2024年3月15日金曜日

大杉栄とその時代年表(70) 1892(明治25)年7月1日~16日 漱石、文科大学貸費生(年額70円) 漱石・子規の京都旅行(後半、漱石は岡山へ、子規は松山へ)、帰途に再度京都へ 一葉、花圃の仲介で『都の花』への小説掲載決まる 「松山競吟集」第1回   

 



1892(明治25)年

7月

北村透谷「徳川氏時代の平民的理想」(「女学雑誌」)

7月

漱石、文科大学貸費生(返還義務あり)となる。年額70円。

しかし、漱石は、英文学研究に対する漠然とした不安と疑問を抱いていた。


「私は大学で英文学といふ専門をやりました。其英文学といふものは何んなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だつたのです。其頃はヂクソンといふ人が教師でした。私は其先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作つて、冠詞が落ちてゐると云つて叱られたり、発音が間違つてゐると怒られたりしました。試験にはウォーヅウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シエクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、或はスコツトの書いた作物を年代順に並べて見ろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像が出来るでせう、果たしてこれが英文学か何うだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とは何ういうものだか、是では到底解る筈がありません。(中略)兎に角三年勉強して、遂に文学は解らずじまひだつたのです。(中略)  私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になつたといふより教師にされて仕舞つたのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、何うか斯うか御茶を濁して行かれるから、其日々々はまあ無事に済んでゐましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚なら一そ思い切りが好かつたかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでゐるようで堪らないのです。」(「私の個人主義」)

7月

漱石、藤代禎輔(素人)・立花銑三郎・松本文三郎らと共に、文科大学の雑誌「哲学雑誌」の編集委員になる。従来の「哲学会雑誌」の誌名を改め、「少し世間向の材料を加へようといふ方針になった」ので、文学専攻の漱石らがスタッフに加えられる。

7月

この頃、二葉亭四迷(28)と妻つね(未入籍、19)、本郷菊坂町81番地に転居。8月には神田仲猿楽町17番地(二葉亭の実家近く)に移る。

7月2日

犬養木堂(37)、横浜での民党政談演説会で尾崎行雄らと共に演説。

7月2日

アメリカ、人民党全国大会,オマハで開催.綱領採択。ジェームス・ウィーバーを大統領候補指名。ウィーバー、百万以上票獲得、ポピュリズム運動、ピークに達する。 

7月4日

韓国政府、日本の防穀損害14万円要求に対し6万余円が妥当と回答。日本側拒否。

7月5日

清国、ドイツへの借款返済用として韓国に10万両を貸与。

7月6日

伊沢修二、小学校教育費の国庫補助を要求する運動のため、国立教育期成同盟会の結成を提案(10月29日発足)。

7月6日

カーネギー製鋼会社のホームステッド工場、5ヶ月にわたる大規模なストライキ。流血事件に発展する。

7月7日

漱石と子規の京都旅行。夏休みを利用して初めての関西旅行。

7月7日 新橋停車場発。

8日 七条停車場着。柊屋(京都市中京区麩屋町御池通り下ル)に宿泊。夜、清水寺などを観光。

9日 比叡山に登り、川魚料理屋平八茶屋(京都市左京区修学院)を訪ねる。柊屋に泊る。 

10日 大阪に向かう。

その後、

10日 子規は漱石と別れ松山へ帰郷。漱石は岡山に向う。

11日 漱石は岡山に着き、嫂(次兄直則の妻)小勝の実家片岡家に3週間滞在したのち松山に向い、

8月29日 帰途もう一度京都に立寄り1泊。

京都では二人は麩屋町の柊屋という旅館に泊った。夜、街を見物に出る。子規が買って来た夏みかんを食べながら、人通りの多い街を行くうちに2人は遊郭にまざれこんだ。漱石は、幅1間ほどの小路の左右にならんだ家の覗き窓から、女が声をかけているのがなにを意味するのか気がつかずにいた。漱石が、「なんだこれは」と問うと、子規はこともなげに「妓楼だ」と答えた。当惑した漱石は、制服の裾をつかまえられたら一大事と思い、「目分量で1間幅の道路を中央から等分して、其の等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に」歩いた。そんな漱石を、子規は苦笑して見ていた。


〈『京に着ける夕』(明治40年、漱石40歳)に記された子規との京都旅行〉

漱石は、朝日新聞入社が決まった40歳の時、京都の狩野亨吉(京都帝国大学文科大学学長)に招かれて京都を訪れている(明治40年3月28日~4月12日)。この京都訪問のことをを書いた随筆に『京に着ける夕』があるが、文章の大半は子規と訪れた初めての京都の印象である。

