2022年8月14日日曜日

〈藤原定家の時代087〉治承4(1180)9月以降の頼朝を巡る動静概観(その2) 〈源氏勢力における三つの磁場〉 〈東国武士団の諸相〉  

 


治承4(1180)9月以降の頼朝を巡る動静概観(その2)

〈源氏勢力における三つの磁場〉

東国に土着した源氏の庶流としては、
①義家の弟義光に系譜をひくもの(甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏、常陸の佐竹氏など)、
②義家の第三子義国に系譜をひくもの(上野の新田氏、下野の足利氏)
がある。
これらは、在地の豪族との婚姻関係でその地盤を形成し、かつては頼朝の父義朝とも対抗関係をはらんでいた。

富士川合戦以後も、北関東の情勢は複雑で、常陸には新羅三郎義光を祖とする佐竹秀義や頼朝の叔父志田三郎義広、上野の新田義重らはその去就は定かではない。

安田義定・武田信義ら甲斐源氏へは、9月20日、頼朝は共同作戦のための使者を派し、富士川合戦後は、武田・安田氏を駿河・遠江両国守護の派遣している。この時の力関係においては頼朝と甲斐源氏との関係は同盟に近い形であった。

反平氏という立場から早い段階で旗色を鮮明にしたのは、
相模・伊豆方面の頼朝傘下の勢力、
信濃の義仲を中心とした勢力、
これらに呼応する形で応じた甲斐の源氏の三つの勢力だった。
義仲の父義賢はかつて上野国多胡郡に住み、武蔵方面進出を狙う義朝と対立。義賢の妻の父は桓武平氏秩父氏流の重隆で、義賢はこれと結び勢力を拡大しようとする。

義朝は両総・相模を基盤として、北関東を射程にしており、両者の衝突は不可避であった。そして、久寿2年(1155)、義朝の子義平と義賢は合戦に及び、義賢・義隆は敗死する。
その前年に誕生した義仲は、乳母の夫中原兼遠のもとで成人し、この治承4年10月半ば、信濃一帯をおさえ上野へと進出を果す。
富士川合戦後、上総・千葉、相模の三浦ら有力諸氏が、頼朝の上洛を止めさせ、関東計略のために、義仲との衝突を巧みに避けながら常陸の佐竹攻略に向う。

千葉常胤や上総介広常らは、つぎのように述べて頼朝を諌めたという。
「常陸国佐竹太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ帰伏せず。就中、秀義父四郎隆義、当時平家に従いて在京す。其の外、腐れる者なお境内に多し。しからば、先ず東夷を平らぐるの後、関西に至るべしと云々。」
(『吾妻鏡』治承4年10月21日条)

結果的に鎌倉幕府成立過程においてきわめて重要な意義をもつ決断となったが、その常陸国佐竹氏と上総・千葉両氏との間で相馬御厨をめぐって長年の紛争がつづけられており、彼らが頼朝の上洛を阻止し、佐竹攻めを主張した意図はここにあった。彼らの個別利害がまず反映されていた。
〈東国武士団の諸相〉
①相模・武蔵:相模では鎌倉郡山内荘を本拠とする山内首藤氏、大庭御厨の開発領主大庭氏、三浦郡一帯を勢力下に置く三浦氏(在庁官人)。荘官クラスの開発領主、相互に他を併呑する規模の差はなく義朝との主従関係を構成してゆく。

武蔵は、小規模な独立武士団(党的武士団)が多い(武蔵七党など)。各家々が独立性を保ち、武士団としての協同体制がとられる。但し、畠山重忠・河越重頼などの秩父氏のような相模に似た、一族を軍事的に統率する強力な惣領に統合された武士団(惣領的武士団)も存在する。

②上総・下総:上総氏・千葉氏による武士団の統合が進んでいる。在庁官人で、数郡から一国にわたる領域を支配する豪族的領主。


つづく

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