2023年9月30日土曜日

〈100年前の世界079〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉛ 山本すみ子「横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺」③終 横浜における中国人虐殺 自警団による虐殺 巡査と囚人と自警団が一緒になって殺人 震災前から組織されていた自警団(民衆警察) 公文書による流言の拡大 スケープゴート山口正憲(横浜の立憲労働党山口正憲と「震災救護団」の活動)                

 

「祖国へ帰れ、お前らはゴミなんだよ」一変した慰霊と伝承の公園、関東大震災100年 デマと朝鮮人虐殺から学ぶこと【報道特集】


大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉛ 

山本すみ子「横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺」③終


■横浜における中国人虐殺

中国人虐殺については、中国政府が帰国者から聞き取りを行い、調査団を日本に派遣して調査を行った。日中間の外交問題にもなり、日本に抗議している。

記録には、氏名、年齢、出身地、現住所、被害場所、被害日時、加害者、武器、様子など詳しく記録されている。「理由」という項目があり、そこには「誤認」と記録されている。中国人虐殺は84人、怪我・行方不明を入れると108人になる。虐殺は、9月2日、3日に集中している。被害場所は、子安から横浜にかけての東海道沿いに集中している。加害者は「警察、労働者」が多いが、「軍警、海軍水兵、陸軍」というのもある。

■自警団による虐殺

横浜では、「在郷軍人、青年団、消防団が連携し、9月2日正午には早くも町内単位の自警団が組織され警戒にあたり」(「神奈川県警察史」)震災時の治安維持の中心を担ったという。神奈川で661、横浜で130の自警団が組織された。

自警団の中心は在郷軍人会で、この在郷軍人たちは、日清・日露・3.1独立運動弾圧において朝鮮で朝鮮人を虐殺した軍人たちだ。在郷軍人は県外からも動員され(840人)帝国在郷軍人会は、青木山に本部を設け、軍隊・警察と連絡を取りながら各地の自警団を指揮していた。

自警団は、竹槍、やり、鳶口、短銃、銃剣、空気銃、日本刀、長刀、短刀等あらゆる武器で武装した。

また、中高学校等にある銃で武装した自警団もある。

横浜商業高校には銃920挺があったが、「九月一日格納庫倒壊し、朝鮮人襲来の噂ありしを、群集は格納庫に闖入し全部持ち去りたり」。本牧中学も「三八歩兵銃百丁の備付けあり。九月一日震災当時朝鮮人の襲来の噂ありしため、同地青年団在郷軍人会より自衛の武器として貸与方を申し込まれ、学校当局は貸与者の住所を控えて貸与せしが、九月十七日返戻す可き旨の掲示を出し回収中なり。」(「横浜市震災誌」)。鶴見の浅野中学では「三八歩兵銃五十挺あり。九月一日朝鮮人襲来の噂ありし際同地青年会員に氏名を控えて貸与せる外異状なし」(「横浜市震災誌」)とある。

また、「高津村郵便局長にして在郷軍人会会長予備陸軍歩兵少佐森岡某は・・・事既に切迫したりと断じ自ら近衛歩兵第一連隊に使して軍銃30梃実弾六百発の貸与を受けて帰村し在郷軍人消防夫等を激励し配備・・・」(「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」秘)という例もある。


■証言に見る自警団の組織化と虐殺

9月2日

午後吾々が陣取っている草原へ巡査が駈って来て皆さん一寸御注意を申します。今夜此方面へ不逞鮮人が三百名襲来することになって居るそうである。又根岸刑務所の囚人一千余名を開放した これ等が社会主義者と結託して放火強奪強姦井水に投毒等をする。

(略)十六才以上六十才以下の男子は武装して警戒をしてください。

(略)午後4時過ぎ向ふの山上で喊声が起った。一同が振り向ひて見ると白服を着た者が幾十人が抜刀して沢山な人を追いかけている。其を見た者は異口同音に不逞鮮人来襲だ白服は日本の青年団だと騒ぐ。

(略)各町の青年団、衛生組合の人々が腕に赤布を巻き腰に伝家の宝刀を佩び或は竹槍ピストル猟銃その他鉄の棒など持って避難地の草原に集合した。

(略)夜の10時過頃から各方面で銃声が聞へ始め提灯の火が幾つとなく野原を飛んでいる。折々、武装した青年の傳令が駈って来て「御注意を願います。只今あやしい者が数十名此の方面へ入った形跡があります。」等と入替り立替り報告してくる。此夜鮮人十七八名反町遊郭の裏で惨殺された。

