2022年8月19日金曜日

〈藤原定家の時代092〉治承4(1180)9月7日 義仲挙兵(市原合戦、善光寺裏合戦) 信濃の市原で笠原頼直を破り、父義賢遺領の上野多胡荘に進出。関東で頼朝と衝突することを避け、北陸道に進出

 


〈藤原定家の時代091〉治承4(1180)9月4日~6日 頼朝、上総介広常の許に和田義盛を、千葉介常胤の許に安達盛長を派遣、参向を命じる。義盛は広常は常胤と相談して参上すると報告 頼朝追討の宣旨、発給される より続く

治承4(1180)

9月7日

・義仲挙兵(市原合戦、善光寺裏合戦、長野市)

源義仲(27)、信濃で挙兵。義仲を育てた中原兼遠の子の樋口次郎兼光・今井四郎兼平兄弟・根井行親・海野幸広ら、従う。先ず、信濃の市原で笠原頼直を破り、父義賢遺領の上野多胡荘に進出。関東で頼朝と衝突することを避け、北陸道に進出。

義仲の伊那谷攻め(市原合戦。善光寺裏合戦)

笠原頼直(信濃守平維盛の曽孫)800余騎、義仲追討に向う。迎え撃つのは義仲方武将・村山七郎義直と栗田寺別当大法師範覚の500余騎。 市原で合戦。義仲側に片桐子八郎為安が援軍に駆けつけ、8日、為安が頼直の背後に回り挟撃、義仲側勝利。義仲軍は権兵衛峠を超え、伊那郡大田切郷に進み、笠原城を焼き討ち。頼直は越後の城助長の元へ落ちる。

〈義仲挙兵の背景〉

久寿2年(1155)の大蔵合戦で父義賢が敗死した時、義仲は斎藤別当実盛の計らいで信濃国の木曽谷に落ちのび、中原兼遠に保護されて成長した。『平家物語』は、義仲が成長した土地を木曽谷の木曽山下(長野県木曽郡木曽町)と伝える。ここは、谷沿いに南下すると美濃源氏土岐氏の本拠地、美濃国の土岐(岐阜県土岐市)に出る。頼政の弟奉政が養子に入った紀氏が郡司を務める美濃国池田郡(岐阜県不破郡関ケ原町周辺)に出る。一方、木曽谷を北上すると塩尻に出て、国府のある松本(長野県松本市)や一宮諏訪大社(長野県諏訪市)は間近である。

義仲の立場からすれば、木曽谷を南下して美濃源氏と合流した方がその後の戦いは有利に展開するが、現実には、信濃国に勢力を張る平氏の家人笠原頼直の奮闘が義仲の軍勢を北へ北へと釣り上げていく。笠原頼直と戦った市原合戦(1180)、越後平氏城氏との決戦になった横田河原合戦(1181)、北陸道に派通された追討使平通盛との合戦(1181)と勝ち進んで北陸道に進出、越前国敦賀湊まで勢力圏に収める。そして、寿永2年(1183)に追討使平維盛との決戦を倶利伽羅峠で行うことになる。

義仲の兄仲家は、養子となった縁により、頼政とともに宇治合戦で自害。周囲は、義仲がこの事件を無関係として静かにやりすごすか、頼政の縁者として事を起こすかを見守っていた。

義仲の腹心は、樋口兼光、今井兼平といった義父中原兼遠の子供たちである。河内源氏の中でも、保元の乱で為義とともに滅びた兄弟の側に属する義仲は、井上、根井(ねのい)、楯(たて)、千野(ちの)、村上といった信濃の豪族や、上野国に残る亡父義賢の郎党である多胡、那波といった支持勢力が存在した。信濃国・上野国に広がった義仲の勢力は、頼朝と比較しても遜色のないものである。

