大杉栄とその時代年表(194) 1896(明治29)年6月8日~10日 漱石、熊本の借家で結婚式 山県・ロバノフ協約 原敬(40)、外務次官→特命全権公使(朝鮮国駐箚) より続く
1896(明治29)年
6月11日
三木竹二が再度来訪。
「十一日 早朝、三木君来訪。「合評会の日どり取きめばや」となり。我れはたしかに「入会す」ともいはざりしを、一人ぎめして、「露伴も兄も其日を楽しみに待わたるなれは、かならずともに出席給はれ。まづ幾日にせばや。この十三日か、次の土曜日か、両日のうちにて御都合よき日になさはや」といふ。我れに出る心なければ、「何方(いづれ)にても」といふに、「さらば十三日と極め申べし。午後一時より千駄木にて」と、いひいひかへる。「いとく佗しうもあるかな。こゝかしこより、入会、出席などの事いひ来るに、こゝへ計出る事いかならん。今「白ゆり」よりも人来たらんとするを、いかにせはや」と母君、国子と相集りてかたる。「ともあれ、文たゞちに出して断りいはんには」とて、千駄木森君のもとにあて、文したゝむ。何事なしに、たゞ「臆病ものなれば、御はれがましき蓆(むしろ)の恥かしうて」とのみをなりけり。」
*「白ゆり」;長田秋濤と久米桂一郎が中心になって、フランス文化の紹介と啓蒙のために明治29年5月1日に創刊した雑誌。6月7日第2巻を出したのち廃刊。執筆者は仏文学者・美術関係者が多い。
(十一日。早朝、三木氏来訪。合評会の日どりを決めたいとのこと。私ははっきり入会するとも言わなかったのに、独り決めして、
「露伴も、兄鴎外も、その日を楽しみに待っているので、必ず出席して下さい。まず何日にしようかつこ
の十三日か、次の土曜日か、このうちご都合のよい日にしよう」
と言う。私は出席する気持ちはないので・
「どちらでも」
と言うと、
「では十三日と決めよう。午後一時から千駄木の兄の家で」
と言いながら帰る。
次第に侘しい気持ちが湧いてくるのでした。あちこちから入会や出席など持ちかけて来るのだが、ここへだけ出るのはどうだろうか。近いうちに「白百合」からも訪ねて来るというのを、どうしたものかと母上や邦子と一緒に話し合う。ともかく「めざまし草」の方には、すぐ手紙でお断りしようと思って、千駄木町の森氏宛に書く。他の事は書かずに、ただ、「臆病者なので、晴れがましい場所には恥ずかしくて」とだけを書く。)
6月14日
神田三崎町に川上座完成。川上音二郎。
総工費25000円、木造とレンガ作りの3階建て。工事は難航し、上棟式は建築許可から約2年後の1895年(明治28年)3月3日。落成式はこの日、1896年(明治29年)6月14日に行われ、鮫島員規海軍少将、奈良原繁沖縄県知事、西園寺公望、井上勝、金子堅太郎の代理人など3000人近くが招待された。
川上座の総坪数は212坪。収容定員は桟敷席が150人、平土間が572人、大入場354人。料金は桟敷席60銭、平土間など30銭、三階席10銭。茶屋の手数料は一等15銭、二等10銭。
劇場には多くの不備があった(冷暖房設備が無いため冬季は劇場内の冷え込みが厳しい。観客席に傾斜を設がなく、舞台が見づらくい、など)。
翌7月、川上座は開場、こけら落としは大入りだった。しかし劇場の経営は火の車であった。他の劇場よりも規模が小さく、収容人数が少なく、営業収益は伸び悩んだ。結果、総工費25,000円が川上の借金として残り、利子の支払いにも困窮するようになる。
早くも同年1896年12月7日には競売に付され、地主から地代も滞っているため劇場を取り壊すと提訴された。川上は翌年1897年(明治30年)に株式会社発起認可を得て、川上座は改良演劇株式会社の名称で劇場を株式会社組織に変え、債権者への返金を進めながら劇場経営を継続することを提案して示談が成立した。しかしその後も経営状態は思わしくなく、川上は1898年(明治31年)に所有権を手放すことになった。
6月15日
