2023年9月3日日曜日

〈100年前の世界052〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺④ 国府台の混乱 小松川の虐殺 「9月2日 晴 望月上等兵と岩波〔満貞〕少尉は震災地に警備の任をもってゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者200名も兵を指揮し惨ぎゃくした。」 小名木川沿い、丸八橋・新開橋の虐殺

 

関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く

〈100年前の世界051〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺③ 〈軍隊の出動〉 〈万歳で迎えられた軍隊 すゑられた機関銃 旧四ッ木橋での虐殺〉 〈亀戸地区に進駐した軍隊〉 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺③

国府台の混乱 小松川の虐殺

国府台の野重砲第1連隊第3中隊長遠藤三郎氏(大尉、30、当時郷里山形で休暇中、2日夜、小岩村の自宅に戻る、参謀本部の指示で中国人労働運動家王希天(ワンシィティエン)の虐殺隠蔽にかかわる、敗戦時陸軍中将)の証言(詳細後出)

「3日の朝、連隊に行ったら大騒ぎ。みな〔流言を〕本当だと思っている。私が〔郷里の山形から〕帰る前に、私の中隊の岩波〔清貞〕って少尉がね、部下20数名をつれて連隊から派遣されているんです。ところが私が留守だから、中隊長の許可も受けずにだいぶ殺しているんです。戦にいって敵を殺すのと同じように、朝鮮人、支那人を殺せば手柄になると思って。200名殺したか、何名か知りませんがね。

・・・・・とにかく朝鮮人が日本人を惨殺するって風評があったらしいんです。それで日本人を守るために派遣されたらしいんです。・・・・・それが朝鮮人が日本人を殺すんだって、早合点しちゃって朝鮮人征伐やったんです。

だいたい連隊は大騒ぎ、「朝鮮人が暴動やっているから征伐せにゃならん」って、連隊長が血まなこになって出動させようとしている。・・・・・」

遠藤氏の日記によれば、連隊に出勤した3日午前8時、国府台の最高責任者金子直(なおし)第3旅団長はじめ朝鮮人暴動の流言を信じ、討伐隊をぞくぞく東京東部へ出動させていた。

証言にある岩波少尉以下69名が第4救援隊として小松川に着いたのは2日午前10時半。「自分の手柄だと思ってしゃべっている」岩波少尉らの「武勇」は評判になっていた。この岩波少尉らの2日の殺害は、他の野重第1連隊の兵士久保野茂次氏の日記にも記録されている。

「9月2日 晴 望月上等兵と岩波〔満貞〕少尉は震災地に警備の任をもってゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者200名も兵を指揮し惨ぎゃくした。婦人は足を引張りまたを裂き、あるいは針金を首に縛り池に投込み、苦しめて殺したり、数限りのぎゃく殺したことについて、あまり非常識すぎやしまいかと、他の者の公評も悪い。」

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺 - 歴史の真実』現代史出版会、1975年)

久保野さん自身は、2日は作業着で救援に出たが、3日午前1時頃、「不逞鮮人」を「制動」するためとして呼集され、38銃に実弾をもって出動すると、小松川あたりから民間人も日本刀、竹槍などで「鮮人殺さんとして血眼」になっていたという。軍隊が到着すると、在郷軍人らは勢いづき、兵士である久保野氏が「身の毛もよだつばかりの」虐殺となった。

場所は離れるが、月島でも同日午後1時50分頃、歩兵第1連隊から特派された一隊が、「鮮人検索の為」到着すると、住民は戦々兢々として「遂に鮮人迫害の惨事を生ずるに至」ったという。

小名木川沿い、丸八橋・新開橋の虐殺

3日朝、小名木川に架かる丸八橋で軍隊の虐殺を見た浦辺政雄〔当時16歳〕の証言(詳細後出)

「9月3日は朝8時ころから、父とともに〔大島6丁目から〕まず浜町へ兄を捜しにいきました。丸八橋までほんの1分か2分というところまで来ましたら、パパパパバーンと、ダダダーシという音がしたわけです。何かしらと思って行くと、橋のむこう側でちょうど軍隊が20人ぐらい、「気をつけー」「右向け-右」って、整列して鉄砲を担いで行進して移動するところでした。

のぞいて見ると橋の右側に10人、左側にも10人ぐらいずつ電線で縛られて。あれは銅線だから、軟らかくて縛れるんです。後ろ手に縛って、川のなかに蹴落とされて、それへ向けて銃撃したあとです。〔略〕

小名木川ぞいに西へ行くと次は進開橋です。その手前、40~50メートル、せいぜい100メートルのところでも同じような銃殺体、10人ほどを見ました。それはもう時間が1時間やそこらたったんでしょう。血も何もありませんからね。川のなかが同じ状態ですからね、ここでやって、それから丸八橋でやったんでしょう。」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

同じく新開橋その他での軍隊による虐殺を見た高梨輝憲氏の証言(詳細後出)

「〔3日〕さきに来た道を進開橋まで引返えした。ふと橋の上を見ると大勢人だかりがして、何やらざわめいている様子、私は何事かと思って行って見ると、橋の欄干に一人の男が後手に縛られて寄りかかっていた。そのまわりに騎兵の襟章をつけた軍人が3人ばかり立っていた。それを取りかこんでいる群集は口々に「この野郎朝鮮人だ、やっつけてしまえ」と罵っている。そのうち軍人の一人は、いきなり軍刀を抜きはらいその男の頭上目がけて斬りつけた。途端に鮮血がさっとほとばしった。斬られた男は「うー」と唸ったがそれ以上の声は立てなかった。その筈である。男はこの時までに既に散々いためつけられてなかば失神状態になっていたからである。軍人は斬りつけるとすぐ両足をかかえて欄干ごしに川の中へ投げこんでしまった。技げこまれた男は一旦沈んだが、やがて顔を水面に出して浮きあがった。見ると長い頭髪が顔面に垂れさがり、血潮がそれにつたわって顔いっぱいに染め、さも怨めしそうな形相をしてにらんでいるかのように見えた。それは芝居でやる四谷怪談戸板流しの場面を想起させるほどの凄惨さであった。

私は図らずもこのような凄惨な状景を見た。しかし凄惨な状景はこれだけではなかった。進開橋から五之橋の方へ向って少し行ったところで、またさきに劣らないほどの惨虐な場面を見た。

3人の男がこれも後手に縛られたまま、全身血まみれになって道路にころがっている。側らには騎兵銃に剣を立てた軍人が5、6人立っていた。騎兵銃は三八式歩兵銃とはちがい、銃に剣が装着してあるから、剣を立てればそのまま銃剣になるのである。ここにも群集があつまり、倒れている男を丸太や鉄棒で殴りつけていた。男は既に人事不省になっていたらしいが、それでも苦しさのためか、時々うめきながら躯を動かすと「この野郎まだ生きていやがる」と罵りながら、更に強く殴打した。軍人はそれを黙って見ている。私は倒れている一人の男に近づいて見ると、男の尻のあたりに銃剣で突いたらしい生々しい創あとがあった。」

(高梨輝憲『関東大震災体験記』私家版、1974年。都立公文書館所蔵)


つづく

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