漱石は合計4回、京都旅行をしている。2回目である明治40年の旅行は、6月から新聞連載を始める虞美人草の京都取材をするためであった。


「子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行いたことを記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えといって余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥いて、一房ごとに裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間にやら幅一間ぐらいの小路に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしという声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしという。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕まえそうに烈しい呼び方をする。子規を顧みて何だと聞くと妓楼だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に練って行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。膝掛をとられて顫えている今の余を見たら、子規はまた笑うであろう。しかし死んだものは笑いたくても、顫えているものは笑われたくても、相談にはならん。

(略)

 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜の月円きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明かならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅灯に夢のごとく柔かなる空想を縦ままに酔わしめたるは、制服の釦の真鍮と知りつつも、黄金と強いたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸のまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔いて新聞屋となる、余は尻を端折って西国へ出奔する。御互の世は御互に物騒になった。物騒の極子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかというだろう。新聞屋になって、糺の森の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。」

「細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒の夜を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。

 桓武天皇の御宇に、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやすからぬ歴史上の疑問である。しかし赤いぜんざいと京都とはとうてい離されない。離されない以上は千年の歴史を有する京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ。ぜんざいを召したまえる桓武天皇の昔はしらず、余とぜんざいと京都とは有史以前から深い因縁で互に結びつけられている。始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋とかいう家へ着いて、子規とともに京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故なにゆえかこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食ったことがない。実はぜんざいの何物たるかをさえわきまえぬ。汁粉であるか煮小豆であるか眼前に髣髴(ほうふつ)する材料もないのに、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻のすみやかなる閃きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜のごとく干枯びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首をちぢめて京都を南から北へ抜ける。」

夏目漱石『京に着ける夕』(青空文庫)

「夏目漱石「京に着ける夕」論 ―寄席・落語に始まった子規との交友―」

7月7日

フィリピン、リサール、ダピタン島へ流刑。夜、独立革命をめざす秘密結社カティプーナン結成。 

7月11日

吉川英治、誕生。

7月12日

司法官弄花事件。大審院懲戒裁判所、判事懲戒法による懲戒訴追。証拠不十分で免訴。児島惟謙ら大審院判事6名の花札賭博。

7月12日

一葉(20)は、田邊花圃宅を訪ね相談し、花圃の周旋で金港堂の『都の花』に作品を出すことになる。一葉は、早速「うもれ木」執筆に取り掛かる。約1ヶ月で書き上げるつもりであったが、肩凝りと頭痛に悩まされ、完成が長引き、8月4日、花圃宛に詫びの書簡を送る。

7月12日

一葉、中元の挨拶に桃水を訪ねる。「もの語ることもなくて帰る」(「日記」)。

7月12日

桃水は、7月12日、本郷西片町の家を引払い、神田三崎町煉瓦街に転居し葉茶屋「松濤軒」を開き、8月6日弟茂太に茶1筒を持たせて開店のしるしに一葉宛て届けさせる。

7月14日

イタリア、労働党結成。

7月15日

午後、延齢館(高浜町)で子規・虚子・碧梧桐が集って、句会競吟五題(「松山競吟集」第1回)を催す。

7月15日

英、総選挙で保守党敗北。自由党ウィリアム・グラッドストン(83)、4度目の内閣組織。

7月16日

弄花事件の「徳義上の問題」追及の声。この日付「日本」は、児島ら被告側と、松岡・三好らにも仲間内の談話を法定外の自白とする陰険さと司法官の権威・裁判の信用を失墜させたとして、速やかな出処進退明確化を勧告。14日付け「国民新聞」もほぼ同様。

7月16日

漱石、小勝の再婚先の岸本庄平(岡山県上道郡金田村、現・岡山市西大寺金田)を、小勝の弟亀太郎と共に人力車で訪れ、19日まで滞在。小勝の再婚を祝うため、祝品として銚子縮を持参する。

19日朝、金田村から岡山市に戻る。

岡山は亡兄臼井栄之助の妻かつ(小勝)の実家片岡家のあるところ。漱石の岡山訪問の目的は明らかでない。臼井家はかつの実弟亀太郎が継いでおり、片岡・夏目両家の交際は、栄之助の没後かつが岡山に戻ってからも円満に続いていた。

7月16日

島崎藤村(20)、箱根で開催の第4回キリスト教夏期学校に出席(~27日)。


つづく

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