(八木熊次郎「関東大震災日記」横浜開港資料館保管)


9月3日本牧中学

不逞鮮人襲来の噂、・・・本牧中学は震災の厄を免れたるを以て鮮人は該校を目標として襲来するとか・・・本牧中学を中心として自警団を組織すべしと協議し、該校庭を以て在郷軍人団及青年団の本部と定め、箕輪下青年集合して自警団を組織するに至り・・・

(「遭難手記」斎藤竹松)


9月2日夕暮れ水道貯水地(ママ)の丘

恐るべき鮮人襲来の噂とともに夕暮れが来た。水道貯水池の丘に立った一人の男が「男のある家では、一人ずつ出て下さァい・・・」と怒鳴ってゐる。軈てその傍の空地へは、大勢の男が、手に手に何かの武器を持って集まって行った。それは軍隊ででもあるように何個小隊かに分かれた。そして此の丘へ登る道筋の要所々々を堅めることになった。或るものは猟銃を携えていた。或るものは日本刀を背負った。また或るものは金剛杖の先へ斧を縛りつけた。

(「横浜市震災誌」「遭難とその前後」西河春海)


■巡査と囚人と自警団が一緒になって殺人

死体は全部火中に投じた 横浜の暴行事件発覚

9月2日3日の両日昼夜に亘って横浜市中村町中村橋派出所付近を中心として根岸刑務所を解放された囚人廿余名と同町自警団が合体し○○十余名を殺害し遂には同所を通行した避難民や各地から来た見舞人十名を殺し所持の金品を奪った上死体は或は針金で両手両足を縛って大岡川へ投込み或は火炎の中へ投げ焼却して犯跡を隠蔽せんとしたが奇怪なのは某署の警官数名も制服帽でこれに加はり帯剣を引抜いて傷害せしめたといふ噂で被害者中には鶴見町から見舞に来た二名の外元自治クラブ書記吉野某も無惨の死を遂げてゐる。

(報知新聞1923.10.17)

横浜地方裁判所検事局 坂元検事戸部署で調査をする

保土ヶ谷、久保山辺でやられたのは多く戸塚辺の鉄道工事に雇われてゐたもので2日正午頃例の山口正憲一派のものが「鮮人三百名が襲撃してくる」との流言を放ったため久保山や其の附近に避難したものは自警団を組織し全部竹槍や日本刀を持って警戒し一方久保町愛友青年会を初め在郷軍人会員は第一中学校の銃剣を持ちだして戦闘準備をととのへ保土ヶ谷の自警団と連絡をとって三十余名の鮮人を包囲攻撃し何れも重傷を負わせ内十名ほどは保土ヶ谷鉄道線路や久保山の山林内で死体となってうづめ、また池中に沈められた。・・・鮮人に対する警戒は十日ごろまでつづき、二日から一週間は深夜でもピストルの音が絶えなかった。・・・

(東京日日新聞1923.10.21)

■震災前から組織されていた自警団(民衆警察)

横浜の場合、震災以前から警察の指導により自警団を組織し、自警団の一人ひとりが警察官としての自覚を持って行動し、地域の火災、盗難、治安対策(対象は朝鮮人や社会主義者)に対処していた。

この様な民衆の組織化を民衆警察と呼び、内務省警保局警務課長を務めた松井茂が主導していた。彼は、米騒動で青年団の多くが騒動側に立って行動をしたことに対して民衆の組織化の必要性を感じ、全国に「自衛団」「警察の民衆化」を唱え主導していた。県警察高等課長の西坂勝人は藤沢警察署長の時代に地域に組織していた。


〈戸塚町の自衛団組織の規約〉

一、火災盗難の予防匪徒の警戒をなすを目的とす

二、本団は戸塚町在住青年団、在郷軍人、その他区長の選抜したる有志を以て組織す

三、団員は棍棒その他護身用具を携帯すること

四、本団の団長一名副団長二名を置き警察署の指導をうけるものとす

五、本団を三部に分つ(略)各部に部長副部長を置き団員を指揮せしむ

六、団員の勤務は午後六時より午前五時までとし二時間更迭に一部づつ勤務に服し他は停車場前広場に休憩するものとす

このように自警団は、警察の延長線上の組織であり、警察権力の指揮の下に行動していた。

■公文書による流言の拡大

(震災当初、政府や警察は流言を否定せず、むしろ広めていた。情報源の少ないなか、官憲が流した誤情報が信憑性をもって広まった。公権力の手によってデマが流布した。)


