2023年3月23日木曜日

〈藤原定家の時代308〉建久7(1196)年1月14日~4月26日 頼朝、九州には複数の鎮西奉行を置く(中原親能、武藤(少弐)氏、島津氏) 「上総悪七兵衛景清は、降人に参りたりけるが、大仏供養の日をかぞへて、建久七年三月七日にてありけるに、湯水をとどめて終に死にけり。」(「平家物語」)

 


〈藤原定家の時代307〉建久6(1195)年10月1日~12月25日 為仁親王(土御門天皇)誕生 母は源通親養女の在子(実父は能円) 後鳥羽天皇の皇子を産む兼実・通親の競争は、通親の勝利 九条良経内大臣(左近衛大将) 源通親権大納言 より続く

建久7(1196)年

1月14日

・八条院の病重く、所領処分が行なわる。八条院領の一部が九条良輔(良経の異母弟)に分賜(「玉葉」同日条)。

九条良輔は八条院に仕える女房三位局と九条兼実の間に生まれた子(三位局の前夫は八条院の猶子となった以仁王)。全八条院領は既に以仁王遺児の三条姫宮に譲与されており、良輔が分賜されたのは八条院領荘園の領家職。気比社も含まれており、気比社は本家=天皇家、領家=九条家という荘園制的秩序に置かれることになる。建保6年(1218)良輔没後、領家職はその妻八条禅尼から青蓮院慈源に譲られ、その後、気比社社務職と共に青蓮院が管領。従って、鎌倉後期には本家=大覚寺統、領家=青蓮院という関係が設定され、南北朝期、気比社が金ヶ崎城に篭もる新田義貞を支援する伏線が形成される。

1月20日

・藤原忠季、没

1月28日

・大江広元、兵庫頭に任じられる。

2月14日

・伊勢神宮領大倉保の地頭佐貫廣綱、年貢別当を未進のため、伊勢神宮に訴えられる。(「吾妻鏡」)

3月

・頼朝、九州には複数の鎮西奉行を置く(豊後・筑後・肥後3国に中原親能(ちかよし)、肥前・筑前・豊前3国に武藤(少弐)氏、日向・大隈・薩摩3国に島津氏)。

九州には平家に加担した武士団が多く、特に豊後では義経に協力した「緒方一族」がいる。頼朝は九州統括は大宰府だけでは不充分と悟る。鎌倉幕府が天皇権力を武力で誇示し、事実上の権力を掌握する過程。やがて、これらの守護の武力闘争の時代に入っていく。

・中原親能、豊後に下る。古荘重吉を先頭に速見郡浜脇浦に上陸。率いる武将1800人のなかに安東常輝が随身、他に工藤・二階堂などの関東武士が入国。親能の養子が大友能直(よしなお、豊後大友氏の祖)。

1206年頃、大友能直は中原親能より豊後守護権を引継ぐ。豊後支配権を大きく前進させたのは第2代の大友親秀と兄弟。惣領家大友親秀の兄弟は庶家として、旧大神一族に養子として送り込み、託磨氏・帯刀氏・一万田氏・志賀氏・田原氏が誕生。更に、子供達も、次男重秀は戸次氏・野津原氏・狭間氏・6男親重(ちかしげ)は木付氏・7男の親泰・田北氏が誕生。

このときの先導役は緒方惟栄の同族(大神(おがみ)一族、高崎山の阿南惟家、鶴賀城の弟阿南家親、朝地町神角寺の大野九郎泰基など)。平定後は大友氏所領となり豊後支配の基盤となる。後、阿南氏が領する大分市植田(わさだ)、宗方(むなかた)は安東氏の所領となる。

・法然、「選択本願念仏集」発表。

3月1日

・藤原定家(35)、良経大臣後初度作文和歌会に参加

同2日、良経に従い宇治にゆく

同4日、兼実宇治当座歌会、兼実の求めにより宇治にて詠一首

同5日、宇治御堂作文歌会、宇治にて中宮女房舟にて詠一首

建久七年(一一九六)三月一日。天晴。午ノ時ニ内大臣ニ参ズ。御共シテ大炊殿ニ参ズ。今日大臣ノ後、初度ノ御作文和歌卜云々。即チ退出、夜ニ入リテ帰参ス。詩ノ講、始ムル後ナリ。公卿卜中宮大夫以下済々卜云々。中将殿初メテ文場ニ接シ給フ。殊ナル召ニ依りテ、中将殿・右大弁・蔵人弁・公卿ノ座末ニ着ク。殿上人有家朝臣ノ外、弁官等ナリ。事了リテ和歌ヲ置ク。季経卿・隆信朝臣・予・保季等、此ノ列ニ在り。心中興無シ。祝ノ歌弥々堪へズ。術無シ。今朝入道殿ニ申シ、歌ヲ受クルナリ。歌ノ講、未ダ始マラザルノ前、殿下御参内。予、歌ヲ置クト雖モ、講庸ニ参ゼズ。深更ニ事了ンヌ。御共シテ北小路殿ニ参ジ、退出ス。歌ノ題、松色ヲ改メズト云々。

良経は内大臣になって初めての作文和歌の会を催す。兼実はまだ大炊殿に住んでいる。大炊殿は、後白河の処分として式子内親王に譲られたが、何かと便利なので、兼実はなかなか明け渡さない。この夜は良経の異母弟、八条院三位局腹の良輔が、はじめて列席した。定家は、祝の歌は苦手なので〈心中興無シ〉と。

3月7日

・景清、頼朝暗殺に失敗し捕らわれた篭の中で絶命。

「上総悪七兵衛景清は、降人に参りたりけるが、大仏供養の日をかぞへて、建久七年三月七日にてありけるに、湯水をとどめて終に死にけり。」(「平家物語」)。

3月23日

・藤原実房、左大臣辞職。

4月15日

「明日、姫君准后(じゆごう)ト云々。吉富庄、種々ノ諸課アリ」(『明月記』同日条)。

昇子内親王が准三后(じゆさんぐう)を与えられるについて、定家(35)の吉富荘に強制的割り当て(所課)があった。

『明月記』に定家の荘園の事が出てくる初見

定家は、吉富、越部の荘、兄の成家は、志深(しじみ)の荘、姉の健御前は細川、讃良(さらら)の荘を、父俊成から与えられていた。この頃、女子は相続権を持っていた。

4月17日

・この日付け「明月記」に、新日吉社に白蛇があり、男がその蛇に向い、種々狂言を吐き、後白河院の託宣というと、そして白蛇は、後白河院の後身だという。兼実は、このこと不便、追い払うべきだという。叉天王寺の聖人は鱗あるものの如くに這い歩くという。定家は、生真面目ながら生来ゴシップ好きである。まるで週刊誌の記者よろしく、さまざまな見聞を記す。

4月18日

・藤原定家(35)、八条院女房のため出車を献じる。

23日、兼実の女房の見物のため出車を献ずる。その牛車は、良経から賜ったものを流用。また、旧車を中宮女房に献じる。

4月18日

・定恵法親王(41)没

4月21日

・藤原定家(35)、昇子内親王入内に奉仕。

22日、賀茂祭警固に奉仕

23日、兼実の賀茂詣の供奉

25日、賀茂祭解陣に奉仕

4月26日

・藤原定家(35)、この頃から心神不例、出仕せず。体調不良は五月はじめに及ぶ。


つづく


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