2024年1月26日金曜日

大杉栄とその時代年表(21) 1888(明治21)年3月~4月 各地に女学校創設の気運 三宅雪嶺ら雑誌『日本人』創刊 「市制」「町村制」公布 第2代内閣黒田清隆内閣成立

 


大杉栄とその時代年表(20) 1888(明治21)年1月~2月 漱石(21)夏目家に復籍 時事通信社創立 中江兆民「警世放言」(「東雲新聞」) 星亨ら秘密出版で投獄 大隈重信外相就任 一葉、家督を相続し戸主となる より続く

1888(明治21)年

3月

矢野楫子、元老院に一夫一婦建白を行う

3月4日

中江兆民「良・乱・勇・惰四民の分析」(「東雲新聞)。蘇峰(2月3日~)への反論。政治指導者(「勇民」)は士族もありえる。その支持者(「良民」)としての租税負担者(「田舎紳士」)。

3月14日

島田三郎(35)、横浜からシティ・オブ・リオデジャネイロ号で出航、欧米視察。22年8月24日フランス船イロワヂ号を神戸で郵船の薩摩丸に乗りかえて横浜港に帰着。

3月16日

徳富蘇峰(25)「国民之友」で許認可行政・天下りの弊害を指摘。

3月23日

北村門太郎(透谷)、石阪昌孝に書簡。「中等社会のくそ動物」、学者・愛国者・新聞記者・政党人・文学者を批判。

3月31日

社説「時勢の変化」(「女学雑誌」)。各地に女学校創設の気運。「年少女子が学に走るの鋭気は最早や制すべからず。」。


「明治二十一年春、(子規)満二十歳のときには、身長百六十四センチ、体重は五十二・五キロであった。当時の知識青年としては中背よりやや高く、体重は平均的で、明治二十二年から親しさを急速に増した友、夏目金之助(漱石)とほぼおなじ体格であった。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )


4月

坪内逍遥「小説 外務大臣」(「読売新聞」)~6月 

4月

バヴロフ、二葉亭四迷訳「学術と美術との差別」(国民之友)

4月

植木枝盛、3年ぶりに上阪。大阪では兆民が「東雲新聞」を発行。保安条例のため民権家は逮捕されるか東京追放となり、大阪が活動の中心になりつつある。

4月

後藤象二郎、福島で東北有志懇親会出席。大同団結訴える。7月、信越・東北地方遊説。秋田・青森にも赴く。8月22日帰京し、9月埼玉・群馬・神奈川を遊説。

4月

今村力三郎、代言人試験合格。9月、専修学校第7回卒業生総代(1等賞)として卒業。卒業講演「刑制論」を論じる。

今村力三郎:

慶応2(1866)年長野県上飯田村(現、飯田市)に鉢谷重造の長男として誕生。兵役逃れのため、今村むめ方に養子に入る。明治18年、一家は上京、神田猿楽町に店を構える。今村は大審院判事伴正臣の玄関番となり、専修学校に通う。明治19年当時、専修学校は神田今川に新校舎を設け夜間に開校。この年8月、文部省は私立法律学校特別監督条規を定め、専修学校はいわゆる東京「神田五法律学校」の一つとして帝国大学総長の下に置かれ、私立学校学生にも監督試験受験資格が与えられる。

