2023年11月26日日曜日

〈100年前の世界136〉大正12(1923)年9月5日 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉より 「〔略。五日永代橋の〕焼けて鉄骨ばかりの橋の上を私はようやく這って渡った。深川の地に渡ったのだ。そしてまたこれはどうだ。 「○○だな」と思った。両手を針金で後にくくりあげられたまま仰向に、或は横に、うつぶしに倒れて死んでいる。着物は彼等の労働服だ。顔はめちゃめちゃである。頭、肩にはいずれも大きな穴があいて居り、血がひからびてくっついている。そこにはまた首のない死体がある。首が肩の際から立派に切り取られている。見事に切ったものだ。」


 〈100年前の世界135〉大正12(1923)年9月5日 〈1100の証言;墨田区、台東区、港区〉 「5、6人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通りがかりの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く。 死せし者は隅田川にと投げ込む。その物凄さ如何ばかり。」 より続く

大正12(1923)年

9月5日

〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉より

震災見聞記     黒木伝松

〔二日〕札の辻まで帰ってくると前方にわあッという鬨の声が聞える。在郷軍人の服をつけた人、青年団員の銘々、おのおの手に竹槍様のものを持ち、後鉢巻でかけめぐっているではないか。道路に一ぱい群をなしているではないか。此の大地震を機として〇〇〇人の一群が東京を一尽すべくおし寄せたのだという。「もう既に横浜を○○さした。○を放ち井戸に○を投げるのた、勢に乗ってもう品川まで二百人程おし寄せている、品川でようやく食い止めている、女子供をよく保護せよ、危険だから通行人は引き返せ。」

道路の中央に地震を避けていた町人は総立ちである。喧々囂々(けんけんごうごう)。その裡に叫ぶ在郷軍人等が声は全身に力の満ちた律調をもっている。私の胸は鳴った。

驚きまどうH君を無理に引っ張って私は品川へむかった。道々同じ光景である。馬上の軍人が飛ぶ、在郷軍人青年団員が馳せ違う、と、ここには忽ち検問所が設けられた。広い道路の中央に警官等がすさまじい明りの探照燈を照し、その明りに沿った円錐状に在郷軍人青年団員が列をなし、その後は群集をもってうずまっている。即ち品川方面から来る人々の一人一人を探照燈に照し、道路の中央警官等の所に引っ張って来て姓名を名乗らせるのだ。少しあやしいと見ると忽ち拳骨の雨である。彼等の血は躍っている、腕は鳴っている。私達はしばらく立って見ていた。元気よく姓名を名乗るもの、怖じけて仕舞って禄に口もきけないもの、さまざまの人等がその強い光に照された。とうとう○○は来ない。

品川駅前に来たとき品川の方にむかって走りゆく貸物自動車があった。私はH君をうながして忽ちそれに飛び乗らせ私も走って飛び乗った。自動車は大森行である。もう大丈夫。

道は戦場さながらである。道の両側は後鉢巻でうずまっている。竹槍でうずまっている。吾が自動車は道々十数間も行かぬうちに呼びとめられた。提灯の灯は容赦なく私達の顔につきつけられた。もし○○でもあろうものなら忽ちあの竹槍で一さしである。

〔略〕夜半私達の寝ている近くでピストルを連発した。その〇〇二名をついにとり逃がしたという。大森警察署には三、四〇人の〇人〇〇人が血にまみれて捕えられたが朝になってそれぞれ釈放されたという。

〔略。五日永代橋の〕焼けて鉄骨ばかりの橋の上を私はようやく這って渡った。深川の地に渡ったのだ。そしてまたこれはどうだ。

「○○だな」と思った。両手を針金で後にくくりあげられたまま仰向に、或は横に、うつぶしに倒れて死んでいる。着物は彼等の労働服だ。顔はめちゃめちゃである。頭、肩にはいずれも大きな穴があいて居り、血がひからびてくっついている。そこにはまた首のない死体がある。首が肩の際から立派に切り取られている。見事に切ったものだ。

〔歌人。当時二二歳〕

(『創作』創作社、一九二三年一〇月号。のち琴秉洞『朝鮮人大虐殺に関する知識人の反応2』緑蔭書房、一九九六年)


多難な後半期 - 日記の中から     秋田雨雀

月四日 (火)晴

東京に向って出発。

(略)

夜の急行に乗る。列車の中は北海道の方面から来た救護団や見舞客で立錐の余地もない。恐怖-想像ー憶測-偽愛国-偽社会奉仕-粗野-偽善-野獣性-飲食-を乗せて汽車が走る。

九月五日(日ママ)晴

汽車の中で眼を覚す。

沿道は最早戦乱の巷だ!

