2023年9月21日木曜日

〈100年前の世界070〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉒ 〈1100の証言;文京区/大塚、本郷・駒込〉 「どこから出たデマか知らないが、混乱時の人心というものは恐ろしいものである。逃れた朝鮮人が子どもを連れて青田の中に潜んでいると、町内会の者達がそれを引き出して殺してしまったりと、随分残酷なことをした。この震災で罪もない朝鮮人が数千人殺された。」   

 



大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉒

〈1100の証言;文京区/大塚〉

会田有仲〔大塚宮仲で被災〕

〔2日〕朝鮮人及支那人の内不良性の奴等が、昨夜数人隊を組んで兇器を携え市内外各所に於て露宿の避難者を脅迫し、財物を強奪して巡査、憲兵、在郷軍人などと格闘の未斬殺されたる者数人ありたる由。

〔略。3日〕夕方に至り不逞の朝鮮人が井戸に毒を入れ或は放火するに付気をつけて下さいと青年団より注意して来た。

〔略。4日、見舞に来た完助と禄蔵が〕「途中福島以南の汽車での話は不逞鮮人と社会主義者が一団となり東京市内外に於て兵隊と戦争中にて、大宮より先の停車場は陸軍で占領し官庁の証明ある者の外入京を許さぬとて、各駅に停車する毎に車掌が来て下車を勧告する」

〔略〕今朝来風説なるか飛語なるか、不逞鮮人は昨夜も各所に於て爆弾、兇器を携え大挙襲来、放火、井戸投薬等をなす。巡査、憲兵、自警団員と闘争の結果双方に死傷者多数ありたる由。逢人毎に専らこの噂で、殊に警察の調なりとて隣家より知らせの朝鮮人が白墨にて門や塀などに記しある符合なるもの左の如し。

ヤヤ:殺人、〇にヤ:爆弾、へに一:放火、△にヤ:井戸投薬。以上の如く震火両災に怯えている人心は更に数段の不安を加えられたり。

〔略〕日没に至り相談があるから出て下さいと子供の使が来た。〔略〕主催者いわく、不逞の鮮人と支那人が放火或は殺人或は井戸に毒薬投入等をする、又社会主義者はこの機会に乗じて大陰謀を挙行せんとし甚だ危険なるも警察も憲兵も取締行届かざるを以て、御互生命財産を保護のため各町村は適宜の区域により、自警団を組織し、その任に当り居る趣故、この同番地十軒も何とか自衛策を講ぜねばならぬという。〔その結果自警団が結成された〕

〔略。6日〕帝都に於てなお不逞鮮人、社会主義者が爆弾、兇器携帯にて、毎夜各地に製来したる噂あり。又大震大火により、横浜は全滅のため糧食なく、鮮人の大集団と同地の監獄にて、大震の時に開放したる囚人300人は食を求めて入京の結果、兇賊隊をなして各地に製来し、焼け跡の金庫、或は焼け残りの倉庫を破壊して金銭並びに貴重品を掠奪する趣。

(会田有仲『東京大地震日記』私家版、1926年)


小石川大塚警察署

9月2日の正午頃「不逞鮮人等暴行を為し、或は将に兵器廠を襲撃せんとするの計画あり」との流言始めて起るや、民心これが為に動揺して自警団の発生を促し、更に鮮人に対する迫害行われたれば、本署は鮮人を検束するの必要を感じ、即日管内を物色して、85名を署内に収容せり。しかるに民衆はかえってこれを憤りて妨害を試み、一巡査の如きは、頭部に殴打傷を負うに至れり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


『河北新報』(1923年9月4日)

「爆弾と毒薬を有持する不逞鮮人の大集団2日夜暗にまざれて市内に侵入 警備隊を組織して掃蕩中」

折柄不逞鮮人多数入り込み井戸に毒薬を投じ石油を屋上に注ぎ放火をなすの恐れあれば、住民は直に警備団を組織すべしとの計画がありたるより人心一層不安の情に陥りたるも協力して直ちに多数の警備隊を組織し、久堅町大塚仲町養育院前等において約数十名の鮮人を引捕え、一々厳重なる身体検査をなし官憲の手にこれを引渡し、或は昂憤したる警備隊自ら適当の応懲を加え専ら放火の厄を免れんと努力しつつあるを発見したり。


『下野新聞』(1923年9月4日)