内務省警保局長から各地方長官宛に海軍の船橋送信所から呉鎮守府副官経由で送った流言

(原文は、2日午後に東京から船橋に送られた)


呉鎮守府副官宛打電                  九月三日午前八時十五分了解

各地方長官宛                      内務省警保局長出

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し石油を注ぎて放火するものあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締りを加へられたし


これを受けて各地では、通牒や通達で隅々まで流言を拡大してゆく。

神奈川県三浦郡長名で各町村宛に配られた公文書


「不逞鮮人」に対する自衛勧告の件通達

                                号外大正十二年九月三日三浦郡長

今回の災害を期として不逞鮮人往行し被害民に対し暴行をなすのみならず井水等に毒薬を投ずる事実有之候条特に御注意相成度追て本件に就ては伍人組等を活動せしめ自衛の途を講せしめられ度

■スケープゴート山口正憲(横浜の立憲労働党山口正憲と「震災救護団」の活動)

9月10日、憲兵は、警察力を無視し、救護と云う美名のもとで過激な行動をする山口正憲とその一派を逮捕。新聞には「日鮮人共謀の賊団捕らわれる、横浜市内で」(「東京日日新聞」1923.9.13)と報道された。その後も「虐殺掠奪頻ゝたりし流言蜚語をはなった山口一派の悪逆行為」などと、不逞鮮人と社会主義者の共謀の犯罪行為を結びつける情報操作が行われた。そして、流言蜚語の発生源の一つが山口正憲であるとの印象づけを行った。

司法省の秘密調査書「震災後における刑事事犯及之に関連する事項調査書」は、山口が朝鮮人襲来を煽ったと述べている。

・・・立憲労働党総理山口正憲(当35年)は,9月1日午後4時頃同市中村町字平楽ノ原に於て避難民大会を開き避難民約一万人に対し食料品掠奪に関する演説を為したる際鮮人が夜間内地人を襲撃して危害を加ふるの説あるを以て互に警戒せざるべからざる旨の演説を為した・・・

この時の壽警察署員の報告は、以下。

午前5時頃、社会主義者らしきものが、中村町平楽原の原頭で、虚に乗じ、掠奪すべき煽動演説をして居ると云ふ報告に接したので、直ちに巡査十数名を引率して現場に向かったが、途中で旗を持ち赤布を巻いた一団に出会ったので之を追い散らし、更に現場に行って見ると群集は已に解散した後であった、所謂社会主義者とは例の山口正憲のことで、能く調べて見ると、附近の罹災民を集め、食料自給の方法に関しての演説であったと云うことが判ったので、不穏の言動を為すべからざる様警告して引き上げた。

(「大震火災と警察」西坂勝人)

壽署の報告は、司法省文書にある「朝鮮人襲来」の扇動はない。但し、この二つの報告では山口正憲の演説時間が異なっている。1日夕方なのか2日の早朝なのか、或いは両方やったのかが判らない

裁判の公判廷での壽警察署大谷武雄の証言から見てみると、

2日の午前4時30分頃であった平楽の原にテントを張り籐椅子を踏台にして一段高い処で、パナマ帽を冠り白シャツに白ズボンを穿った大兵肥満の青鬚の生えた男が、避難民一同に向って、此の際お互いの生命を保つには掠奪をする外はないと煽動的の宣伝をして居た。一同は之に共鳴して万歳々々と連呼しているのを見たが、その男は後に山口正憲と判った。

(「横浜貿易新報」1924.6)


裁判長は、主文で「他の者と共に病傷者の手当を為し通信の便宜を計り食料その他の物資の調達並に之が配給に従事したるが・・・」と述べ、山口正憲に対して懲役2年・執行猶予3年の判決であった。

山口正憲は、1920年横浜沖士同盟の結成に努力し、発会式も兼ねて5月1日に「万国労働祭」(メーデー)を勝ち取り、沖仲仕の労働条件改善闘争や普選運動等にかかわっていた。山口は当時の社会主義者たちからは「右翼ボス」と見られていた。震災時には、「震災救護団」を組織し、食料調達、分配など米騒動の経験を生かして活動し、その他、傷病者の救護活動、通信、郵便活動など多方面での組織的な活動をした。


つづく

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