2022年9月14日水曜日

〈藤原定家の時代118〉治承5/養和元(1181)年閏2月5日~26日 公卿僉議は休戦論を決定するが、宗盛は主戦論を主張 追討使(重衡・通盛・維盛ら)進発             

 


〈藤原定家の時代117〉治承5/養和元(1181)年閏2月1日~4日 「美乃に在る追討使等、一切の粮料無きの間、餓死に及ぶべしと。坂東の賊徒、勢日を追って万倍すと。大略万事至極の時なり。」(「玉葉」) 清盛(64)没 「凡そ過分の栄幸、古今の冠絶するもの歟。就中、去々年以降、強大の威勢、海内に満ち、苛酷の刑罰、天下に普(あまね)し。遂に衆庶の怨気天に答え、四方の匈奴変を成す。」(「玉葉」) より続く

治承5/養和元(1181)年

閏2月5日

・藤原定家(20)の姉白河院京極出家。24日、没。

閏2月6日

・清盛の死後、宗盛が無条件での後白河法皇の執政を要請し、院政は本格的に復活。6日に法皇の御所で左大臣以下公卿10人が「東国反逆のこと」について議定。

清盛が生前に残した措置によって、平氏は軍事力を畿内近国に集中させながら、東国軍を防ぎ、頼朝によって滅ぼされるまでには4年の歳月が要される。

この僉議は、前大将宗盛が法皇に奏上した申状に基づくものであった。

故入道(清盛)の所行などは、愚意(宗盛)に叶わざるの事などありといえども、諌め争うこと能わず、只かの命を守り、罷(まか)り過ぐる所なり。今においては、万事偏えに院宣の趣を以て存じ行なうべく候。

まず関東兵粮米はすでに尽き、征伐するに力なし。故入道の沙汰の如くんば、西海北陸道等の運上物、併せて点定し、かの粮米に宛つべし、と云々。この条文何様(いかよう)侯べき哉。若し(関東の賊を)宥(ゆる)し行わるるの儀あらは、計り仰せ下さるべきか。又なお追討せらるべくんば、その旨を存ずべし。公卿等を院に召し、僉議の後、一決の趣き奉り、進退すべきなり。

(関東追討とその兵粮米徴収については公卿僉議の結論に従いましょうと、その主体性を自ら放棄している。宗盛たちは、平氏を「官軍」という立場に置くことで、自らの立場の保持を図ろうとしているかのようである)

これに対する公卿たちの議論の焦点は、天下飢饉と兵粮米用尽、しかも賊首は尾張国に群集しているという状況のなかで、なお追討すべきか、それとも宥行(ゆるす)すべきか、つまり主戦か和平か、ということにおかれ、結局「しばらく征伐を休み、先ず院宣をもって宥(ゆる)さるべし」とする意見が大勢を占めている。

右大臣兼実は所労を理由に会議を欠席しているが、『玉葉』には、「宥行」論(和平論)は朝家の恥であり見苦しい、征伐が不可能ならばその理由が明らかにされる必要がある、つまり、「内乱の逆臣(清盛)」が天罪をこうむって夭亡(ようぼう)したうえは、①法皇が天下をしろしめす由をあまねく告知すべきこと、②前幕下宗盛は大権を君に返し、しばらく隠遁する由を表明せしめるべきこと、この両条を実施することが必要だ。それができなければ賊軍を宥行されても首尾一貫しないであろう。それに賊徒が和平に応じなければ、みんな無意味な沙汰になろう、などと記している。

閏2月8日

・公卿たちの僉議の結論(休戦論)が静憲(じようけん)法師(信西の息で院近臣)を使者として宗盛に伝えられる。

しかし、宗盛は一族評議の上、重衡を追討使として派遣したい、ついては院宣を賜りたい、その中に、東国勇士らが頼朝に背き重衡に随うように記載して欲しいと、主戦論を主張。

結局、15日に重衡は京都を出立する。

閏2月12日

・定家の姉白河院京極重篤により、俊成・定家(20)ら高辻京極より源成実邸に移る

閏2月12日

・伊予豪族河野通信、国司平維盛目代を追放。

閏2月15日

・知盛に代って頼朝追討を命ぜられた重衡が、京都を進発。平重衡・通盛・維盛らを大将軍とする平氏軍1万3千、東海・東山道方面へ進撃を開始。

「今日、追討使蔵人の頭正四位下平重衡朝臣、院の廰の御下文を相具し、発向する所なり。今日宇治に宿す。来十九日、美乃・尾張の境に着くべしと。兵万三千余騎を随うと。」(「玉葉」同日条)。

閏2月17日

・安田義定、頼朝の援軍和田義盛と近江橋本(遠江浜松荘橋本付近)に布陣、平家の来襲を待つ。

閏2月19日

・源頼朝の許に、清盛没の報らせが届く。

閏2月20日

・常陸の志田義広、挙兵に際し藤姓足利忠綱に参戦を要請。鎌倉攻めに向う。(←これは『吾妻鏡』編集上の誤りで、寿永2年(1183年)2月20日の事とするのが正しいと言われている)

閏2月23日

・大納言藤原邦綱(60)、没。

「邦網卿は、卑賤より出づるといえども、その心は広大なり。天下諸人、貴賤を論ぜず、その経堂を以て、ひとえに身の大事となす。これによって衆人惜しまざるなし。ただし平禅門藤(原)氏を滅亡するにこの人すこぶるその事にあずかるか。ゆえに神罰を蒙るの疑いあり。恐るべし恐るべし」(『玉葉』)

平家に追随し、盛子が摂政基実の遺領を継承したのも邦綱の入れ知恵によるものであった。幾多の邸宅を有していたようで、それらが内裏に用いられることも多かった。現在の京都御所も、里内裏の一つであった邦綱の東京極邸が、大内裏が再建されないまま鎌倉時代以後内裏とされたものである。

閏2月25日

・後白河法皇(55)、鳥羽殿より法住寺殿へ移る

閏2月25日 (以下も、閏2月20日の項と同じく、『吾妻鏡』の誤り

・足利忠綱、志田義広の敗北を聞き、桐生六郎の諫めにより西海へ逃亡(「吾妻鏡」同日条)。

28日、小山朝政、頼朝へ勝利の報告。志太義広所領を与えられる(「吾妻鏡」同日条)。

閏2月26日

・藤原定家(20)、姉白河院京極重篤により、俊成・定家ら高辻京極より源成実邸に移る。24日、没


つづく

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