合戦は、義仲挙兵を聞いた平氏の家人笠原頼直が軍勢を集め、義仲与党の村山義直と粟田寺別当範覚を討とうとしたところに、義仲が救援に赴いて退けた合戦である。

笠原頼直は、治承4年5月の宇治合戦に出陣した後、本国に戻っていた。義仲が頼政ととに自害した仲家の弟であること、信濃国で河内源氏を慕う人々が義仲のもとに集まっていることから、追捕の軍勢を動かした。信濃源氏井上氏の村山義直から応援要請を受けた義仲がすぐに対応できたのは、自身の軍勢がすでに北信濃まで進出していたことを示している。

義仲は挙兵後すぐに木曽谷を北上して信濃国府(松本市)を占領し、木曽桟(きそのかけはし、木曽郡上松町)を遮断して東山道を封鎖した後、笠原頼直の動きを知って軍勢を北上させた。

笠原頼直は、翌年の横田河原合戦(1181年)に出陣した時、すでに53歳であったと『平家物語』は伝えているが、百騎の郎党を率いて勇猛な武者ぶりを発揮した。市原合戦に敗れた笠原頼直は、越後平氏の城氏を頼って国境を越えた。以降、信濃国の内乱は北陸道の城氏と義仲の対決へと発展する。

義仲の名が『吾妻鏡』に初出

「源氏木曽の冠者義仲主は、帯刀先生義賢が二男なり。義賢去る久壽二年八月、武蔵の国大倉館に於いて、鎌倉の悪源太義平主の為討ち亡ぼさる。時に義仲三歳の嬰児たるなり。乳母夫中三権の守兼遠これを懐き、信濃の国木曽に遁れ下り、これを養育せしむ。成人の今、武略稟性、平氏を征し家を興すべきの由存念有り。而るに前の武衛石橋に於いてすでに合戦を始めらるの由遠聞に達し、忽ち相加わり素意を顕わさんと欲す。爰に平家の方人小笠原の平五頼直と云う者有り。今日軍士を相具し木曽を襲わんと擬す。木曽の方人村山の七郎義直並びに栗田寺別当大法師範覺等この事を聞き、当国市原に相逢い、勝負を決す。両方合戦半ばにして日すでに暮れぬ。然るに義直箭窮まり頗る雌伏す。飛脚を木曽の陣に遣わし事の由を告ぐ。仍って木曽大軍を率い競い到るの処、頼直その威勢に怖れ逃亡す。城の四郎長茂に加わらんが為、越後の国に赴くと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「七日、丙辰。源氏の木曽冠者義仲主は、帯刀先生義賢の二男である。義賢は、去る久寿二年八月、武蔵国の大倉の館(現、埼玉県比企郡嵐山町大蔵)で、鎌倉の悪源太義平主に打ち滅ぼされた。その時、義仲は三歳の幼児であった。乳母の夫である中三権守兼遠は、義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れ、義仲を育てた。成人した今では、武勇の素質を受け継ぎ、平氏を討って家を興そうと考えていた。そこで、前武衛(頼朝)が石橋で既に合戦を始めたと耳にし、すぐに挙兵に加わり念願の意志を表そうとした。この時、平家に味方する笠原平五頼直という者がおり、今日、武士を引き連れ、木曽を襲おうとした。木曽に味方する村山七郎義直と栗田寺の別当大法師範覚らはこのことを聞きつけ、信濃国の市原で笠原方と遭遇し、勝負を決めようとした。双方の合戦の途中で既に日が暮れた。ところが義直は弓矢が尽きて、敗退を覚悟し、木曽の陣に飛脚を送って事態を急報した。そこで、木曽が大軍を率いて急ぎ到着すると、頼直は義仲の威勢を恐れて逃亡し、城四郎長茂の陣に加わるため、越後国に行ったという。」。

源(木曽)義仲(1154~1184):