槍を持った者

長剣を持った者

鳶口を持った老

旗を持った者

棍棒を持った者

これ悉くわが国土を守る勇士かと思えば、豈はからんや、流説に動されて数百人の人類同胞をほふった憐れむべき犠牲者だ! その一人は車窓の前に立って、

『この槍でやったんです…‥え、これでやってんですとも』

と意気昂然たるものだった。

僕は淋しかった! こんな淋しい気特を同胞に対して懐いたことが初めてだ。誰もこの淋しい気特を話す人がいない。皆なこの勇士達の行為を是認して一点の疑いも挟むものがなかった。

僕は淋しかった!

たった一人学生がいた。その学生は僕の顔を知っていた。(文科生らしい。)

『君実は大事件じゃありませんか…‥僕は淋しい気がします。』

と僕が言うと、その学生は眉をひそめて、
『ほんとうに然うです。朝鮮人も人間だということが、この人達に解らないんでしょうか?』
と言った。

『人間』を『人間』だと思えない私達日本人は一体何んな教育を受けて来たのだろう?

ああ、簡単なこの『人間』ということ!

死んだ都へ汽車が着いた。

〔劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家。当時四〇歳、秋田から東京雑司が谷(豊島区)の自宅を目指す〕

(『改造』一九二三年一二月。のち琴秉洞編『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応2』緑蔭書房、一九九六年)

十五円五十銭     壷井繁治

(→2日より続く)

〔略。五日〕熊谷あたりから列車が駅に着く毎に、剣付鉄砲を担いだ補助憲兵がやってきて、車内を覗いて廻わった。怪しい人間が混雑した車内へ潜り込んでいやしないかとの探索であった。車内はギユウキユウ詰めで、便所へ立とうとしても立てないぐらいだった。ここでも社会主義者や朝鮮人に関するデマが盛んに話題に上っていた。中には朝鮮人を何人殺したかを自慢話する者さえあった。こんなかにだって、社会主義者や朝鮮人が潜り込んでいるかもしれないぞ、とあたりを見廻す者もあった。長髪を蓄えていることが社会主義者の一つの目標となっていた当時のこととて、わたしは胆を冷やしながら、ソフトをいっそうまぶかにしなければならなかった。そのようにしてまた汽車がある駅に着くと、例の通り剣付鉄砲の兵隊が車内を覗きにきた。彼は暫らくの間車内をジロジロ見廻わしでいたが、突然わたしの隣の印絆天の男を指して怒鳴った。

「十五円五十銭いってみろ!」

指された若い土方風の男は、兵隊の訊問があまりに奇妙で且つ突然だったので、その意味が解らなかったらしく、はじめはポカンとしていたが、やがてはっきりとした発音で「ジュウゴエンゴジュッセン」と答えると、兵隊は「よし!」といってその場を去った。剣付鉄砲の立ち去った後で、わたしは隣の男の顔を横眼で見ながら、「ジュウゴエンゴジュッセン ジュウゴエンゴジュッセン」と、こころの中で繰り返してみた。そしてようやくその訊問の意味がわたしにも呑み込めた。というのは朝鮮人は一般に濁音が正確に発音出来ず、その人間が日本人か朝鮮人であるかを見分けるために、濁音の最も多いこの言葉、すなわち「十五円五十銭」の発音で試すことが、戒厳司令部から駅を警戒する戒厳屯所まで指令されていたらしいからである。そしてもしこの男が朝鮮人なみに十五円五十銭を「チュウコエンコチッセン」としか発音出来なかったとすれば、早速兵隊に引っ立てられ、どんなに悪い運命に見舞われたか知れたものではない。

〔詩人。当時二五歳、下谷真島町(現・台東区)の下宿で被災し上野公園へ避難して助かる〕

(壷井繁治『激流の魚-壷井繁治自伝』光和堂、一九六六年)


つづく

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