2024年11月7日木曜日

大杉栄とその時代年表(307) 1900(明治33)年10月29日~31日 漱石、ボーア戦争に従軍した義勇兵の帰還行進に遭遇 「眼の疲れるほど人間のたくさんいるなかに、云うべからざる孤独を感じた」(『永日小品』) 「西洋にては金が気がヒケル程入候。留学費でどうしてやるかゞ問題に候」(妻への手紙)

 

義勇兵の行列をみるオックスフォード街の人々

大杉栄とその時代年表(306) 1900(明治33)年10月28日 「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。(中略)  英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。(中略)  帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼(けん)狂人のよしなり。(略)たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集(ようきょしゅう)」を出し、又「鶉籠(うずらかご)」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するのは至当なるを信ず。」(『文学論』序) より続く

1900(明治33)年

10月29日

加藤外相、清国の門戸開放・領土保全に関する英独協定に加入することを英代理公使に通告。

10月29日

鉄幹、山口の瀧野の実家・林家を訪ね、瀧野と長子「萃」親子の与謝野家への入籍の話をする。林家は約束の鉄幹の婿入りを主張(「明星」の出版費、生活費もその条件のもとに仕送りした)、知らされなかった浅田信子との関係も問いただす。物別れとなり、逆に鉄幹への離縁を申し渡す。

10月29日

この日付け漱石の日記。ボーア戦争に従軍した義勇兵の帰還行進に遭遇する。


「十月二十九日(月)岡田氏ノ用事ノ為め倫敦市中ニ歩行ス。方角モ何モ分ラズ。且南亜ヨリ帰ル義勇兵歓迎ノ為メ非常ノ雑沓ニテ困却セリ。夜、美野(ママ)部氏卜市中雑沓ノ中ヲ散歩ス」


パレードには、植民地戦争に反対する人たちのデモや大量のフーリガンが加わり、至る所で衝突や喧嘩、殴り合い、暴動が発生。大勢の警察官や軍隊が規制のために出動したにもかかわらず、死者2名、負傷者13人、迷子数百人が出る未曽有の大騒動になった。この戦争の是非をめぐって大きく世論が分裂、大論争が巻き起こっていた。


漱石は『永日小品』「印象」(1909年)で、こう書いている。


「・・・立ち止まって考えていると、後うしろから背の高い人が追おい被かぶさるように、肩のあたりを押した。避よけようとする右にも背の高い人がいた。左にもいた。肩を押した後の人は、そのまた後の人から肩を押されている。そうしてみんな黙っている。そうして自然のうちに前へ動いて行く。  自分はこの時始めて、人の海に溺おぼれた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。右を向いても痞つかえている。左を見ても塞ふさがっている。後をふり返ってもいっぱいである。それで静かに前の方へ動いて行く。ただ一筋の運命よりほかに、自分を支配するものがないかのごとく、幾万の黒い頭が申し合せたように歩調を揃そろえて一歩ずつ前へ進んで行く。・・・そうして眼の疲れるほど人間のたくさんいるなかに、云うべからざる孤独を感じた。  

10月30日

「ホトトギス第四巻第一号のはじめに」

子規は創刊以降のことを振り返り、東京で「二年程やつて」きた成果について、次のように述べる。


「ホトトギスが発行せられていよいよ俳句の進歩の上に一段の速力を加へたといふ事も多くの人が認められた事と信ずる。其外にホトトギスが力を竭(つく)した者は小品文である。それには課題を出して募集したやうな小品文もあるが、最も骨を折ったのは写実的の小品文であった。」


4年目に入っていた雑誌の最近の重点は「写実的の小品文」にあると子規は宣言している。


「子規が、来客謝絶に加え、年末の蕪村忌と「山会」以外の子規庵での会合を廃し、句作の添削も書簡への返書もやめて静養に専心すると宣言したのは、明治三十三年十月三十日発行「ホトトギス」第四巻一号の「消息」欄である。

しかし、人が身近にいないと不満であり不安にもなる子規は、すぐにさびしさに耐えかね、さまざまな口実を設けては門人たちを呼び寄せた。」(関川夏央、前掲書)

10月30日

漱石、日本公使館に赴く


「十月三十日(火)、日本公使館(14 Grosvenor Garden,S.W.)に赴く。一等書記官松井慶四郎に面会し、Mrs. Nott (ノット夫人)からの手紙や電報を受け取る。外出し、道に迷い、二十遍位道を聞いて宿所にやっと戻る。午前一時、鏡宛手紙に、 Paris から London に着いたことを報告、「西洋にては金が氣ガヒケル程入候留學費でどうしてやるかゞ問題に候」と嘆く。朝、十時頃に起床の予定である。」(荒正人、前掲書)


この日付けの漱石の妻、鏡子宛ての手紙。


倫敦も今日出で見たれども見当がつかず、二十返(ぺん)位道を聞て漸く寓居に還り候。未だ公使館へは参らず、留学地も其内定めて落付つもりに候。

「西洋にては金が気がヒケル程入候。留学費でどうしてやるかゞ問題に候。町抔へ出れば、普通の人間は皆日本の勅任官位な身ナリをして歩行致居候。洋行生が洒落るのは尤に候。是が当地にては普通の事に候。

「小生只今の宿所は、日本人の下宿する所にて 76 Gower Street, London に候。是は旅屋より遥かに安直なれども、一日に部屋食料等にて六円許(ばかり)を要し候。到底留学費を丸で費(つかつ)ても足らぬ故、早くきり上る積に候」

10月31日

漱石、ロンドン見物


「十月三十一日(水)、 Towe Bridge (タワー橋)、 London (ロンドン橋)、 The Tower of London (ロンドン塔)を見物。夜、美濃部俊吉と共に Haymarket (へーマーケット座、一八二一年開場)で R.B. Sheridan (シェリダン 1751-1816)の ""The School for Scandal"" (『悪口学校』1777)を観る。」(荒正人、前掲書)


つづく

0 件のコメント:

コメントを投稿