2024年11月4日月曜日

大杉栄とその時代年表(304) 1900(明治33)年10月22日~24日 孫文・鄭士良らの恵州蜂起失敗 日本人の支援者山田良政戦死 パリの漱石「巴里ノ繁華卜堕落ハ驚クベキモノナリ」 「男女共色白ク、服装モ立派ニテ、(略) 女抔ハクダラヌ下女ノ如キ者デモ、中々別嬪有之候」

 

山田良政

大杉栄とその時代年表(303) 1900(明治33)年10月17日~21日 第4次伊藤内閣成立 漱石、ナポリ(漱石にとって初めてのヨーロッパ)~ジェノヴァ~陸路パリ(ベル・エポックのパリ) パリ万博を3回見学 より続く

1900(明治33)年

10月22日

孫文、鄭士良らの恵州蜂起失敗。日本人の支援者山田良政、戦死

この年9月、孫文は山田良政の斡旋により台湾総督児玉源太郎・民政局長後藤新平と面会、武器提供の約束を取り付けた。この約束は、恵州起義軍(恵州蜂起軍)が、海岸沿いに北上して海豊や陸豊まで来たところで、児玉総督が台湾から2個師団分の武器供与と日本軍人の起義軍へ参加する、というもの。これを受けて孫文は内地にいる鄭士良に対し恵州三洲田での武装蜂起を指示し、10月6日に蜂起した。

一方、日本国内では第4次伊藤内閣が成立し、伊藤は、日本が反清勢力を支援することは、列強の中の政治・軍事バランスを乱すとの懸念から、児玉に対し孫文率いる革命軍への武器提供を禁ずる命令を下した。孫文は犬養毅に伊藤の説得を依頼したが決定は覆らず、宮崎滔天を通じた中村弥六からの武器調達も失敗に終わった。 

山田良政は恵州蜂起の時点で、台湾から香港に入り広東省の陸豊や海豊で挙兵をするために活動していたが、台湾で指揮を執っていた孫文から日本からの武器提供が困難になったことの状況説明と蜂起軍の処置を一任された。良政が鄭の陣営に到着したのは蜂起後の10月20日で、既に兵站が尽きており、鄭は蜂起軍の解散を決定した。 良政は鄭の率いる数百人の兵と共に香港へと撤退をはじめたが、10月22日に清軍と遭遇し消息を絶った。戦死したとも、清側に捕らえられ殺害されたとも伝えられる。良政は辛亥革命に関わった日本人協力者の中で最初の犠牲者となった。

山田良政;

1868年(慶応4年、明治元年)1月1目、父津軽藩士山田浩蔵と母きせの長男として弘前域下の在府町に生まれる。山田家は陸羯南の実家の真向かいにあり、良政は少年時代から羯南の影響を受けていた。朝陽小学校を終え、東奥義塾(叔父菊池九郎が明治5年に設立)を経て、地元の青森師範学校へ進学。2年の時に寮内での賄経費を巡る騒動(賄征伐)の騒動の首謀者となった友人をかばう形で退学処分を受けた。その後、陸羯南を頼って上京し、羯南の勧めで中国語の勉強を始め、羯南の勧めで水産伝習所(後の東京海洋大学)に第一期生として進学。

1990年1月、水産伝習所卒業後、北海道昆布会社に入社し上海支店に勤務。その傍ら、荒尾精らの設立した中国語や中国の商事慣行を学ぶ日清貿易研究所にも通い、中国語や中国のビジネス関係等について学び始める。

1894年(明治27年)の日清戦争に際し、職を辞して陸軍の通訳官として従軍、遼東半島や台湾へ赴く。

1895年(明治28年)、台湾総督府の海軍少佐滝川具和と知り合い、1897年(明治30年)、滝川が清の首都北京にある日本大使館付の駐在武官に就任したことに伴って北京に渡り、海軍省嘱託という身分で、滝川の依頼による調査・諜報活動に従事。その際に「田山良介」という偽名を名乗る。

