、弟を憐れんで前には進まず、馬を止めて矢を放った。この他にも、加藤太光員、佐々木四郎高綱、天野藤内遠景、同平内光家、堀藤次親家、同乎四郎助政らが同様に馬を並べて防戦した。景員らの乗っていた馬の多くは矢に当たって斃れた。頼朝はまた馬を廻らして百発百中の技を見せながら何度も戦いに及び、その矢ははずれることがなく、多くの者を射殺した。矢が尽きたので景廉が頼朝の馬の轡をとって山深くに引き申したところ、景観の軍勢が四、五段近くまでやって来た。そこで高綱、遠景、景廉らは数度戻って矢を放った。北条殿父子三人(時政・宗時・義時)は、景親らと戦われたため、しだいに疲労困燈し、山の峯に登ることができなかったので、従い申すことができなかった。景員、光員、景廉、祐茂、親家、実政は、(時政らの)供をすると申した。時政は、「それはいけない。早々に頼朝をお探し申せ。」と命じられたので、彼らは数町の険しい道をよじ登ったところ、頼朝は倒れた木の上にお立ちになり、実平がその傍らにひかえていた。頼朝は彼らの到着をお喜びになった。

実平が言った。「おのおの無事に参上したのは喜ばしいことではありますが、これだけの人数を引率されてはこの山に隠れるのはきっと難しいでしょう。御身だけは、たとえどれほどの時間がかかっても実平が計略をめぐらして隠し通しましょう」。しかし彼らは御供したいと申し上げ、また(頼朝も)それをお許しになろうとした。実平は再び次のように言った。「今の別離は後の大幸のためです。共に生きながらえて別の計略をめぐらしたならば、会稽の恥を雪いで復讐を果たすことができるでしょう」。これによってそれぞれが分散することとなった。悲しみの涙に目が遮られ、歩くべき道が見えないほどであったという。その後、家義が(頼朝の)後を追って参上した。頼朝の御念珠を持参したのである。これは今朝の合戦の時に道に落とされたものである。いつもお持ちになっていたので、狩場の辺りで相模国の武士の多くが拝見していた御念珠である。そこであわてておられたところ、家義がこれを探し出したので、再三にわたって感謝された。そこで家義が御供したいと申し上げたが、実平が先ほどと同様にこれを諌めたので、(家義は)泣きながら立ち去った。また、北条殿(時政)と同四郎主(義時)は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしていた。同三郎(宗時)は土肥山から桑原へと降り、平井郷を通っていたところ、早河の辺りで(伊東)祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主紀六久重によって射取られた。茂光は歩くことができなくなって自害したという。頼朝の陣と彼らが戦っていた場所とは山谷を隔てているので、どうすることもできず、悲しみは大変深かったという。

景親は頼朝の跡を追って峯や谷を探しまわった。ここに梶原平三景時という者がおり、確かに(頼朝の)御在所を知っていたが、情に思うところがあって、この山に人が入った痕跡はないと偽って景親の手勢を引き連れ、傍らの峯に登っていった。その時、頼朝は御髻の中の正観音像を取り出され、ある巌窟に安置された。実平が頼朝のお考えを問い申したところ、仰ることには、「自分の首が景親らの手に渡る日にこの本尊を見れば、源氏の大将軍のすることではないと人はおそらく後々まで非難するだろう」。この尊像は頼朝が三歳の時、乳母が清水寺に参寵して幼児の将来を懇ろに祈り、十四日を経たところ、夢のお告げがあり、忽然と二寸の銀の正観音像があらわれたので、帰依し崇敬申し上げてきたという。夜になって、時政が杉山にいる頼朝の陣に到着された。箱根山の別当行実は、弟で僧の永実に食事を持たせて頼朝のもとを尋ねさせたところ、永実はその前に時政に会い申し、頼朝の御動向を尋ねた。時政が言うには、「将はまだ景親の包囲から逃れられておりません。」と。永実は次のように言った。「もしやあなたは私のあさはかな考えをお試しになっているのでしょうか。もし亡くなっていらっしゃるのであれば、あなたは生きてはいらっしゃらないでしょう」。これを聞いて時政は大いに笑い、永実を連れて頼朝の御前に参上された。永実は持参した食事を献上した。その食事は、全員が餓えていた時だったので、千金に値したという。実平は、世上が落ち着いたならば、永実を箱根山別当職に補任されるべきでしょうと言った。頼朝もまたこれを許諾された。その後、永実を伴として(頼朝は)密かに箱根山に到着された。行実の宿坊は参詣する僧侶や俗人たちが群れ集まっており、隠れるには向かないというので、永実の宅に頼朝をお入れした。

この行実は、父の良尋の時に六条廷尉禅室(源為義)、左典厩(源義朝)らと多少の親交があり、これによって行実は、京都で父の譲りを受けて箱根山の別当職に補任され、京都から箱根に向かった折、行実が賜った為義の下文には「東国の輩は、行実がもし催促したならば従うように。」とあり、義朝の下文には「駿河・伊豆の家人らは行実が催促したならば従うように。」とあった。そこで、頼朝が北条にいらっしゃる頃から、頼朝のために祈祷をし、ひたすら忠義を尺くしてきたという。石橋合戦での敗北の報を聞き、一人で愁え嘆いていたという。弟たちはたくさんいるけれども、武芸の器量がある永実を頼朝に遣わしたという。

○久重(?~1181養和元)。

平井郷の小平井名を名字の地とし、平井紀六を称す。石橋山の戦に大庭景親方として参戦し、北条宗時を討ち取る。のち腰越の浜で梟首。

○行実。

箱根山別当。

○永実。

箱根山別当行実の弟。


つづく




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