2023年1月15日日曜日

〈藤原定家の時代241〉文治2(1186)年4月22日~5月12日 「北條殿関東に帰らるるの後、洛中の狼藉勝計うべからず。去る月二十九日夜、上下七箇所群盗乱入すと。」(「吾妻鏡」) 源行家、捕われ斬首     

 


〈藤原定家の時代240〉文治2(1186)年4月22日 後白河法皇(60)、寂光院の建礼門院徳子を訪問(「大原御幸(おはらごごう)」) より続く

文治2(1186)年

4月22日

・後白河法皇の院宣により、高野山において平家の亡魂追悼のための大法要が催される。

4月24日

・頼朝、秀衡に、朝廷への貢ぎ物は鎌倉を経由して献上すべきを進言、この日、秀衡の請文が到着。

頼朝、奥州から朝廷に送る貢馬・貢金は自分が取り次ぐので今後は鎌倉に送る様秀衡に書状。「御館は奥六郡の主、予は東海道の惣官なり。尤も魚水の思ひを成すべきなり」と記す。東国管領権(寿永2(1183)年10月朝廷から獲得)を根拠に秀衡をその管領下の奥六郡の主と位置付ける。

「陸奥の守秀衡入道の請文参着す。貢馬・貢金等、先ず鎌倉に沙汰し進すべし。京都に伝進せしむべき由これに載すと。これ去る比御書を下さる。御館は奥六郡の主、予は東海道の惣官なり。尤も魚水の思いを成すべきなり。但し行程を隔て、通信せんと欲するに所無し。また貢馬・貢金の如きは国土の貢たり。予爭か管領せざらんや。当年より、早く予伝進すべし。且つは勅定の趣を守る所なりてえり。上所奥の御館と。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月25日

・義経・行家が京中にありとの風聞。5月6日、京中で義経捜索が始まる。

「今日、基親・親経等来たり條々の事を申す。義経・行家の徒党京中に在るの由風聞有り。但し信用を為せざるものか。」(「玉葉」同日条)。

4月28日

・この日、兼実は藤原隆房(善勝寺(ぜんしょうじ)流)から内裏に近い冷泉万里小路第(れいぜいまでのこうじてい)を借用し、九条富小路殿(くじょうとみのこうじどの)から移転した(摂関は内裏近辺に居所を榔えるのが通例たった)。

ところが、5月5日、兼実は基通による「夜討」の噂があるとして、急いで九条に戻る(5月10日条)。兼実と基通は一触即発の状況になっていた。

4月29日

・夜、京の上下7ヶ所に群盗が乱入。

「紀伊刑部の丞為頼飛脚として京都より到着す。院宣を持参する所なり。夜を以て日に継ぎ進すべきの旨、師中納言触れ仰せらるるの由と。北條殿関東に帰らるるの後、洛中の狼藉勝計うべからず。去る月二十九日夜、上下七箇所群盗乱入すと。」(「吾妻鏡」同5月13日条)。

4月30日

・頼朝の議奏公卿に宛て書状。公武二重政権。

「当時京中嗷々更に相鎮まらず。御消息を内府已下議奏の公卿等に献ぜらる。これ競戦の誠を抽んで、善政を興行せしめ給うべき由なり。その状に云く、 天下の政道は、群卿の議奏に依って澄清せらるべきの由、殊に計り言上せしむ所なり。・・・頼朝適々武器の家に稟け、軍旅の功を運すと雖も、久しく遠国に住し、未だ公務の子細を知らず候。縦えまた子細を知ると雖も、全くその仁に非ず候。旁々申し沙汰に能わず候なり。但し人の愁いを散ぜんが為、一旦執り申せしむる事は、頼朝の申状たりと雖も、理不尽の裁許有るべからず候。諸事正道に行わるべきの由相存じ候所なり。兼ねてまた縦え勅宣・院宣を下さるる事候と雖も、朝の為世の為、違乱の端に及ぶべきの事は、再三覆奏せしめ給うべく候なり。思うて申さしめ給わざるは、是れ忠臣の礼に非ず候歟。仍りて御用意のため、恐れ乍ら上啓すること件の如し」(「吾妻鏡」同日条)。

5月6日

「この日光長朝臣を以て世上物騒の事を院に奏す。帰り来たり仰せて云く、京中山々寺々、使の廰に仰せ尋ね捜さるべし。また関東に仰せ遣わすべしてえり。」(「玉葉」同日条)。