1898年(明治31年)の戊戌の政変が失敗に終わった後、滝川や平山周と共に政変の中心人物となった梁啓超や王照を救出して日本海軍の砲艦大島に匿い、日本への亡命を手助けした。

1899年(明治32年)、日本へ帰国し東京府神田区三崎町に在住したが、7月。そこへ平山周の斡旋によって中国人革命家孫文が訪れた。良政は孫文と意気投合し革命運動の援助を約束した。

1900年(明治33年)、東亜同文会の井手三郎の依頼により、南京同文書院の教授兼幹事として再び清に渡り、職務の傍ら孫文ら革命派や、平山や内田良平といった協力者たちと密に連絡を取り合い、武装蜂起に向けた準備を進めた。両江総督劉坤一の暗殺計画を巡る対立により孫文から離反していく日本人協力者が現れる中で、良政は南京同文書院の職を辞して孫文の活動を支援し続けた。

10月22日

外務総務長官に内田康哉。

10月22日

~23日 パリにて、漱石。


「十月二十二日(月)、午前十時頃、日本公使館に安達峰一郎を訪ねたが、不在である。個人宅にもいない。浅井忠も不在である。 Nordier 夫人の素人下宿に帰る。昼、 Boulevard Victor (ヴィクトル街)で、一行会食する。渡辺董之介を訪ねる。午後二時頃、渡辺董之助の案内で Tour Eiffel (エッフェル塔)に登り、パリの繁華街を見下ろす。菊の花が満開である。その後で、万国博覧会の「教育館」を観る。 Plate-forme Mobile (動く歩道)に乗り(推定)、 Ville de Paris (パリ館)の前で降り、日本茶店前を通る。渡辺董之助の個人宅で夕食を馳走になり、案内を受けて地下鉄に乗り、 Grands Boulevards (グラン・ブルヴァール)に遊ぶ。(推定)コーヒー店に寄る。地下鉄で、 Place de I'Etoile (エトワール広場)を経て、夜中一時過ぎ、 Trocadero (トロカテロ)の Nordier 夫人の下宿に帰る。(推定)帰ってから鏡宛手紙を書く。「欧洲ニ來テ金がナケレバ一日モ居ル気ニハナラズ候穢クテモ日本が氣楽デ宜敷候」と洩らす。(Paris 投函)

十月二十三日(火)、樋口勘次郎来り、 Trocadero 附近で、昼食を共にする。芳賀矢一・藤代禎輔(素人)は谷本富が訪ねて来るというので帰る。(夏日漱石「日記」には、「岡本氏」となっている)谷本富来て、一行と共に、ヴィクトル街の日本料理店で、そば・天麩羅・日本飯・味噌汁を食べる。九時頃、日本料理店を出る。一行を案内して、 Casino de Paris や Taverne Olympia に遊ぶ。 Music House に行き、次いで Underground Hall に行く。午前三時に帰る。「巴里ノ繁華卜堕落ハ驚クベキモノナリ」(「日記」)」(荒正人、前掲書)

10月23日 この日付け漱石の日記と妻、鏡子宛て手紙。


「十月二十三日(火)・・・・・岡本氏来ル。日本食ノ晩餐ヲ喫ス。夫ヨリ Music House ニ至り、又 Underground Hall ニ至ル。帰宅ス。午前三時帰宅ス。巴里ノ繁華卜堕落ハ驚クベキモノナリ(日記)


