1900(明治33)年
10月
与謝野晶子「やわ肌の あつき血しほにふれも見で さびしからずや 道を説く君」(「明星」10月号)。
11月8日付の河野鉄南宛の晶子書簡、「じつさきに御質問にあひしやわはだの歌何と申上てよきかとおもひて今日になりしに候梅渓様もかの歌に身ぶるひせしと申越され候をかしこのゝちはよむまじく候兄君ゆるし給へ」と記す。「君」を鉄幹、鉄南、鉄幹の兄和田大円、或いは不特定の道学者という説がある。論議はともかく、道学者に対する「誇示」もしくは「思わせぶり」が灰見えると晶子は反省したかもしれない。しかし、この革新的な詠法は自我の解放を詠むそれに繋がるもの。
10月
英総選挙(カーキ選挙)。保守党と自由統一党が、前回に続いて大勝。
10月
スペイン、保守党のアスカラー内閣成立。
10月1日
西太后ら、西安へ出発。
10月1日
逓信省、郵便規則(9月1日公布)を施行。
10月1日
漱石、セイロン島コロンボに入港。
2日 コロンボからアデンに向う。
「十月一日(月)、晴、一時雨。朝六時にセイロン島を右に十二時頃、はるかに Colombo (コロンボ)の市街みえる。昼食後、投錨する。インド人が案内しようと船中に来る。インド政庁を過ぎて、二百メートルほど行った British India Hotel (イギリス領インドホテル)に案内される。余り上等ではない。小憩の後、馬車で七マイル(十一・三キロ)ほど行き、寺院、「砂利塔」(舎利塔)を見る。寺院では、花を押売りする少女に逢う。子供たちに両替した小銭を撒いてやっても追って来るので、ステッキを振りあげる。(藤代禎輔)「亡國ノ民ハ下等ナ者ナリ」(「日記」) バナナやカカオの実が樹木に熟している光景を面白いと思う。一巡したあと観覧料一人二十五セントを払う。来観者名簿に一行の名前を日本字で記入する。寺院を出て、半里(二キロ)ほど歩くと小雨降る。肉桂園に行く。この頃、雨止む。案内者、肉桂の枝を車上に挿頭す。博物館に行ったが、修理中である。 Victoria Park (ヴィクトリア公園)に行く。音楽堂がある。近傍の展塑よい。公園を出て、停車場を過ぎ、市街に入る。兵営・仏寺を経ても中国人商店一軒もない。六時半、 British India Hotel でライス・カレーを食べ、七時、小艇で帰船する。現在、スリランカ共和国。当時はイギリス領インドの一部分であった。
十月二日(火)、朝から驟雨。甲板でインド人手品師・コブラ使い来て演じる。インド商人は、宝石・象牙細工を売る。銭拾いの小舟集る。午前十時三十分出航する。前夜、ドイツ汽船が兵卒・士官二千五百名を乗せて入港する。出港に際して Preussen 号と互に呼応する声はすさまじいものである。コロンボからアデンに向う。夜、雨降る。」(荒正人、前掲書)
漱石の日記
「British India Hotel というところに至る。結構大ならず、中流以下の旅館なり。」(10月1日)
芳賀矢一のコロンボについての感想
「〔コロンボの〕市街の繁栄は上海に同じ。然れども家屋の宏壮なるもの少し。地勢広濶なるを以て香港の如き高楼を築く必要はなきなるべし。大体の様子は新嘉坡に似たりというべし。然れどもその整頓せるは新嘉坡に過ぎたり」
10月2日
ロシア、瀋陽を占領。
10月2日
清国皇帝、天皇に和局締結のための斡旋依頼。
10月2日
内務省、娼妓取締規則を公布、娼妓の自由廃業を認める。救世軍・「二六新報」などによる娼妓自由廃業運動に対処。
10月3日
~7日 船上の漱石
「十月三日(水)、晴、風あり。夜、風雨激しい。
十月四日(木)、晴、風あり。午前、甲板の椅子で読書中 Mrs.Nott (ノット夫人)に呼びかけられる。明日、午後のお茶に招待される。「夜月色玲瓏海波を照し好景寝に就き難し」(芳賀矢一「留學日誌」)
十月五日(金)、晴。風波全く無し。午後三時半、 Mrs.Nott (ノット夫人)を上等船室に訪れる。夫人の知人を紹介されて、会話が上手だとほめられる。夫人の早口には悩まされる。 University of Cambridge (ケンブリッジ大学)関係の人への紹介状を依頼する。イギリスに着いてから Dean of Pembroke College,Cambridge (ペンブルック・カレッジ副校長) Andrews (アンドルーズ)へ紹介状を書くことを約束する。午後五時半、自室に帰る。
