2023年11月29日水曜日

〈100年前の世界139〉大正12(1923)年9月6日 飴売り具學永(ク・ハギョン)の死(寄居町) 「吉原土手のお歯黒どぶに、電線で十重二十重に縛られて投げ込まれた死体を続けて2体見たが、流言蜚語からあんな無惨なことになったのかと思った。」 「東京府下下大島付近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」(『下野新聞』(1923年9月6日))     

 


大正12(1923)年

9月6日

9月6日 木曜日 午前2時 寄居警察分署(埼玉県寄居町)

ある隣人の死(『9月、東京の路上で』より)

埼玉県用土村(現・寄居町)の住民たちは「不逞鮮人」襲撃に向かう緊張と高揚に包まれていた。それは、前日に熊谷などで繰り広げられた惨劇の「高揚」に感染したものだった。

事件のきっかけは、5日、誰かが怪しい男を捕まえてきたことだった。自警団が男を村役場に連行。遂に本物の「不逞鮮人」を捕らえた興奮に100人以上が集まったが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかった。

がっかりする人々を前に、一人の男が役場の土手の上に立って演説を始める。「寄居の下宿屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた人々はこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒を準備し、寄居町へと夜道を駆け出していった。途中、他村の人々も合流し、勢力は膨れ上がっていく。

朝鮮人のアメ売り具学永が寄居警察分署に保護されていることを知った人々は、寄居分署に押し寄せた。朝鮮人を引き渡せと叫ぶ彼らに対し、星柳三署長は玄関先で、わずか3人の署員たちとともに説得に努めた。そのうちに寄居の有力者である在郷軍人会の酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良をアメ売りである」と訴えるが、興奮した彼らは聞く耳をもたまい。群衆は署長らを竹槍で脅して排除すると署内になだれ込んだ。

具学永は留置場の中に逃げ込んだが、男たちは格子の間から日本刀や竹やりを突き入れる。具は泣き叫び、牢の中を逃げまどう。そのうちに具が血を流して倒れると、男たちは彼をずるずると引きずって玄関先まで運んだ。具はそこで、外で待ちかまえていた群衆にさらに暴行され、息絶えた。6日深夜の2時から3時の間の出来事だった。人々は、絶命した具をその場に放置して、村に帰っていった。

翌日、医師が警察署に行ってみると、そこにはむしろを掛けられた具の遺体があった。遺体には合計62箇所の傷があった。「とにかくちょびりちょびりいじめいじめやったと見えてひどい傷でした」と医師は証言している。

10月、用土村の自警団12人が逮捕・起訴された。被告の一人は法廷で「留置所に入れてある位だから悪い事をした鮮人と思ってたたきました」と弁明した。

具学永の遺体は、宮澤菊次郎というあんま師が引き取ったという。具の墓が、今も寄居の正樹院に残っている。


具学永さん命日に寄居の正樹院で慰霊祭


〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉

伊藤一良

〔6日、吉原を見た帰途〕吉原土手のお歯黒どぶに、電線で十重二十重に縛られて投げ込まれた死体を続けて2体見たが、流言蜚語からあんな無惨なことになったのかと思った。

(目白警察署編『関東大震災を語る - 私の体験から』目白警察署、1977年)


鹿島龍蔵〔実業家、鹿島組理事、当時田端在住〕

9月6日〔略〕今戸の建具屋木村来り、自分の避難の話から、不逞鮮人(ママ)の話に及ぶ。鮮人(ママ)を殺した事を自慢していた。これ等の輩にも困った物だと思う。

(武村雅之『天災日記 - 鹿島龍蔵と関東大震災』鹿島出版会、2008年)


《この日付け新聞報道》

「東京府下下大島付近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」 (『下野新聞』(1923年9月6日))

「社会主義者は「鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させようと努めて居る許りでなく、多数躍災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱しているので、市民の激昂はその極に達している」

(「現代史資料6関東大震災と朝鮮人」)。


「不逞鮮人が上野博物館の井水に毒薬を投じ更に日本婦人の手を介して某井戸に同様の手段を施したとの報に伝わったので、焼け残った山の手方面では3日の夜から非常警戒に当り各町民は不眠不休でこれが防止に着手し万一に備える所あり。為に町外から飲料水を貰いに来るものあるも絶対に給与しない方法を執ったためか当夜は無事であったと。」『下野新聞』(1923年9月6日)

「2日から3日の火災は不逞鮮人の放火上野駅岩崎邸の焼けたのも彼等の放火のため」(『河北新報』1923年9月6日)

「私は上野の交番前で市民のために打殺された30名ばかりの鮮人の死骸を見た。私の避難した七軒町のお寺でも2人の鮮人が捕縛されて打ちのめされていたし、浅草方面では軍隊に突殺されたり在郷軍人青年団員のために多数の不逞鮮人が撲殺されていた。」


「避難民を虐ぐ暴漢を拘束す 生と死の現状を見、死線を越えて帰洛した井上氏の実見談」(『京都日出新聞』1923年9月6日)

「戒厳令が布かれたのはこの夜〔2日〕からで、芝四国町即ち東海道筋では既に青年団、在郷軍人などと暴徒の間に争闘が演ぜられ、警備はいよいよ厳重になって来ました。日本人は闇の夜にも敵味方を知るために白鉢巻に腕章をつけ誰でも一々誰何して行く先を詰問し、何等の返事がない時は相当な処置をとったのです。」


「竹槍を振って鮮人2名を刺殺 鮮人の暴動鎮圧に参加した学生の帰来談」(『山形民報』1923年9月6日)

「〔宮城前広場で〕警備団の組織された2日から僕もその団員の一人に加入し竹槍を握って鮮人2名を突き殺した。此奴は獰猛な奴で市中を暴回って来たものらしい。鮮人の暴動がないなどというのは全然嘘だ。現に僕の如きは竹槍党の一人として奮戦したのであるから決して間違いはない。」


「50年の文化の夢 横たわる東京の骸」(『いはらき新聞』(1923年9月6日))

「〔4日、浅草〕仲見世の煉瓦店は1、2軒崩れ残っているだけ、出口の所に不逞鮮人の死骸がある。」

「街上でも車中でも 鮮人殺せの叫」(『いはらき新聞』(1923年9月6日))

「〔4日、三ノ輪で〕午前の10時頃であったろう、盛んに飛行機が飛ぶ下に群馬県だ栃木県だと胸章をつけた巡査に引率せられた消防隊、青年団が蟻の這うようにやってくる間に立って「ソレ朝鮮人だ、朝鮮人だ」とわめくものがあったと思う間もなく、パラパラと駆け寄る人の群に囲まれ、にくむべき鮮人1名が捕えられたるとともに、街道にあった何の箱だか大きな箱をかぶせて、その隙間から槍で突き殺すのを目撃した。全く白昼のこととしては嘘のような事実である。」


つづく



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