大正12(1923)年
9月3日
〈1100の証言;墨田区/本所被服廠跡辺〉
笹井菊雄
〔本所の友人を探して被服廠跡で〕 そうだ、ゆわえられてドブにはまっているのもいたがあれはひょっとすると朝鮮の人かもしれないな。ゆわかれていた。だって避難してるんだったらゆわくようなことしないでしょ。ドブにもかなりそんな人がいたようだ。
〔略〕その折に本所を歩いたらば、電車が枕木からもちあげられて、そして線路工事してた線路に朝鮮の人が針金でゆわえつけられている。顔を見るとどうもそうらしい。それはもうとにかく3日の日です。
〔略〕とにかく所々にそういうふうに殺されていた。それは確かに焼けていないんです。被服廠の中は大部分焼けて山になっていた。着物やなんか残っていたら柄なんかで分かるんじゃないかと見て歩いたけれども、本所ではやっぱり朝鮮の人を”敵”にしていたらしい。あの針金で朝鮮の人がむすばれていた線路は、今でいう亀戸通りですね。かわいそうでしたけどね。しかし、みんなおそれてはいたですね。
(「被服廠跡 - 生と死の別れ途」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)
〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
青木〔仮名〕
たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。荒川駅〔現・八広駅〕の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。〔略〕大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朗鮮大虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
司法省「鮮人を殺傷したる事犯」
①2日夕刻、吾嬬町放水路四ツ木橋附近の堤防で、配馬音五郎が朝鮮人1名を鉄棒で殴打殺害した。
②3日午前5時、吾嬬町大畑荒川放水路四ッ木橋附近堤防下で、中島五郎が朝鮮人2名を日本刀で顔面右肩及胴を斬り付け殺害した。
③3日午前2時半、吾嬬町大畑荒川放水路堤防で、堀子之吉外2名が朝鮮人1名を日本刀で斬殺した。
④3日午前5時、吾嬬町字木下荒川放水路堤防で、外山利太郎が朝鮮人1名にピストルを発射し傷害を与えた。
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午前零時荒川放水路の土手下空地にて姓不詳の鮮人3、4名を殺害した犯人寺島村字玉ノ井431土木請負業吉井半之助(44)同679自動車運転手松戸宇之助(32)同772土工山田龍雄(46)同小島君太郎(34)の4名に令状執行収監す。
〈1100の証言;墨田区/両国橋〉
志賀義雄〔政治家。池袋で被災〕
3日の朝から、自転車に乗って亀戸へ出かけた。〔略〕丹野セツの話によると、江東方面でも朝鮮人騒ぎがひどいとのことで、私が包戸へ往復する途中でも、そうした噂はいたるところで聞いた。両国橋のたもとでは、朝鮮人の夫婦が捕まり、さんざん暴行をうげ、警官に引き渡されたが、その女は妊娠していたので、もう立てなくなって、引きずって行かれたということであった。
(ドキュメント志賀義雄編集委員会編『ドキュメント志賀義雄』五月書房、1988年)
陸軍「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」
9月3日午前10時頃、両国橋西詰付近で近歩1ノ3歩兵が50歳位の朝鮮人1名を射殺。
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)
つづく
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