5月6日

・頼朝、一条能保へ書簡。

「湯浅入道宗重法師は、平家々人の中、宗たる者に候。而るに志候て罷留め候いをはんぬるの後、一向にこの方を相憑み候なり。就中九郎判官・十郎蔵人謀反の時、抜群彼の一旦の勧誘に属かず候。自今以後京なんとに、ものさわかしき事なと出来候の時は、子息等をもかはりかはり参仕せしむべきの由、申し含む所なり。殊に召し仕わるべく候。謹言。」(「紀伊崎山文書」同日条)。

5月10日

・この頃から『玉葉』にも義経に関する記事があらわれてくる。

この日、義経・行家が比叡山や前摂政藤原基通宅にいるという噂がたった。この日の『玉葉』には、義経は「義行」となっている。これは、兼実の子息良経と義経が訓読が同じであるから、それを避けて、義経の没落後、勝手に改名されたためである(『玉葉』文治元年11月11日条・『吾妻鏡』閏7月10日条)。

「今日、定能院の御使として来たり、條々の事を仰す。世上物騒の事(義行・行家等射山並びに前の摂政家中に在り。仍って捜し求むべきの由の事、また余夜打ちを恐れ九條亭に帰るの間の事、已上慥に尋ね沙汰すべしと)、一所所領の事(余押領の結構有るか、尤も不当と)。各々御返事を申しをはんぬ。」(「玉葉」同10日条)。

5月10日

・後白河法皇(60)、備後太田荘を高野山大塔領に寄進

「仙洞の御願として、平家の怨霊を宥められんために、高野山において大塔を建立せらる。去ぬる五月一日より、厳密の御仏事を行はる。しかうして供料所は備後国太田圧をもつて、御手印を加へ、今日寄せたてまつらるるところなり。ただし土肥弥太郎妨げをなすの由、その訴出来するによつて、殊に仰せくださるる間、早く庄家を退出すべきの旨、今日二品下知せしめたまふと云々。」(『吾妻鏡』)

5月10日

・秀衡が京都へ送る貢馬3疋と長持3棹が鎌倉に着。八田知家が付添い京に向かう。(「吾妻鏡」同日条)

5月12日

・北条時定と常陸房昌明、和泉の在庁日向守清実の小木郷(貝塚市)の宅を囲み源行家を捕らえ、淀の赤井河原で斬首。義経は頼るべき人物を失う。

13日、行家の子光家も討たれる。

行家の首は5月25日に鎌倉に着く(『玉葉』5月15日条・『吾妻鏡』5月25日条)

「辰の刻、光長朝臣告げ送りて曰く、和泉の国に於いて備前の前司行家を搦め得をはんぬ。北條時政代官平六兼仗時貞相親の者・国人相共にこれを捕るなり。天下の運報未だ尽きず。」(「玉葉」同15日条)。

「駿河の二郎(行家郎従)同じく搦め取りをはんぬと。」(「玉葉」同16日条)。

「備州日来和泉・河内の辺に横行するの由風聞するの間、捜し求むの処、去る十二日、和泉の国一在廰日向権の守清實が許に在るの由、その告げを得て行き向かい、清實が小木郷の宅を圍む。これより先備州逃げて後山に到り、或る民家の二階々上に入る。時定後より襲い寄す。昌明前より競い進む。備州相具する所の壮士一両輩防戦すと雖も、昌明これを搦め取る。時定その所に相加わり梟首しをはんぬ。同十三日、また備州の男大夫の尉光家を誅すと。・・・」(「吾妻鏡」同25日条)。

□「平家物語」の描写。

「蔵人(行家)は熊野の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足を病みければ、和泉国八木郷といふ所に逗留してこそ居たりけれ。かの家主の男、蔵人を見知って、夜もすがら京へ馳せのぼり、北條平六に告げたりければ「天王寺の手の者はいまだのぼらず、誰をか遣るべき。」とて大源次宗春といふ郎等を呼うで「汝が宮立たりし(未詳)山僧(さんぞう 延暦寺の僧)はいまだあるか。」「さ候」「さらば呼べ。」とて、よばれければ、件の法師いで來たり。「十郎蔵人のまします。討って鎌倉殿にまいらせて御恩かうぶり給へ。」と云ければ、「承り候ぬ。人をたび候へ。」と申す。「やがて(ほかならぬ)大源次下れ、人もなきに。」とて舍人雜色人数わずかに十四五人相そへてつかはす。常陸房正明といふ者也。」