4月

与謝野晶子(10)、宿院尋常小学校を卒業し、堺区堺女学校(現、大阪府立泉陽高等学校)入学。明治24年(1891)年卒業(13歳)。

前身は「女紅場」、のち「裁縫場」となり、明治17年1月小学校付属裁縫場となる。明治20年3月に堺女学校設立、同22年12月堺区が堺市となるに従い、「堺市立堺女学校」となる。翌22年頃(11歳)より10年余り、店の帳場に出て帳面を付け始める。また、文学と史学の書物を読み始め、三味線や筝を習い始める。11、12歳頃から「栄華物語」「大鏡」「増鏡」などの歴史物語、「源氏物語」「狭衣物語」「『宇津保物語」などの物語、随筆「枕草子」、奈良時代以前の歴史と文学の書、さらに17、18歳頃には鎌倉時代から江戸時代の文学と歴史の書に読み進み、「万葉集」「古今和歌集」、西行、李白、近松門左衛門、井原西鶴の作品に及ぶ。後には東京の兄秀太郎が送る「帝国文学」「しからみ草紙「史海」「文学界」などで森鴎外、田口鼎軒、樋口一葉、幸田露伴、尾崎紅葉、上田敏などの著作、更に20歳頃には翻訳文学まで読書範囲は広がる。

4月

4~5月、ロマン・ロラン(22)、哲学論文冒「真なる故にわれ信ず」を書く。ロランの思想の哲学的原型が成立。

4月3日

国粋主義を標榜して、三宅雪嶺、杉浦重剛、志賀重昂らを同人とする政教社が結成され、雑誌『日本人』創刊。時代思潮の主流を形成するようになる。政府の鹿鳴館にみる欧化政策と条約改正交渉の失態により、思想界には「国民主義」が台頭。翌明治22年2月11日陸羯南が「日本」創刊。

4月13日

上野に日本初のコーヒー店「可否茶館」が開店

4月13日

末広鉄腸(39)、横浜港からベルジック号で出航、アメリカからヨーロッパに向かう。船中でフィリピンの独立運動の志士リサールと知りあう。

4月25日

「市制」「町村制」公布。23年5月、「府県制」「郡制」が公布され、廃藩置県以後、大区小区制、三新法体制、17年の改正と試行錯誤を繰返した地方制度が確立。

国会開設に伴う国民の政治的活性化を阻止し、中央の民党勢力と地方を切断し、行政末端機構を確立するために制定。1889年4月より順次施行。市町村は法人となり一定の自治が与えられるが、上級官庁の規制をうける。市町村会議員選挙は財産制限制で等級選挙制が採用され、地方名望家支配を保障。大規模な町村合併が行われる。1947年地方自治法制定により廃止。

6月、内務省が訓令「町村合併標準」を出し、17年改正による町村連合体(連合戸長役場)を推し進め、町村合併による新町村成立を図る。資力ある「有力町村造成」が町村合併の基本的考え方とされるが、同時に「隣保団結ノ旧慣尊重」が強調され、二つの要求をどのように調和させ、町村合併を行うかが大きな課題となる。 

〈福井県の場合〉

5月、福井県庁内に新法取扱事務所が設けられ、李家裕二第1部長書記官が事務長に、塚本京太庶務課長・藤田秀睦議事課長・吉田信之文書課長・小野武次郎農商課長など6人が事務員に、久世正治属ほか1人が事務書記に任命され町村合併にとりかかる。7月5日、知事が郡長・戸長宛てに合併標準を内示(一、人口が多く相当の資力があり独立自治の目的を達することのできる町村は合併しない。一、合併は、地形・民情・資力を勘案し300~500戸を標準とする。一、現今の戸長所轄区域で地形・民情において差支えのないものはそのまま合併。一、人口稠密の市街地は全市街を1町とする。一、合併町村の新名称選定はその土地の慣称・民情を斟酌し、大村名、数村名の参互折衷、或は郷庄名を選定。一、 町村合併時は、町村の財産・負債処分は各町村の協議により、県の認可を請ける)。また、同5日には「有力町村区域構成方取調」が通牒され、郡長・戸長は派遣された県官と町村合併について十分に審議し意見を陳述すること、県官は実地踏査をし、町村会や土地の事情に通暁した者に諮問することがあるとする。この二つの内示・通牒により、町村合併の具体的作業が本格化。町村合併案は、県の意向をうけて郡役所が作成、それを戸長ら地域有力者に諮問される。

