2022年8月20日土曜日

〈藤原定家の時代093〉治承4(1180)9月7日~9日 新田義重、平清盛に書状 北条時政、甲斐源氏へ派遣される 関東反逆に対し追討軍派遣を詮議 安達盛長、千葉より帰還し千葉常胤の協力を報告    

 


〈藤原定家の時代092〉治承4(1180)9月7日 義仲挙兵(市原合戦、善光寺裏合戦) 信濃の市原で笠原頼直を破り、父義賢遺領の上野多胡荘に進出。関東で頼朝と衝突することを避け、北陸道に進出 より続く

治承4(1180)

9月7日

・新田義重、平清盛に書状(義重は宗盛に仕え、頼朝・武田信義が関東を勝手に領している為、源氏家宗に背きこれを討つ為に坂東に下向)。

同日、中納言藤原忠親、東山観音寺で母親の忌日の供養。導師の僧源実から延暦寺座主明雲の坊で聞いた話として、源頼朝挙兵、早川で敗退、箱根への逃亡を聞く。兄前太政大臣忠雅から、所領上野新田荘の下司新田義重からの書状で、武田太郎信義の甲斐占領を聞く。(28日との記述あり)

この頼朝敗退の報により、清盛は再び12日に安芸厳島に赴く予定をたてる。20日に高倉上皇が出発する為、その手はずを調えるため。しかし、12日になって上総介八郎広常や下野の足利太郎らが頼朝に与力する事態が判明し、安芸詣を延引する。

新田義重(1135~1202):

鎌倉御家人。源義国の子。義家の孫。母は上野介藤原敦基の女。新田氏の祖。父義国が久安6年(1150)勅勘を蒙り下野国足利の別業に引退した時、ともに下向したと思われる。上野国新田荘の開発を進め、保元2年(1157)、開発した私領を藤原忠雅に寄進し下司職に任命される。のちに出家して上西と号す。この年(治承4年)8月、朝挙兵時に、参陣要求に応ぜず「自立の志」をもって上野国寺尾城に軍兵を集めた記事が『吾妻鏡』での初見。12月、これに対する頼朝からの弁明要求に応じて鎌倉に参上。この時、「国土闘戦有るの時、輙く城を出で難きの由、家人等諌を加ふるによりて猶豫す」(『吾妻鏡』治承4年12月22日条)と弁明、頼朝と連合した。以後、頼朝から冷遇され、『吾妻鏡』には寿永元年(1182)頼朝の江島弁財天勧請に御共した記事など数件に散見するのみである。なお、『吾妻鏡』の建仁2年(1202)正月14日条に死亡記事が記されている。

義重の子に新田義兼がいる。母は豊島下野権守源親広の女。通称蔵人。文治元年(1185)10月、頼朝の勝長寿院供養の随兵として登場するのが『吾妻鏡』での初見。その後、頼朝の随兵として『吾妻鏡』にたびたび登場。文治5年7月、頼朝の奥州征伐に「御供の輩」として従軍。建久元年(1190)11月、頼朝上洛の時にも随兵として従う。この時、後白河法皇は、「密々御車を以て」河原からその行列を「御覧」じたという(『吾妻鏡』建久元年11月7日条)。建久6年の頼朝上洛でも、3月の東大寺供養などや5月の天王寺参詣の随兵として従う。この記事を最後に『吾妻鏡』にはその足跡を追うことはできない。なお、元久2年(1205)8月には、実朝から、新田荘内の村田郷・田嶋郷・中今居郷など12ヶ郷の地頭職に補任されている。 

9月8日

・頼朝、北条時政を甲斐源氏へ派遣。

「北條殿使節として甲斐の国に進発し給う。彼の国の源氏等を相伴い信濃の国に到り、帰伏の輩に於いては早くこれを相具し、驕奢の族に到っては誅戮を加うべきの旨、厳命を含むに依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月9日
・関東反逆に対し追討軍派遣を詮議。平維盛(大将)・平忠度(副将)、追討使を命ぜられるが、公卿達の反対、平維盛と藤原忠清対立で出撃延期。また、兵糧米の収集も遅れる(2年来の凶作)。