「(常陸房正明は)和泉国に下りつき、かの家に走り入て見れどもなし。板敷打破ってさがし、塗籠(納屋)の内を見れどもなし。常陸房、大路に立って見れば、百姓の妻とおぼしくて、おとなしき女の通りけるを捕へて、「このへんに、あやしばうたる(様子のおかしい)旅人のとどまりたる所やある。言はずば切って捨てむ。」と云へば、「ただいま捜され候つる家にこそ夜辺よべ 昨夜までよに尋常なる[とても立派な]旅人の二人とどまってさぶらひつるが、今朝など出て候ふやらむ。あれに見え候ふ大屋にこそ今は候ふなれ。」といひければ、常陸房、黒革威(くろかわおどし)の腹卷の袖つけたるに大太刀はいて、かの家に走入てみれば、歳五十ばかりなる男の褐(かち)の直垂に折烏帽子着て唐瓶子(からへいし)菓子など取りさばくり、銚子ども持って酒すすめむとするところに、物具(もののぐ)したる法師の打入を見て、かいふいて(かき伏して)逃げければ、やがて続いておっかけたり。蔵人「あの僧。や、それはあらぬぞ。行家はこゝにあり。」とのたまへば、走り帰りて見るに、白い小袖に大口ばかり着て、左の手には金作りの小太刀をもち、右の手には野太刀の大なるを持たれたり。常陸房「太刀投させ給へ。」と申せば、蔵人おおいに笑はれけり。常陸房走り寄って、むずと切る。丁どあわせておどりのく。また寄って切る。丁どあわせておどりのく。寄りあひ寄りのき、一時ばかりぞ戦うたる。蔵人後なる塗籠の内へしざり入らんとし給へば、常陸房「まさなう(いけません)候。な入らせ給ひ候そ。」と申せば、「行家もさこそ思へ。」とてまた跳り出て戦ふ。

常陸房太刀を棄て、むずと組んでどうと臥す。上になり下になり、ころび合ふところに、大源次つといできたり。あまりにあわてて、帶びたる太刀をば拔かで、石を握って蔵人の額をはたと打って打破る。蔵人おおいに笑って「おのれは下郎なれば。太刀長刀でこそ敵をばうて。礫にて敵打つようやある。」常陸房「足を結[ゆ]へ。」とぞ下知しける。常陸房は敵が足を結へとこそ申けるに、あまりにあわてて、四の足をぞ結ひたりける。その後蔵人の頸に繩をかけてからめ、引き起こしておしすへたり。「水まいらせよ」とのたまへば干飯をあらふてまいらせたり。水をばめして、糒をばめさず。さしをき給へば、常陸房とって食うてんげり。「わ僧は山法師か。」「山法師で候。」「誰といふぞ。」「西塔の北谷法師、常陸房正明と申す者で候。」「さては行家に仕はれむといひし僧か(行家に使ってくれといった僧か)。」「さ候。」「頼朝が使か。平六が使か。」「鎌倉殿の御使ぞうろう。まことに鎌倉殿をば討ち參らせんとおぼしめし候ひしか。」「これ程の身になって後、思はざりしといはゞ如何に、思ひしといはば如何に。[ところで、わたしの]手なみの程はいかゞ思ひつる。」とのたまへば、「山上にて[比叡山で]おほくの事にあふて候に、いまだこれほど手ごわき事にあひ候はず、よき敵三人に逢ひたる心地こそし候ひつれ。」と申す。「さて正明をばいかゞ思召され候つる。」と申せば、「それはとられなん上は。(捕らえられた上で批評するのはどうか。)」とぞのたまひける。「その太刀取り寄せよ。」とて見給へば、蔵人の太刀は一所(いっしょ)も切れず、常陸房が太刀は四十二所切れたりけり。やがて伝馬たてさせ乘り奉って上るほどに、その夜は江口の長者が許にとどまって、夜もすがら使を走らかす。明る日の午刻(むまのこく)ばかり北條平六その勢百騎ばかり旗さゝせて下るほどに、淀の赤井河原で行ゆき逢ふたり。「都へは入れ奉るべからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御氣色もその儀でこそ候へ。はやはや御頸を給はって、鎌倉殿の見參にいれて御恩蒙り給へ。」といへば、さらばとて赤井河原で十郎蔵人の頸をきる。」。


つづく


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