遠敷郡の場合。

8月2日、郡内を11町村とする合併原案が小浜小学校で戸長・連合町村会議員などに提示。この原案は、戸長等の意見を参考にして修正され、半月後に13町村に変更された第2次案が作成され、郡内各町村へ配付。8月中~下旬、第2次案の町村毎に「町村自治区域諮問会」が開催。第2次案で1新村とされる無悪村外6ヶ村と安賀里村外7ヶ村では、19日に「町村自治区域諮問会」が、高木・久世の両県官や郡吏及び戸長・村会議員・総代・「名望人」が出席して開かれる。そこでは第2次案に瓜生・関を加えるか、又はこの2村を加えた上で2新村に分けるという二つの修正案が出され、村名・役場位置についても意見が出された。下旬、熊川村外7ヶ村と井ノ口村外6ヶ村の内の井ノ口・市場・三宅・仮屋の計12村総代などが出席した「町村自治区域諮問会」が開催され、ここでも熊川村外7ヶ村内の脇袋村からは熊川村との分離が、井ノ口村外6ヶ村内の三宅村からは井ノ口村外6ヶ村戸長役場所轄区域での町村合併が主張される。

坂井郡の場合。

町村合併審議の為の町村連合会が設立され、郡下10村前後で議員1人を選挙し選ばれた議員35人が、7月12日、三国町勝授寺に会同し、徳山繁樹坂井郡長が議長となって坂井郡を23町村とする合併案を審議。議論は2週間にわたり、坂井郡町村連合会として町村合併案を作成(具体的内容は不明)。

この段階での福井県の町村合併案の特色は、政府が打ち出した300~500戸という「有力町村造成」規模を上回る町村合併を計画していたことで(坂井郡、遠敷郡にこの傾向強い)、福井県は「自治」を担う町村の財政基盤を強固にすることに重点を置いていたと思われる。しかし、地域有力者の民意を問う「町村自治区域諮問会」や町村連合会が全域で開催される過程で、実際の合併区割りが提示されると、用水・共有山・役場位置などの地域利害(「隣保団結ノ旧慣」)の噴出を無視でず、合併規模縮小をはからざるをえず

9~10月、県の新法取扱事務所は合併案の取纏め作業に入る。困難な作業を経て、11月上旬、県下を170町村とする合併規模の縮小された第3次案が作成され、知事裁決をうけ新聞紙上に公表(「福井新報」明21・11・6~16)。坂井郡は23町村が28町村に、遠敷郡は11町村が17町村に、吉田郡は10町村が15町村になる。県は「有力町村造成」より「隣保団結ノ旧慣尊重」を優先。尚、第3次案はその後も合併規模縮小が行われ、翌22年2月16日、1市9町168村からなる市制、町村制の施行区域と市町村名が確定、4月1日からの施行が発表される。

4月29日

北村透谷、野津田の石阪昌孝邸を訪問。22日、美那・ヤマ・登志、それに吉倉汪聖とともに百草園に遊ぶ。

4月30日

伊藤内閣崩壊。第2代内閣黒田清隆内閣、成立。枢密院が設けられ、議長に伊藤博文が就任。

4月30日

漱石の父直克、塩原昌之助とかつに「爾後交際出入等一切御断及候」という文面を含む証書入れる。


「これは夏目金之助が塩原昌之助宛に入れた「一札」を見て、不測の華態にそなえたものであろう。(推定)」(荒正人、前掲書)


4月30日

漱石の三兄和三郎直矩(妻ふじと離婚)、水田登世と再婚。

直矩の最初の妻は、牛込南榎町の士族朝倉景安の二女ふじといい、1887(明治20)年9月3日、満16歳で直矩に婚姻入籍したが、わずか3ケ月で離婚。

一方、水田家は苗字帯刀を許された裕福な深川の町家だったが、安政大震災後、芝愛宕下に移住して、愛宕権現の祠官になった。漱石の父夏目小兵衛直売と登世の父水田孝蓄とは警視庁に出入りするうちに知り合うようになり、父親同士の話でまとまったという。


つづく



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