馬良集事件。~29日迄。大刀会指導者劉士端、安徽省碭山県寵家林の大刀会頭目寵三傑を支援するため救援隊数千を派遣。この日、大刀会の軍勢、単県や馬良集の教民の家を襲撃。
21日~25日、単県・豊県の洋学堂・教会を焼き信者を襲う。
29日、馬良集で塩店掠奪、緑営兵の役所襲撃。
背景:捻軍の乱(1868年8月終結)を避けて14年間土地を離れていた旧地主(劉藎臣)らは、乱後、土地を取り戻そうとするが客戸(寵三傑ら)が居座る(所有権・占有権の争い)。1890年代半ば、劉藎臣ら旧地主は天主教に入り、その政治力で客戸の不法占拠を追払おうとする。これに対抗するため、寵三傑は大刀会に入り、師父を招き、道場を設け、自ら首領となる。ここに土地争いは、教会・大刀会の対立に転化する。
6月15日
三陸地方、大津波(明治三陸地震津波)。マグニチュード8.5、地震発生から約30分後に三陸沿岸に大津波来襲。死者行方不明2万1959(岩手県の死者約18,000)、家屋流失全半壊は1万以上。津波の高さは綾里(岩手県大船渡市)で38m超
〈内閣府防災情報 広報「ぼうさい」より〉
「1896年明治三陸地震津波
明治29年6月15日(旧暦5月5日)、朝からどんよりとした、小雨が降ったりやんだりした日であった。三陸地方の村々は、前年の日清戦争の勝利を祝うべく、凱旋兵とともに端午の節句の日を過ごしていた。午後7時32分頃、人々は地震の揺れを感じた。現在の震度にしてⅡ、Ⅲであると思われる小さなものであったようだ。緩やかな、長く続く地震動であったが、人々はいつものこととさして気に留めることはなかった。この約30分後に巨大な津波が不意に来襲し、我が国の津波災害史上最大の、2万2千人にのぼる死者を出した津波災害となる予兆であるとは誰も思わなかった。
地震の規模の割に非常に大きな津波を引き起こす地震を「津波地震」と呼ぶが、明治三陸地震津波はこの「津波地震」により引き起こされた津波であったと言われている。明治三陸地震津波は、津波そのものの大きさもさることながら、津波来襲の警笛となるはずの地震動が小さかったために、その被害は拡大したといわれている。
津波の来襲状況と人的被害
津波の来襲状況について、三陸津波誌には次のように書かれている。
「午後七時頃地震があった。強くはなかったが震動時間が長かった。十数分過ぎてからまた微震があって、それが数回続いた。海岸では潮の引くべき時間でもないのに引き潮があった。それからまた潮がさし、しばらくたって8時20分頃海の方から轟然と大砲のような響きが聞こえた。しかし、人々は軍艦の演習くらいに思い、気に留める者もいなかった。まもなく、すごい音響とともに黒山のような波が耳をつんざくばかりに怒号し、一瞬の間に沿岸一帯あらゆる全てのものを流しさってしまった」。
津波は青森県から宮城県にかけての太平洋沿岸を襲い、最高で38メートルもの打ち上げ高が記録として残っている。」
6月15日
一葉に小芙蓉雑誌社から、雑誌「小芙蓉」への寄稿依頼。
6月17日
一葉に宛てて、小学校教員樋口勘次郎からの手紙。教科書改良に力を貸して欲しいと依頼。取り敢えず直接事の詳細を聞くと返事を出す。
戸川残花からの依頼で、この2月に焼失した明治女学院の再開のための慈善壱に出すための扇面や短冊を書く。
「かばかり教育に熱心なる人が辞を低くして頼んでいるのに、肯わないのも本意ないことである。自分にできる事があるかないか、話を聞いてみてから」と考え、返事を書いた。
それを読んで喜んだ樋口は、19日、6月23日の午後伺うとの返事をよこした。
戸川残花からの依頼で、この2月に焼失した明治女学院の再開のための慈善壱に出すための扇面や短冊を書く。
6月18日
高野房太郎(27)乗船マチアス号、横浜寄港。~8月1日。この間、未払給与32ドル60セント残し脱艦。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