「関東反逆の聞こえ有り。去る五日大外記大夫史等、召しに依って院に参り評議有り。追討すべきの由、頭の弁宣下し、左大将官符を成さる。維盛・忠度・知度等、来二十二日下向すべしと。但し群賊纔か五百騎ばかり、官兵二千余騎、すでに合戦に及び、凶族等山中に遁れ入りをはんぬの由、昨日(六日なり)飛脚到来すと。然れば大将軍等の発向、若くは事に後れ有るかと。」(「玉葉」同日条)。
9月9日
・安達盛長、千葉より帰還。千葉氏の協力を得る。上総広常は千葉常胤と相談して参上との回答があり、これで房総諸域の帰趨決まる。
「盛長千葉より帰参す。申して云く、常胤が門前に至り案内するの処、幾程を経ず、客亭に招請す。・・・而るに件の両息同音に云く、武衛虎牙の跡を興し、狼唳を鎮め給う。縡の最初にその召し有り。服応何ぞ猶予の儀に及ばんや。早く領状の奉りを献らるべしてえり。常胤が心中、領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなりてえり。・・・速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤門客等を相率い、御迎えの為参向すべきの由これを申す。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「九日、戊午。(安達)盛長が千葉から帰参し、申して言った。「常胤の館の門前に到着し、取次ぎを求めたところ、程なく客間に招かれました。常胤は前もって座に在り、子息の胤正・胤頼もその横にいました。常胤は、詳しく盛長が述べるところを聞いていましたが、しばらく言葉を発さず、ただ眠っているかのようでした。そこで、二人の子息(胤正・胤頼)が、『武衛が武門を再興し、平家の狼籍を鏡められるにあたって、その初めに我々を召されたのです。これに応ずるのに、どうしてためらっていられましょうか。早く承知する旨の文書を提出しましょう。』と言いました。常胤が言いました。『心の中では、承諾することに全く異議はない。源家が中絶した跡を興されようとするので、感激の涙が止まらず、言葉にすることもできないはどなのだ』。その後、酒宴となった折に、『今いる居所は取り立てて要害の地ではありません。また源氏にゆかりの地でもありません。早く相模国の鎌倉にお向かい下さい。常胤は、一族郎党を率いて、お迎えの為に参ります。』と申しました」」。
千葉介常胤(1118~1201):
父は下総権介常重。母は大掾政幹の女。長承4年(1135)相馬御厨の下司職を父より譲られるが、父が官物を未進したため、御厨は国司藤原親通と源義朝の介入をうける。常胤は父の末進年貢を納付し、久安2年(1246)相馬郡司となり、改めて御厨を伊勢神宮に寄進する。義朝の傘下に入り、保元の乱に参加する。平治の乱後、相馬御厨は国衙によって没収され、佐竹義宗が支配権を主張し、神宮庁の裁定の結果、常胤は敗訴する。この年(治承4年)9月安房に逃れた頼朝は、常胤に参戦を促す。子息胤正・胤頼が「なんぞ猶予の儀に及ぼんや」と決断を促すと、常胤は参戦を決意し、「当時の御居所は、させる要害の地にあらず、また、御嚢跡にあらず。速やかに相模国鎌倉に出でしめたまうべし。」と頼朝の鎌倉入りを進言したとされる(『吾妻鏡』治承4年9月9日条)。同年9月17日、常胤は、子息胤正・師常・胤盛・胤信・胤道・胤頼・嫡孫成胤等300余騎相具して参戦する(『吾妻鏡』)。頼朝は、「常胤をもって父となすべき」とこれを歓迎した。同年10月、富士川の合戦にあたって、平家軍を迫って上洛しようとする頼朝を、常胤・三浦義澄らが諌め、「まず東夷を平ぐるの後、関西にいたるべし」といさめる(『吾妻鏡』治承4年10月21日条)。寿永3年(1184)一ノ谷の軍勢に加わる。頼朝は、華美を好む武士に対して。「常胤・(土肥)実平がごときは、清濁を分たざるの武士なり」「おのおの衣服巳下、麁品(ソヒン)を用いて美麗を好まず。故にその家富有の聞こえありて、数輩の郎従を扶持せしめ、勲功を励まんとす」と、常胤の実直な生活を賞賛したという(『吾妻鏡』元暦元年11月21日条)。翌年、範頼の軍に属し、豊後国に渡る。頼朝は、「千葉介、ことに軍にも高名(コウミョウ)し候いけり。大事にせられ候うべし」とその軍功を称え(『吾妻鏡』元暦2年1月6日条)、「千葉介常胤、老骨を顧みず旅泊に堪忍するの条、ことに神妙なり」「常胤の大功においては、生涯さらに報謝をつくすべからざる」と評している(『吾妻鏡』元暦2年3月11日)。文治3年(1187)8月洛中狼籍を取り締まるため使節として上洛。文治5年(1189)頼朝奥州征伐にあたり、旗一流を献じ、東海道の大将軍をつとめる。奥州合戦の勲功賞として、所領を拝領す。建久元年(1190)頼朝入洛に随行。建久3年(1192)所領安堵の政所下文を下されるが、別に頼朝直判のある下文を所望する(「吾妻鏡』建久3年8月5日条)。建久5年(1194)東大寺戒壇院の営作にあたる。建仁元年(1201)3月24日没。84歳。

つづく

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