2023年11月27日月曜日

〈100年前の世界137〉大正12(1923)年9月5日 この頃から、近藤憲二・福田狂二・浅沼稲次郎・稲村順三・北原竜雄らの社会主義者検束 藤岡事件 「 朝鮮人あまた殺され  その血百里の間に連なれり  われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」(「近日所感」萩原朔太郎)  

 

被害少ない群馬でもあった朝鮮人17人虐殺 藤岡事件 関東大震災



大正12(1923)年

9月5日

【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言

(2)横浜公園、横浜港方面

③読売新聞「鮮人を大鉈で虐殺」(一九二四年八月二〇日付)

横浜公園バラツク管理人松田直の不親切から紛擾を起こして居たが18日午後3時頃バラック民百余名が加賀町署に押寄せ代表者水長賢石井辰外94名の連署で管理人松田が震災当時鮮人を虐殺したと訴へでたので19日朝来同署の小野警部主任となり取調の結果9月5日午後四時頃バラック2号と3号との間で命乞ひをする一鮮人を大鉈で惨殺したこと判明実地検証の結果同日午後2時頃松田は右犯行を自白した。


③小森住三郎「横浜公園の虐殺」

〔横浜公園三日〕「〇〇〔鮮人〕が暴動を起こしたから目立たぬ所へ赤い布をつけよ」〔やっと赤い布を探してつけると〕 「青い布に変わった」 「井戸には毒を持ち込まん」 〔との流言。死者が一日ごとに身包み剥がされていく様子(一日目は眼鏡、翌日は靴、翌日は上着、最後に下着)〕。

〔九月五日〕 「心もとなき無政府下、まして異国人の暴動に〔・・・〕 

〔元町裏山手で抜剣騎兵が来る〕「その頃、西南寄り噴水池前広場で7~8人の集りに何事かと行って見れば、〔・・・〕30才位かとも思われる大男が仰向けに倒れ眉間から目をかすり頬へかけて斜がげに一刀深く割裂かれアケビの如く切り開かれた奥から小豆大の泡血が溝口を広げるかの様に何千となく下から下からと湧き上り押されて潰れた血汁はツルツルと首を伝って地面へその凄惨さ! 「何もしません運転手です」を何遍もくりかえす所を只一刀。」

(小森著「関東大震災五十周年記念想い出記 大正時代相」想い出を記録する会、一九七四年)


この頃から、近藤憲二・福田狂二・浅沼稲次郎・稲村順三・北原竜雄らの社会主義者たちが続々検束される。総同盟麻生久夫妻は、足尾銅山鉱夫がダイナマイトをもってきて騒擾を起すとのデマの為に赤ん坊づれで収容。


・5日夜、栃木県の東那須駅(現・那須塩原駅)前で、朝鮮人の馬達出と、一緒にいた日本人の宮脇辰至が駐在所近くで殺された。


・5日、群馬県の多野郡藤岡町(現・藤岡市)において、藤岡警察署に保護されていた朝鮮人17人が乱入した群衆によって殺される。詩人萩原朔太郎(1886~1942)はその憤りを詩にしている。

「藤岡市史」や「群馬県警史」によると、9月5日、安全のために藤岡警察署が朝鮮人十数人を留置場に収容していたところ、地元の自警団員らが「朝鮮人を引き渡せ」と署に押しかけた。群衆は阻止する署員を振り切って乱入し、朝鮮人を竹やりや日本刀、猟銃で惨殺した。殺害は次の日も続き、計17人が犠牲となった。集まった群衆の数は約1000人といわれる。

  朝鮮人あまた殺され

 その血百里の間に連なれり

 われ怒りて視る、何の惨虐ぞ


 「近日所感」と題された、萩原朔太郎の三行詩である。関東大震災のあった1924年2月に雑誌「現代」の第5巻第2号に発表された。

 震災の当日、朔太郎は郷里の群馬県前橋の自宅にいた。震災のあまりにも大きな被害に驚愕して、米と食料品をリュックで背負い東京に向かった。幼少のころから慕っていた母方の叔母と従兄を見舞うためで、汽車と荷車をのりつぎ、大宮からは歩いたという。


つづく


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