大杉栄とその時代年表(282) 1900(明治33)年3月28日~31日 長塚節が子規を訪問 衆議院議員選挙法改正 スウェン・ヘディン、楼蘭の遺跡を発見 より続く
1900(明治33)年
4月
下旬、義和団運動、3地方(①淶水:盧保線沿線、②天津:京津線沿線、③北京)から同時多発的に急速発展。
義和団運動の概観
〈義和団各集団の概観〉
義和団は、各地の拳法集団の運動・闘争が収斂した段階での運動の総称。個別の拳法道場集団としては、大刀会、梅花拳、神拳などがある。
1.大刀会
大刀会のリーダは、劉士端(りゅうしたん)。劉士端は、白蓮教の武術家であった趙金環が郷里に逃れてきたのを機に、趙金環に師事して武術の稽古に励んだとされる。
劉士端は、地主の息子で文武両道を目指し、武術の稽古と科挙試験に向けての勉学に励んでいたが、科挙の方では芽が出なかった。それでも科挙制度の中では郷士の受験資格は持っていた(科挙制度の県試の合格者資格を持っていた)。
2.梅花拳(梅花椿)
梅花拳は、少林拳の系統で、少林七十二芸の内の一つであるという。
梅花拳は河北省の威県に伝わっており、その18代目の道場主は、趙三多(ちょうさんだ)という梅花拳の達人であった。
清朝末、教民と呼ばれるキリスト教徒と、地方の地主や農民との間で軋轢が生じていた。アヘン戦争以降、清朝政府は欧米列強に大幅な譲歩をしていて、地方官よりも、天主教の神父の方が強い権力をもっていた。また、列強各国の公使などでは外交官特権によって無法を働いても、清朝政府は裁く事も出来ず、賄賂も横行していた。
こんな時、立ち上がったのが18名からなる義侠心のある義侠たちで、彼らが天主教を懲らしめようと動くと、清朝政府は、この侠客たちを逮捕してしまった。この十八魁と呼ばれた18名を取り返す為に、立ち上がったのが、梅花拳の道場主であった趙三多であった。
伝統ある梅花拳は、義和拳と名称を改めて、義和団事件の当事者になってゆく。名称を「梅花拳」から「義和拳」に改めた理由には諸説があるが、梅花拳の名称のまま、反乱事件を起こせば関係のない梅花拳の関係者にも迷惑が及ぶとして改称したとされる。
3.神拳
神拳は、別名「少林神打」とも呼ばれる拳法で、歴史的には新しく、この清朝末、日清戦争で日本に敗れた後に、朱紅灯(しゅこうとう)という人物が起こした拳法であった。
日清戦争に敗北し、人々は清朝政府に失望した。清王朝内には賄賂などの不正が蔓延り、治水工事をしなくなっていた。加えて、日照りが続き、更には大雨に見舞われ、黄河流域では大被害が出ていた。
日照り、旱魃、大洪水といった天災が続き、人々は困窮状態にある中、神拳の朱紅灯というリーダーの元へ貧しい者たちが集まってきた。
朱紅灯は、山東省の長清県の生まれ。子供の頃は「小朱子」(シャオジュウツ)という愛称で呼ばれえていた人気者の少年であったという。しかし、家は貧しく、学もなく、伯父の家に身を寄せたのは、32歳の時であったという。昼間は伯父の手伝いをしながら、夜間は地元にあった神拳の道場に通っていた。
朱紅灯は、長身で体格もよく、丸顔で色黒、そしてどこか上品な顔立ちをしていたという。声は「雷のよう」であったというが、誰からも好かれる人気者であった。
朱紅灯は、一般の地主と教民(キリスト教徒)との間の借地契約を巡るトラブルに介入した。清朝政府が絡む裁判に持ち込んでも、清朝政府は教民に有利な裁定をするに決まっているため、相談を受けた朱紅灯は、自らが神拳を率いてキリスト教徒征伐を始める。
朱紅灯は「大紅風帽」(真紅の長いフードを背中に垂らし、真紅のズボンをはき、紅い旗を掲げ、馬も紅い布か何かをまとって、刀槍を手にして)、決起した。紅い旗には「興清滅洋」と大きく書いてある。彼等は、官兵(清朝軍)と対峙した。
〈農民が義和団に参加した理由〉
(1960年義和団60周年に際して山東大学教師が土地の老人80人から聞取り調査)
①「私塩の販売」:山東荏平県呉荘で神父が、禁じられている私塩を製造して捕われた農民を救出し、以降、教民(キリスト教徒)の塩製造が許される。人々は入教する。