源義賢の次男。久寿2年(1155)8月、父義賢は、武蔵国大蔵の館において、源義平によって討たれ、二歳の義仲は、乳母の夫中原兼遠とともに信濃国木曽に遁れる。「武略性に稟け、平氏を征して家を興すべきの由、存念あり」として再起の時を待つ(『吾妻鏡』治承4年9月7日条)。この年(治承4年)、以仁王の令旨をうけた義仲は、同年9月4日平家方の笠原頼直が木曽谷を襲撃したことに応戦した村山義直と栗田範覚を応援して市原(長野市)に出陣。同年10月、上野国に進軍するが、12月には、頼朝の権威を憚って信濃国に帰還。治承5年6月、横田河原(長野市)で、城長茂(助職)と戦い勝利、9月には、平通盛軍を水津(敦賀市)で破る。木曽義仲を追討するために北陸道に発向していた平氏の軍兵等は、寒気を理由に京都に帰還する。この撤退は「真実の体は、義仲が武略を怖るるが故なり」と評せられた(「吾妻鏡』寿永元年9月15日条)。寿永2年(1183)4月平維盛を総帥とする義仲追討軍が京都を出立。火打合戦(福井県今庄町)では劣勢となるも、5月9日の般若野合戦(高岡市)では勝利をおさめ、5月11日倶利伽羅峠(富山県小矢部市)で大勝利をおさめる。その後、篠原合戦(加賀市)で勝利を決定づけると、同年7月28日、5万の兵を率いて入京した。入京後、義仲は、後白河法皇より伊予守に任じられ、京中の狼籍停止を命じられるが、義仲が以仁王の子北陸宮を皇位に推挙したことから、法皇と義仲との関係が悪化する。法皇が、西国の平氏追討を義仲に命じ、義仲の出陣中に、頼朝に「寿永二年の宣旨」を下し東国の支配権を認めた。同年閏10月帰京した義仲は、法住寺合戦で実権を掌握すると、法皇に頼朝追討の院宣を強要、征夷大将軍にも就任する。しかし、

しかし、すでに法皇は、頼朝に義仲追討を命じ、源範頼・源義経等が、数万騎を率いて翌年1月入洛する。義仲軍は敗北し、近江国粟津の辺において相模国住人石田次郎に殺害される(『吾妻鏡』元暦元年1月20日条)。享年31歳。七条河原において義仲ならびに高梨忠直・今井兼平・根井行親等の首が獄門の前の樹に懸けられたという(『吾妻鏡』寿永3年1月26日条)。

○義賢(?~1155久寿2)。

源為義の次男。東宮付の武官である帯刀長(タヒハキノオサ)であった為、帯刀先生と呼ばれる。久寿2年8月、武蔵国の大倉館で源義平に討たれる。

○義平(?~1160永暦元)。

源義朝の1男。相模国の三浦氏のもとで成長。久寿2年、叔父義賢を討つ。悪源太と称される。

○兼遠。

中原兼経の男。信濃国木曽の豪族で、義仲の乳母の夫。久寿2年、義賢が源義平に討たれた際、義仲と共に木曽へ逃れる。子に樋口兼光・今井兼平・落合兼行がおり義仲に従う。また娘の巴は、義仲の愛妾。

○頼直。

笠原平五と称す。

○義直。

米持忠義の男。

○範覚(?~1205元久2)。

藤原能兼の男。母は高階季時の娘。粟田寺の別当。

義仲挙兵の衝撃。「木曾という所は信濃にとっても南の端、美濃境なれば、都も無下に程近し。平家の人々、「東国の背くだにあるに、北国さえこはいかに」」(「平家物語」)

廻文(めぐらしぶみ、「平家物語」巻6);

その頃、信濃に木曾冠者義仲という源氏がいるとの噂が伝わる。父の帯刀先生義賢(よしかた)が鎌倉の悪源太義平に討たれたとき2歳で木曾中三兼遠(かねとお)に預けられる。或る日、義仲は守役の兼遠に「兵衛佐頼朝は謀反を起し関東八ヶ国を従え東海道を上っている。私も東山・北陸両道を従え平家を攻め落とし、日本国で二人の将軍と言われたいものだ」と語る。中三兼遠は喜び、直ちに謀反を企て、廻状を回し、信濃根井の小弥太、海野の幸親(ゆきちか)ら信濃国中の武士を味方にし、上野では故帯刀先生義賢の縁故で多胡郡の武士が従属した。


つづく


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