2023年11月13日月曜日

〈100年前の世界123〉大正12(1923)年9月4日 【埼玉県本庄警察署の事件】(藤野裕子『民衆暴力』より) 「署内の虐殺について、当時の巡査は、「その残酷さは見るに耐えなかった」と回顧している。署内にいた朝鮮人の子どもたちは並べられて、親の見る前で首をはねられた。その後、親も「はりつけにしていた」という。この巡査以外にもその場にいた複数の人が、生きている人間の腕をのこぎり・鉈(なた)で切っていたと証言している。「朝鮮人暴動」のデマを信じてしまったからというだけでは片付けられない残虐さが、ここにある。」

 

大正12(1923)年

9月4日

【埼玉県本庄警察署の事件】(藤野裕子『民衆暴力』より)

事件の概要

埼玉県児玉郡本庄町は、埼玉県の北部に位置し、群馬県と近接した養蚕地域である。町内には製糸工場があり朝鮮人労働者が働いていた。

内務省編『大正震災志』によれば、児玉郡では住宅被害はゼロで、住宅でない建物に若干の被害があった程度である。一方で、県内で保護・検束された朝鮮人が群馬県などに移送される経路にあたっていた。

9月3日夕方頃には、列車からおろされた朝鮮人や町内に住んでいた朝鮮人が、本庄警察署に収容されていた。そこに4日夕方からは、各地で保護・検束された朝鮮人を乗せたトノックが5台ほど移送されてきた(『かくされていた歴史』)。

虐殺は4日夜から5日明け方にかけて起きた。自警団が本庄署に集まり、トラックに乗っていた朝鮮人を、日本刀・蔦口・棍棒などで殺害し、そのまま署内になだれ込み、収容中の朝鮮人を殺害した。多くの人が、本庄署での犠牲者は85人前後だったと証言している(同前)。たとえば、本庄署の巡査は「警察署の構内で殺されたのは八十六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが十五、六人位…」と述べている。

自警団の警備

本庄町では、9月3日頃から多くの被災者が避難してきて、青年団・婦人会などが炊き出しなどの救護活動を行った。その被災者からの口伝えと、埼玉県内務部長の通達により、町内に「朝鮮人暴動」の流言が飛び交った。郡役所からも「朝鮮人が東京で悪いことをした。見たらつかまえて瞥察につき出せ」と指示があり、救護活動は「朝鮮人狩り」に変わったのだという(同前)。

当時青年団員だった人たちは、「郵便局の前に検問所を作って、通る自動車を止めたり、「風態の悪い人」をつかまえて、「あいうえお」、「いろはに」を全部暗唱させたりしました」と証言している。

巡査から「警察で朝鮮人を殺しているので、青年団は住民を外に出さないよう街を警戒しろ」といわれ、青年団が町内を見張ったと証言する人もいる。

虐殺の現場

署内の虐殺について、当時の巡査は、「その残酷さは見るに耐えなかった」と回顧している。署内にいた朝鮮人の子どもたちは並べられて、親の見る前で首をはねられた。その後、親も「はりつけにしていた」という。この巡査以外にもその場にいた複数の人が、生きている人間の腕をのこぎり・鉈(なた)で切っていたと証言している。「朝鮮人暴動」のデマを信じてしまったからというだけでは片付けられない残虐さが、ここにある。

当時の町議は、「この人たちは、あとは全事件を通じほとんど抵抗らしい抵抗をみせず、ただ手を合せて助けてくれとおがむだけだったのですから、ずいぶんむごいことでした」と回顧している。同様のことは熊谷での警察署付近での虐殺にも当てはまる。そこでは「こんな時に斬ってみなければ、〔日本刀の〕切れ味がわからない」という言葉が発せられたという(同前)。日頃は抑圧している人を殺すことへの嗜虐的な好奇心が、朝鮮人を殺害する過程で湧き上がったというよりはかない。

また本庄署では、虐殺のあとで「おばあさんと娘」が来て、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、朝鮮人の死体の目玉を出刃包丁でくりぬいたという証言がある(同前)。身内の生命が震災で失われた事実を正面から受け止めるよりも、誰かを「敵」として設定して「復讐」できたほうが、やりきれぬ思いを紛らせられる。罪のない人間の死体を損壊する行為は、そのような要因でなされてもいた。