②「家屋の脅迫占拠」:ドイツ聖教会指導者アンツァー神父、山東の荷沢県で民間人の食堂を騙し取り教会を建てる。土地・家屋の騙し取りは数多く報告される。
③「苛政を利用」:役人の暴政から逃れるには入教するがよいと勧誘。
④「宣教師の訴訟への関与」:占拠を逃れても、教会は役人に訴え、教会が必ず勝つ。役人は教会を恐れ、協会は役人に命令する。
⑤「農民の貧困を利用」:教会の慈善事業の恩恵をうけるため、貧しい人々は入教。
⑥「洋人への恐怖」。
⑦「内政干渉ー外交的圧力」:教民・平民の争いで教会を壊したり放火したりすると、これを大げさに言いたてて賠償金を要求。
〈義和団発展過程の4段階〉
①1895/春~98/5、大刀会中心の時期。
②98/後半~99/末、大刀会・紅華拳・義和拳が夫々単独で。
③99/末~00/5、義和拳・義和団が多くなる。
④00/5~、義和団が一般的になる。
1895年3月3日 韓楼教会攻撃未遂事件
大刀会の劉士端、曹得礼らが単県知県(県知事)と共同で盗賊団を征伐したところ、盗賊団が韓楼の天主教の教会へ逃げ込み、教会はこれを匿う動きを見せる。この時代、天主教は信者を増やす為に、しばしば無頼の徒を受け入れていた。また、天主教は特別に優遇されており、地主・農民たちと天主教教民)との間のトラブルが絶えず続いていた。
大刀会の劉士端、曹得礼は、韓楼教会を攻撃しようとしたが、曹州地府(曹州府の長官)毓賢(いくけん)が、単県県城(単県県庁)に乗り込んできて、劉士端、曹得礼、単県地県を説得した。これにより、大刀会は教会の包囲を解いて退散した。
1896年 東湍事件
安徽省碭山県(とうざんけん)東湍(とうたん)では、以前から土地の所有権・占有権の問題で、劉盡臣(りゅうじんしん)という人物と、龐三傑という地主との間で揉め事があった。劉盡臣が天主教に入信すると、劉盡臣は教会の威を借りて龐三傑が育てた麦を根こそぎ刈り取ってしまう等の嫌がらせをしていた。
龐三傑は自ら単県から大刀会の師匠を呼び寄せ、自らも武術を習得し、近隣の金鐘罩(きんしょうとう/拳法の秘術)の頭目となる。
東湍での龐三傑と劉盡臣との抗争が起こっていた。発端は劉盡臣による龐三傑の麦の刈り取りであったが、その後、龐三傑が教会への放火、また器物損壊を起こした。すると天主教会の宣教師は役所に賠償金を請求する。
やがて、龐三傑は、本場・山東省単県の大刀会(趙金環、劉士端の拳法の師匠)へ援助を要請する。
1896年6月 馬良集事件
援助要請を受けた劉士端は、数千人単位の大刀会の会員を、安徽省碭山県の馬良集へ援軍派遣する。
6月15日 劉士端の援軍が、単県や馬良集の教民の家を襲撃し、器物を破壊。
6月21日 単県で洋学堂に火を放つ。
6月25日 豊県で教会を火で焼く。
6月28~29日 龐三傑は約千名を引き連れて出立、塩を求めて塩店と対立し、塩を掠奪。その後も役所を襲撃する。
6月30日 大刀会の一部隊が政府軍・地主自警団と衝突、逮捕される。その後も、この教民勢力を覗いた二つの勢力が馬良集北部で激突し、30余人の幹部を含む大刀会員が逮捕される。
7月7日 曹州地府の毓賢(いくけん)は、この東湍事件から馬良集事件に到る一連の教会襲撃事件を検分して、山東の大刀会の頭目である劉士端の逮捕を命じる。劉士端は逮捕され、即日処刑される。
1897年4月28日 十八魁の教会襲撃
侠客の閻書勤をリーダーとする、十八魁と呼ばれる18名の侠客が、教会と対立する地主・農民を支援する形で冠県の玉皇廟前教会を襲撃し、教民2名の死者が出た。玉皇廟前教会を巡る対立は古くから存在し、教民らが村民らの玉皇廟の取り壊しを計画している為に起こった問題であった。この十八魁は1892年以前から天主教勢力と対立し、梅花拳に入会すると同時に梅花拳の趙三多に援助を要請してい。この時の襲撃は、趙三多の了解なしに実行された。
その後、山東巡撫は、フランス公使から圧力を受けて首謀者の閻書勤らを「お尋ね者」として手配する。囚われの身となった十八魁を救出する為、梅花拳の達人・趙三多が本格的に、この問題に乗り出す。これにあたって、趙三多は梅花拳を義和拳に改称する。
1889年10月3日 「助清滅洋」のスローガンを掲げる