十月六日(土)、二、三日風波平穏。「雲ノ峰風ナキ海ヲ渡りけり」と詠む。正午の榜示板にコロンボから千三百四十一マイル(二千百五十八キロ)と示される。午後、喫煙室でアメリカ人の医者と話していると、 Mrs.Nott (ノット夫人)が部屋の外で、『聖書』を小脇に挟んで立っている。部屋を出て彼女に会う。(紹介状を書くため、留学目的と専攻分野をたずねる)毎日、半時間ずつ会話を教えてもらうことを約束する。夜、藤代禎輔(素人)・芳賀矢一と甲板で話し合い、十一時に至る。(芳賀矢一「留學日誌」)
十月七日(日)、午前、藤代禎輔(素人)・戸塚機智、甲板で芳賀矢一と共に、日曜礼拝に参加する。ドイツ人宣教師のドイツ語の説教を聞く。夜、「満月ニテ非常ニ美シ」(「日記」)十二時近くまで甲板を歩く。風も波もない。」(荒正人、前掲書)
10月4日
山県首相、辞表提出。伊藤博文と会見、後継首相受諾を要請。
10月8日
義和団事件に関しての第1回北京列国公使会議開催。仏提案を基礎に協議
10月8日
夜半、漱石、アデン着。翌9日からは紅海を北上。
「十月八日(月)、横浜を出発してからひと月めである。午後 Aden (アデン)に着く予定であったが、夜、十時頃、 Al'Aden (アル・アデン)に入港する。鏡に、「熊本にて逢ひたる英園の老婦人『ノット』と申す人上等に乗込居りて一二度面會色々親切に致し呉候此人の世話にて『ケンブリツヂ』大學に関係の人に紹介状を得候へば小生は多分『ケンブリツヂ』に可参かと存候」と手紙を書く。(アデン投函) Aden に停泊する。アラビア人、短艇で駝鳥の卵・羽毛や籠など売りに来る。十二時過ぎまで甲板にいる。月が美しい。
十月九日(火)、早朝、アラビア人、土地の産物売りに来る。午前九時三十分 Aden (アデン)を出航する。 Bab el Mandeb (バブ・エル・マンデブ)海峡を過ぎて、午後五時頃、紅海に入る。夜、明月である。」(荒正人、前掲書)
10月8日付けの漱石の妻、鏡子宛ての手紙。
「今日ハ十月八日ニテ横浜ヲ出発シテヨリ鳥(ママ)渡(ちようど)一月目ナリ。・・・・・昨夜は名月にて波も風もなく、十二時近く迄甲板に逍遥致候。今日ハ「エーテン」と申す処に着スル筈に候。是ヨリ紅海ニテ、砂漠ノ熱キ風が吹き来る中を通りて地中海に出る事に候。兎角する内には英吉利に着可致、思へば長き様な短かきものに候。
「毎々ながら西洋食には厭々致候。且海岸は小生の性に適せざる事とて、横浜出帆以来眼が余程くぼみ申候。然し別段の病気もなく先々無事なれば、御安堵可被下候。」
10月8日
ランファーレー・ニュージーランド総督、首長以下全員一致の要請で、クック諸島を正式併合。
10月9日
夜、政友会仮創立委員長渡辺国武、記者懇談で政友会脱会宣言。第4次伊藤内閣に蔵相として入閣を希望するが、井上起用を決めたと報じられたたため。
10日午後、脱会宣言取消し(渡辺国武の「心機一転」事件)。渡辺が宮中に働きかけ、この午前、岩倉具定侍従職幹事が渡辺に、田中光顕宮相・岩倉が伊藤・井上に、天皇の憂慮を伝える。嫌気のさした井上は蔵相就任を辞退し、16日大阪へ去る。渡辺は蔵相に就任するが、政友会総務委員から外され、政友会からは絶縁状「渡辺事件に関する顛末書」を公表される。
10月10日
川俣事件、前橋地裁で公判。65人の大弁護団(今村力三郎・花井卓蔵・卜部喜太郎ほか、鳩山和夫・角田真平などの貴族院議員)。
12月22日、判決。有罪29、無罪22。検事側・被告側双方が控訴。
10月10日
~12日 船上の漱石
「十月十日(水)、気温高くなる。「赤き日の海に落込む暑かな」と詠む。 Mrs.Nott (ノット夫人)から英訳『聖書』を貰う。「熱苦シクテ名状スべカラズ」(「日記」)上等船客主催の舞踏会あり。月夜。
十月十一日(木)、朝、芳賀矢一と共に、宣教師の英語説教を聞く。気温少し下る。
十月十二日(金)、明け方涼しくなる。午後八時頃、右に Sinai (シナイ)半島の山を見る。キリスト教宣教師と議論してやりこめる。(芳賀矢一、大いに愉快に思う)午後九時、月出る。冷水浴する。」(荒正人、前掲書)
10月12日 この日付けの芳賀矢一『留学日誌』。
「夏目氏耶蘇宣教師と語り大に其鼻を挫く、愉快なり」
つづく
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