恩賞にあずかる

本庄警察署の巡査は、「事件後人々は、この事件でのおとがめはあるまい、もし何らかのさたがあるとすれば論功行賞だと考えていた」と述べ、検挙された人は検事局での取り調べで検事に「人を殺してほうびをもらえるのは戦争の時だけだ」といわれると、「それじゃ何も知りません」という態度であったと、のちに証言している(同前)。国家が暴力行使にお墨付きを与えた結果、人びとは罪悪感なく殺害に手を染め、暴力はエスカレートした

国家に委託された暴力であるがゆえに、そこでの殺害行為は、その人数が多ければ多いほど、国家に貢献した誇るべき証となった。在郷軍人会役員の一人も、在郷軍人会員で殺害に加わった者は、「なにしろ殺すことを、英雄気取りで自慢などしておりました」と述べている(同前)。熊谷でも、虐殺後に、恩賞にあずかりたいと届け出が出されたというから、虐殺を誇る意識は広く共有されていたと思われる。

そのうえで考えたいのは、なぜ国家の役に立つことをそこまで求めたのか、という点である。虐殺事件の翌日、本庄警察署の巡査は「不断(ママ)剣つって子供なんかばかりおどしやがって、このような国家緊急の時には人一人殺せないじゃないか、俺達は平素ためかつぎ〔溜め担ぎ。尿尿の運搬のこと〕をやっていても、夕べは十六人も殺したぞ」と言われたと、のちに証言している(同前)。日頃、農作業で人のいやがる仕事をしていても、いざとなれば巡査よりも役に立つ。反官意識とともに、国家への貢献が自己の重要性の確認につながっていることが読み取れる

多数の朝鮮人を虐殺したことは、日頃警察権力に抑圧される側であっても、国家的な危機に際して、気の弱い官より身を挺して立ち向かえる証となった。

報復の恐怖

ここでも「報復の恐怖」があった。警察署内で、留置所の中にいたために生き残った朝鮮人1人に対し、「凶行を見られてしまったからには、朝鮮へでも帰って話されたら大変」ということで、留置所の鉄格子の間から竹槍で突いて殺そうとしたが、結局果たせなかったという(同前)。一度殺しはじめたからには全員を殺さないわけにはいかなくなる心理が大量虐殺をもたらしたことを、改めて確認できる。

死体処理

他の例と同じように本庄署の事件でも、被害者の遺体は燃やされた。

巡査の証言。

「死体は、翌日、県からの命令で、朝鮮から調査にくるから至急にかたづけろといってきた。〔中略〕山林に幅七尺、長さ三十六間の穴を掘り、下にまきをしき、その上に死体を並べて、上から石油をかけて火をつけた。焼いたのは夜だったが、朝になっていってみると、頭や、足、手首などが殆ど残ってしまっていた。残った頭など五十位あったろうか。何しろ「数がわからないようにしろ」というお上の命令なので、残ったのは、又やりなおした。(同前)」

在郷軍人会分会役員も、「私も見たのですが、死体は、荷車で火葬場に運び、穴を掘って薪を入れ、石油をかけた上に死体を置き、その上に石油をかけて焼きました。しかしよく焼けませんでした」と証言している。また、焼き直しの時に「いやな臭いがしました」という証言もある (同前)。

巡査は、被害者数をわからなくするために死体を燃やせというのが、県(「お上」とも表現されている)の命令であったと証言している。また刑事課長からは「本当のことを言うなと差しとめ、実際は鮮人半分、内地人半分だったと証言しろ、それ以上の本当のことは絶対言ぅな、と私に強要した」と述べ、本庄署勤務だった1926年まで一貫して「内地人半分」と言い続けていたという(同前)。

数々の証言を重ね合わせると、本庄署内で殺された人数は85人前後であった。その半分の数字を巡査が報告しだとすれば、司法省調査が本庄署で殺害された朝鮮人の人数を「約三十人名」としていることとおおよそ符合する。