趙三多は冠県蔣家壮で総決起大会を開催し、その際、幟旗に「助清滅洋」と記し、清朝を助けて洋鬼を滅するというスローガンを掲げる。背景には、平民らの反教会闘争があり、アヘンを以って中国の地を毒し、文明の利器なるもので人心をとろけさせ、農桑衣食の小民の生きる道を奪っているというメッセージが隠されていた。"
1899年3月14日 毓賢(いくけん)が山東巡撫に就任
毓賢は、かつては1895年の韓楼教会攻撃未遂事件では大刀会を解散させ、1896年の馬良集事件では大刀会の劉士端の逮捕、処刑に携わった。しかし、山東巡撫となった毓賢は、義和拳を強く取り締まらず、毓賢の山東巡撫体制の下で、義和拳は勢力を拡大してゆく。
1899年4月 神拳が本格的な反教会闘争を展開し始める。
長清県で神拳の道場に通っていた小朱子が神拳の頭目である郎宣清に呼び出され、黄河を渡り、斉河県の郎荘へ向かう。そこで、小朱子は郎宣清から神拳の総大将となって反教会闘争を指導するように依頼される。小朱子は、朱紅灯(しゅこうとう)に改称し本格的な反教会闘争を展開し始める。
1899年5月17日 義和拳の頭目である趙三多が、河北、山東の有力な武林の領袖たちを集め、この日に「義和拳」の名称を「神助義和拳」に改称する。
また、この頃、朱紅灯の神拳の道場が荏平県で急速に拡大する。荏平県の860余の村のうち、拳法道場がある村は800余村にも及んだという。各地の神拳の道場主たちは朱紅灯と、その朱紅灯の師匠である本明和尚を最高指導者とした。
1899年10月11日 岡本李荘の戦い
紅旗を掲げた神拳の勢力は1500名程度の大部隊になっており、「興清滅洋」をスローガンにしていた。
この神拳はすでに4件の教会襲撃事件を起こし、この日(10月11日)、岡本李荘で、平原県の知県である蔣楷が率いる部隊を襲撃した。蔣楷率いる官軍は鉄砲を装備していたが、神拳勢力に包囲され、蔣楷は逃亡、官軍は総崩れとなった。
この戦いでは、朱紅灯に傾倒している齢70歳と伝わる里長の李長水が蔣楷軍に勝利したので、彼は一躍、注目を集めたという。李長水は、かねてより抗争を抱えていたところ、朱紅灯の神拳道場に入り、その年齢から神拳を習い始めた人物であった。
齢70過ぎの里長であった李長水率いる神拳の一団が、官軍を蹴散らした事で、神拳の人気に火がつき、近隣の天主教教民に恨みを持っている人々が神拳に参加したいと殺到する雪崩現象を惹き起こしたという。
朱紅灯率いる神拳は、岡本李荘の戦いの延長線上で、更に官軍20余名を殺害し、30余名を負傷させる。その後、神拳の構成員は官軍に捕まるが、山東巡撫の毓賢は、全て釈放するように指示を出した。この頃、この拳法を武器にして反教会闘争を続ける勢力を、刀匪もしくは刀匪ならぬ拳匪としてみる地方官もある中、毓賢は匪賊と判断せず、良民による正規の闘争行為と判断していた。
また、毓賢は「刀匪」(拳匪)という呼称を「民団」に変更するよう指示を出した。これにより、神助義和拳、神拳、大刀会などの集団の呼称が「義和団」で統一されたとする説が有力である。
1899年11月15日 この日、神拳勢力は荏平県の張荘教堂を襲撃する。教堂側は銃撃でもって神拳勢力を迎え撃つ。神拳勢力は教堂を包囲し、火を放つ。教堂には火薬庫があり、その火薬庫に引火し、教会の建造物16棟、及び教民の家180軒まで火が広がり、教堂は陥落。神拳勢力は、教堂を破壊しつくし、掠奪しつくした。
1899年11月17日 張荘教会襲撃で得た掠奪物資の分配を巡って、博平県の華岩寺で内輪揉めが発生。朱紅灯は、この際に頭部の複数ヵ所に怪我を負い、部下2名に連れられて5里ほど逃亡。しかし、その2名の部下の裏切りによって「官兵に売られる」。
1899年11月21日 朱紅灯の師匠である本明和尚も高唐県の楊荘で逮捕される。
1899年12月24日 朱紅灯と本明和尚は処刑される。
1899年12月25日 義和団への対応を誤ったとして毓賢は山東巡撫を馘(くび)になり、この毓賢の後に山東巡撫に就任したのが袁世凱であった。
つづく
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