「大塚火薬庫付近で不逞鮮人と青年団格闘」

本所区を根城とする不逞鮮人約300名は2日の夜丸の内方面に向い、一方約30名の同団は大塚火薬庫を爆破の陰謀があるなどの風評が伝わったので、万一を慮り宮城付近は近衛騎兵隊が警衛の任に当り、各地から上京した青年在郷軍人団等不逞者に一歩も足を踏ませまいとの意気を揚げ、丸の内方面には何等変事を生じなかったが、火薬庫付近では不逞鮮人と青年団との格闘を起し数名の重軽傷者を出したと噂専らである。


〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉

近藤憲二〔社会運動家〕

〔2日〕駒込〔の労働運動社〕へ帰ったのは夜であった。そのときすでに「鮮人来襲」の流言が飛んでいた。

〔略。3日〕その日から町に自警団ができ、私の尾行の私服が朝鮮人とまちがえられて、幾本かの抜身を突きつけられ、警察署へ引っぱって行かれるのを見た。自警団は署でお目玉を食ったことであろう。

(近藤憲二『一無政府主義者の回想』平凡社、1965年) 


鈴木雷三〔当時24歳。駒込吉祥寺裏の自宅で被災〕

〔2日〕本郷3丁目近い友人の所へ行った。ここは幸い火は無事だったが、流言や飛語が飛び交い、今にも東京は全滅するような話だった。共産党が武器を取って東京を占領するとか、朝鮮人が全部反乱を起こしたとか物騒な噂が、まことしやかに囁かれて人々を恐怖させた。

〔略。3日?〕千住の石炭置き場なぞは1週間も燃え続けていた。本所・深川は全滅、焼け残った地区に今度は物凄い飛語が飛び、朝鮮人は片っ端から捕えられたり殺されたりした

人心がこうなると常識を失い、お先走りの町内の者達が自警団を組織し、武器を持って往来する人々をいちいち調べた。九州弁の者達は言葉が変っているので、朝鮮人と誤られ、散々調べられた上、都々逸なぞを唄わされ解放されたりした。メガホンを持った町内会の者が、「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んだらしい、井戸水を飲まないように」などと町内を怒鳴って歩く。どこから出たデマか知らないが、混乱時の人心というものは恐ろしいものである。逃れた朝鮮人が子どもを連れて青田の中に潜んでいると、町内会の者達がそれを引き出して殺してしまったりと、随分残酷なことをした。この震災で罪もない朝鮮人が数千人殺された。

(鈴木鱸生著・竹之内響介編『向島墨堤夜話 - ヨミガエル明治大正ノ下町』栞文庫、2009年)

渡辺初吉〔宇都宮市扇町新聞販売業宇陽舎主〕

「焦土の東京を一巡り 日本橋区内は大平原の様 竹槍鉄棒で青年団の警護」

本郷の焼残りの地で〔2日〕午後4時頃〔略〕鮮人1名青年団に発見され柱へ縛り付けられ「放火人」と札を立てて置かれたが間もなく群衆のために叩き殺されるのを見た。

〔略〕2日夜に入ると不逞鮮人が押しかけるというので、もしも狼籍するなら青年団も正当防禦で臨機の処置を執ってもよいとまで警官に言われたが、2日夜までには鮮人の徒党らしきものは出現しなかった。数名の鮮人が捕えられたのは事実であった。薩摩原では1名の鮮人が電車線路内に竹槍で突き殺されているのも見た。

(「いはらき新聞』1923年9月4日)


本郷本宮士警察署

9月2日午後2時頃、鮮人暴挙の流言伝わりて、人心漸く険悪となるや、戎・凶器を執りて鮮人を迫害するもの多し、これに於て本署は鮮人等を保護検束すると共に、自警団に警告する所ありしが、彼等は容易に耳を傾けず、3日以後に至りては狂暴特に甚しく、同胞にしてその危害を受くるもの亦頻々たり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


『報知新聞』(1923年10月15日)

「13の少年まで検挙された ○○に暴行を加えて押収された兇器に村田銃」

本郷駒込署管内でも去月2日夜の混乱の際多数の○○に暴行を加えた悪自警団があるので、警視庁及検事局等から係官出張し昨14日までに同地自警団員山崎政七(13)、青木源治(41)外14名を駒込署に引致し、証拠品として押収した着剣の村田銃を突きつけ厳重取調べ中である。


つづく


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