記憶のなかの叫び声

だが、たとえ死体を燃やしても、虐殺の痕跡を消すことはできなかった。当時在郷軍人会の分会役員で殺害現場にいた人物の証言には、次のようなくだりがある。

「私が、特に耳に残っているのは、朝鮮人が屋根裏に逃げて息をころしているのを、下からねらっていて、天井が少しでも動くと群衆が槍や棒でつき、引きずり落として殺しでいる時の、「アイゴウ、アイゴウ」と助けをもとめる声でした。(同前)」

直接殺害を制御しなかった巡査も、「私は長い間、朝鮮人の「アイゴウーアイゴウ」という悲痛な叫びが耳からはなれなかった」とのちに述べている。このほかにも複数の人が、殺害された朝鮮人が「アイゴウ、アイゴウ」と叫んでいたことを記憶にとどめ、証言している。

殺害の罪悪感や悔悟を明確に自覚した人がどれだけいたかはわからない。それでも、人びとの記憶のなかに、死体を焼いた時の臭いや、朝鮮人の叫び声は残り続けた。人が生きていた痕跡、人を殺した痕跡は、やはり容易に消せるものではない。

本庄警察署の焼き打ち未遂

虐殺の翌日、本庄署が民衆に襲撃された。この時の標的は、朝鮮人ではなく、本庄署の署長と本庄警察署の建物そのものだった。署長がいるかどうかと、民衆と警官が押し問答になり、署内に押し入って器物を破壊したうえ、放火を試みた。

本庄署内での虐殺事件の予審終結決定には、9月6日午後8時頃、署長に反感を持っていた約1千人の民衆が本庄署に殺到し、署長に危害を加えようとしたほか、放火しようと気勢を上げたと記されている。

本庄署の近くに住んでいたと思われる人の証言では、六日に「署長を殺せ」「警察署を焼け」と人びとが殺気だっており、「石油缶、三個を持って行くのを見ている」と、証言している。本庄署の巡査は、「署長の生首を警察の屋根にかけるんだといって、棒や俵や、石油かんを三十本も運んできた」と述べている(同前)。

当時の町議は、「群衆はふえる一方で、中には炭だわら、石油、ポロくずなどをはこぶ者もあり、今にも焼打ちという状態になりました」と、のちに新聞に記している(同前)。

署長は在郷軍人会員の一部と近隣住民、新聞記者などに助けられて、逃げ出すことができた。また、軍隊の到着によって、焼き打ちは未遂に終わった。軍隊の到着があと一時間遅ければどうなったかわからない、という証言が複数見られる。

焼き打ちの要因

要因は、関係者の証言から、三つが浮かびあがる。

①祭礼の神輿をめぐる対立。本庄署に着任したてだった署長が、八坂神社の祭礼で神輿を担ぐことを規制し、地域住民とトラブルになったという。本庄署の巡査は、神輿が店に飛び込んだりして混乱を起こすので、「今年はそうした混乱を起さないように係が保障しろ、もしそれができないなら、今年はみこしをかつぐな、と迫った」という(同前)。

これによって町内有力者と署長が対立し、神輿を担がないことになったが、青年団が無許可で神輿を担いだ。青年団支部長は「二回程警察に引っ張られた」と証言している。8月18日頃、この犯人調査に反発し、町内の祭事係が全員辞職したという。

②本庄にあった遊廓の貸座敷取り締まりをめぐる対立。当時の町議は、署長が数多い貸座敷業者への取り締まりを厳重にしたために、町民の一部から反感を買っていたと記している。特に、在郷軍人会員は「警察にソッポを向いた」という。

巡査は、朝鮮人虐殺の際にも先頭に立って「あいつは、朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と叫んだのは、遊廓の「ギュウタロウ」(客引き)であったと証言しており、予審終結決定書では、この人物らが本庄署の襲撃の際に署長を裏口で待ち伏せるなどしていたとされる。

③大震災時の自警団に対する署長の対応で、これが襲撃の直接的なきっかけとなった。青年団の支部長は、自警団として朝鮮人を本庄署に連行したところ、「司法権の侵害だ」と怒られたと証言している。

また、本庄署襲撃の当日、署長に「一般大衆は手を出すな」と言われ、「今までたのむたのむといっておきながら、何事だ」となり、「署長を殺せ」「署長を出せ」となったと証言している(同前)。民衆の自警活動を否定し、警察権力を保とうとしたことが、民衆の怒りをかき立てる結果となった。


つづく


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