「・・・・・「パリス」ニ来テ見レパ其繁華ナルヿ(コト)、是亦到底筆紙ノ及ブ新ニ無之、就中道路家屋等ノ宏大ナルヿ、馬車電気鉄道地下鉄道等ノ網ノ如クナル有様、寔(マコト)ニ世界ノ大都ニ御座候。昨日ハ停車場ニ荷物受取ノ為メ参り、夫ヨリアル素人屋(宿屋ハ高クテ居ラレズ)ノ三階ヲ借り、一週間滞在ノ積ニ候。食事ハ三度三度外へ出テ認メ候。夫デモ一日ノ費用七八円ヲ下ラズト存候。今日ハ博覧会ヲ見物致候ガ、大仕掛ニテ何ガ何ヤラ一向方角サへ分り兼候。名高キ「エフエル」塔ノ上ニ登リテ四方ヲ見渡シ申條。是ハ三百メートルノ高サニテ、人間ヲ箱ニ入レテ鋼条ニテツルシ上ゲツルシ下ス仕掛ニ候。博覧会ハ十日や十五日見テモ、大勢ヲ知ルガ積ノ山カト存候。只今午後十二時迄「パリス」ノグロン ウルヴハート申ス繁華ナ処ヲ散歩シテ、地下鉄逆ニテ帰宅致候。斯様ニシルシ候ト、何モカモ自分デヤツタ様ナレドモ、「パリス」ニテハ文部ノ書記官渡辺董之助卜申ス人ノ世話デ歩行キ廻り候。・・・・・言語ノ通ゼヌ、容子ノ分ラヌ所程不便ナモノハ無之、欧洲上陸以来自動約ニ何モナシタルヿナク、悉皆(シツカイ)他動的ニ候。悪者ガ田舎モノヲ瞞(ダマ)スノモ最卜存候。意外ノ失策ナク「パリス」迄参候が不思議ニ候。此位ナラ謡ヲヤラズニ仏語ヲ勉強スレパ善カツタト今更不覚ヲ後悔致候。是ヨリハ一人ニテ英京ニ渡ル事故ドウナルカ妙ナモノニ候。当地ニ来テ観レバ、男女共色白ク、服装モ立派ニテ、日本人ハ成程黄色ニ観エ候。女抔ハクダラヌ下女ノ如キ者デモ、中々別嬪有之候。小生如キアパタ面ハ一人モ無之候。」(鏡子宛て手紙)

10月24日

英代理公使、英独協商に加入勧告。

10月24日

~27日 パリの漱石


「十月二十四日(水)、朝、谷本富来る。芳賀矢一・藤代禎輔(素人)・戸塚機智らは外出する。午後十二時三十分、安達峰一郎の家に赴き、昼食を馳走される。六時頃帰る。一行、 Nordier 夫人と共に夕食をする。夜、建部氏来訪。

十月二十五日(木)、一行と共に渡辺董之助を訪ねる。正木直彦、既にイギリスから帰っている。藤代禎輔(素人)・芳賀矢一.稲垣乙丙と共に、万国博覧会の美術館を見るために、 Plate-forme Mobile に乗ったところ、芳賀矢一だけ先に降りて、一行からはぐれてしまう。美術館、余りに大きく見尽せぬ。日本の出品作よくないと思う。

十月二十六日(金)、朝、浅井忠を訪ねた後、芳賀矢一・藤代禎輔輔(素人)と共に万国博覧会に行こうとして、出掛けたが、午前十時四十分頃から雨が降ってきたので、 Place de la Concord 付近で昼食をし、雨の中を帰る。午後二時二十分、雨晴れる。樋口勘次郎来る。(午後来たことは分るが、時間は分らぬ。なお、芳賀矢一は渡辺董之助を訪ねて、夕食を共にしている)鏡に手紙を出す。

十月二十七日(土)、晴、芳賀矢一・藤代禎輔(素人)と共に、万国博覧会に赴き、「工芸館」、「機械館」を観て、午後四時頃帰る。日本の陶器と西陣織は最も異彩を放つ。(明治四十三年の「断片」(小宮豊隆校訂)に「以太利カラ佛蘭西ニ行ツタ時ハ器械的ニ運搬セラレタルカノ観アリ。今考へテモ物足ラヌ心地ス」と述べる。)渡辺董之助宅で夕食を馳走される。」(荒正人、前掲書)

つづく


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