2023年9月27日水曜日

〈100年前の世界076〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉘ 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉③ 「この一篇をよむ人たちの中に、あの二日の午後二時前後に、市川へ渡る橋の手前数町のところで、この事実を目撃した人たちが必ずあるに違いない。、、、、、- 等々の光景を、いま思いだしてもぞっとします。」   

「朝鮮人が井戸に毒」100年後の今も…国や新聞も“デマ拡散”関東大震災で起きた虐殺(報ステ)

〈100年前の世界075〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉗ 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉② 「こうして、標的なき銃丸のために、または「山」と聞かれて、返事がなかったために、または格構(ママ)が鮮人に似ているというだけのことで、どれだけ数多くの同胞が倒れたことであろう。」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉘

〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉③

血にうえた軍隊 - わたしの虐殺現場の目撃     福島善太郎

- 二日の昼下がり、私は市川〔千葉県〕の町へ入る十町余り手前の田圃道を、途中で配給された玄米の握り飯で腹をこしらえて歩いていました。ついぞ見たこともない大型の陸軍飛行機が、幾度となく炎熱の空を飛んで行きました。国府台の騎兵が幾組となく、避難民の列を引き裂いて、砂塵をあげて駆け走ってゆくのでした。

[略]「朝鮮人を兵隊が叩き殺しているぞっ!」不意に私の耳に激しい叫喚が響いてきました。

「暴動を起こそうとした片割れなんだ!」

「太え野郎だ!畜生」

「うわあっ!」

今まで引きずるようにして歩いていた避難民の群衆が、恐ろしい叫びをあげて、勢いよく走りだしました。つい私もつりこまれて走っていました。そして一町近く走ったとき、群衆の頭越しの左側の田圃の中で、恐ろしい惨虐の事実をハッキリと見たのです。

粗い絣の単衣を着た者、色の燻んだ莱ッ葉服を着た者達が七人、後ろ手に縛りつけられて、しかも数珠つなぎになって打っ倒されていたのです。彼等はたしかに朝鮮人だったのです。何か判らない言葉で、蒼白になって早口に叫んでいました。時には反抗的な態度でもがきながら起き上ろうとします。

「ほざくな野郎!」

突然、一人の兵隊が、銃剣の台尻を振りかぶったと見るや、一番端でやたらにもがいていた男の頭の上にはっしと打ち降ろしました。

「あっ」

さすがに群衆に声はなかったのです。そして一様に顔をそむけました。やがて恐る恐る視線を向けたときには、頭骸骨はくだかれて鮮血があたり一面に飛び散り、手足の先をピクビクと動かしていました。

「あはははは、ざまあ見ろ!」

不意に血を浴びた兵隊が、高々と笑いました。彼の眼は殺戮者のみの持つ野獣的な殺気に輝いていました。

「こいつら、みんな叩き殺しちまえ!」

「よし来た! 畜生!」

「やいっ! 不逞鮮人奴! くたばりやがれ!」

十人余りの兵隊が、一斉に銃剣や台尻を振りかぶりました。と…おびただしい血が、飛沫となってあたりに散りました。兵隊たちももちろん返り血を浴びて、形相凄く突っ立っていました。

[略]この一篇をよむ人たちの中に、あの二日の午後二時前後に、市川へ渡る橋の手前数町のところで、この事実を目撃した人たちが必ずあるに違いない。

胸を貫かれて、かすかに空を仰いだだけで息絶えた者、二の腕をほとんど切り落とされんまでに斬られて、泥田の中へ首を突っ込んでもがいていた者、はちきれそうな太股がザクロの割れたように口を開いていた者、断末魔の深い呼吸を、泥と一緒に吸いこんだのか、胸を苦しげに大きく波打たせていた者 - 等々の光景を、いま思いだしてもぞっとします。

[当時二〇歳]

(日朝協会豊島支部編「民族の棘 - 関東大鹿災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、一九七三年)

関東大震災の追憶                渡辺良雄

警察電話が鳴るので受話器を取って聴くと、「ただ今、東京市内から来た朝鮮人と市川の砲兵隊が、江戸川を挟んで交戦中です」との情報が入った。これが流言の最初であった。私は、平和であった東京に大変なことが起ったと思いながら、元吉署長にその旨を報告した。九月二日の午後のことであった。私達は、東京からの避難民を、船橋小学校の雨天体操場や留志野捕虜収容所や兵舎等に誘導収容して、不眠不休の活動が続いた。 → 4日へ

[当時、船橋警察署(千葉県)巡査部長]

(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと -関東大震災と朝鮮人」青木書店、一九八三年)


長岡熊雄編『横浜地方裁判所震災略記』横浜地方裁判所、一九三五年より

「震災日記」小野房子 [検事 小野康平未亡人]

〔二日〕夜に入りて土地の青年団のもの「鮮人が三百名ほど火つけに本牧へやって来たそうだからもの言って返事しないものは鮮人と見なして殺してもよいとの達しがあった、皆んな注意しろ」と叫びふれて来るあり。

ようやく命拾いしとおもうまもなく、また火つけさわざとはと涙さえ出ず。

またつづきてどなり声きこゆ「屈強の男は集まれ、鮮人三名この避難地へまざれ込んだからさがすんだ」[略]すぐ側にわっとさけぶ声す。大動のたくましき漁夫は手に手に竹槍いずこにて見つけしか長刀などひっさげ何やらかこみて「そんなやつ殺せ」「ころすな、他にまだ二人仲間があるから証人にしろ」などめいめい勝手なことをわめきおれり。遂に我等の前までおいつめ来り一度その時、「許してください。私は鮮人じゃありません」と泣き声きこゆ。

如何にしてのがれしか海水の方へにげ出しぬ。気のあらき漁師たちは「そら逃げた、やっつけろ」と、とびの如きものにてひっかけその男は遂に半死半生にていずこかに引かれて行きたり

人一人殺さるるを目の前に見し我等の心は想像の及ぶべくもあらず。

後にてよく聞けば彼は日本人にして避難民の荷物に手をかけしためなりと。その夜は鮮人騒ぎにおびやかされねもやらず涙さえかれて空しくあけ方をまつ。


「震災手記」玉井忠一郎[判事]

同人〔親戚の浅川氏〕の話では裁判所は全潰、在庁の人々は全滅、街は朝鮮人が非行を働くのでこの場合警官の手が廻らずどしどし私刑に処している、現に公園の横で朝鮮人十数名殺されていたのを見て来た。橋という橋は大概焼落ちて自分等は山を廻りどうとかしてここまで来た。往来は甚だ危険で武器を携帯しなければ歩かれぬ、との事であった。その浅川氏が私の宅〔北方町大神宮山〕からさらに山道を廻って久保町の自宅へ帰る途中、山の降り口で鮮人と間違えられ自警団の者に殴られ傷を負ったのは気の毒の事だ。


「震災遭難記」長岡熊雄[部長判事]

〔二日朝〕事務長に向いランチの便あらば税関附近に上陸し裁判所の焼跡を見て司法省に報告したい、と話したが事務長は「陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない」という。何故危険かと問えば「鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやっている。ことに裁判所附近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃しているとのことである。もし御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しましょう」という。

私は初めて鮮人の暴動を耳にし、異域無援の彼等は食糧に窮しかくの如き凶暴をなすに至ったのであろうと考え、事務長の紹介した県保安課の巡査(その名を記し置いたが何時かこれを紛失した)に逢いその真偽を確かめたところ、その巡査のいうには「昨日来鮮人暴動の噂が市内に喧しく、昨夜私が長者町辺を通ったとき中村町辺に銃声が聞えました。警官は銃を持っていないから、暴徒の所為に相違ないのです。噂によれば鮮人は爆弾を携帯し各所に放火し石油タンクを爆発させまた井戸に毒を提げ婦女子を辱むる等の暴行をしているとのことです。今の処御上陸は危険です」という。

私は「市内の巡査はどうしたのか」と尋ねましたら「巡査も大多数は焼け出されて何処へ行ったか判らず、残っている者も飢餓に苦み活動に堪えられないのです」という。ああ無警察の状態か、天何ぞ我邦に災することの大なると心の内になげいていた。

[略。三日]生麦から鶴見に行く。この辺の壮丁も抜刀又は竹槍を携えて往来している。路傍に惨殺された死体五、六を見た。あまり惨酷なる殺害方法なので筆にするのも嫌だ。事変のため人心が狂暴になるのはやむを得ないがこの辺は火災もないのた、平素訓練の足りない事がつくづくと感ぜられる。


つづく



 

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