2024年11月28日木曜日

大杉栄とその時代年表(328) 1901(明治34)年4月1日~2日 「一年半、諸君は短促なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや。」(中江兆民『一年有半』)

 

中江兆民

1901(明治34)年

4月

「「文壇照魔鏡」読みて 江湖の諸子に訴ふ」(新声)。鉄幹弁護

4月

同日付け『労働世界』第75号英文欄に高野房太郎が北京に滞在中との短信

4月

大阪市、日本初の市史編纂事業を開始。編纂主任は幸田成友。

4月

谷崎潤一郎(15)、府立第一中学校入学(現 日比谷高校)

4月

山県有朋、伊藤博文首相に「東洋同盟論」を送り、日英独3国同盟推進を建言。

4月

中江兆民、この月、紀州和歌の浦に数日遊んだが、ノドの狭窄がびどくなり呼吸困難を覚え、痛みも治まらなかった。兆民はガンではないかとの疑いを抱き、直ちに大阪へ帰り、耳鼻咽喉専門の堀内医師の診断を請うたところ、堀内医師は詳細に検視して、切開が必要と告げた。兆民はガンと察知し、一旦は切開手術を承諾した。しかしその報を聞いた妻弥が直ちに大阪に来て、ガン切開の危険を説き、維持策を取るよう説得し、切開手術は思い止まった。

兆民、堀内医師に死期の告知を請う。


「余一日堀内を問ひ、予め諱むこと無く明言し呉れんことを請ひ、因て是より愈々臨終に至る迄猶は幾何日月有る可きを問ふ、即ち此間に為す可き事と又楽む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて今後の心得を為さんと思へり、堀内医は極めて無害の長者なり、沈思二三分にして極めて言ひ悪くそふに曰く、一年半、善く養生すれば二年を保す可しと、余曰く余は高々五六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余の為めには寿命の豊年なりと、」


「一年半、諸君は短促(短期間)なりと曰(い)はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時(せいじ)限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや。」(中江兆民『一年有半』)


ここから、随筆集『一年有半』執筆に繋がってくる。

兆民は、執筆の楽しみを『一年有半』の中で、


「余の目下の楽(たのしみ)は、新聞を読む事と、一年有半を記する事と、喫食する事との三なり。」


と言う。

4月

荒畑寒村(13)、市立吉田小学校高等科卒業し、山下町の貿易商チャールズ・セールス商会オフィス・ボーイに就職。月給5円。夜間、横浜英語学校に通う。後、リチャード・ホーシェー経営の個人商会に移る。

4月

永井荷風(22)、 「日出国(やまと)新聞」主筆に転じた福地桜痴とともに入社、雑報記者となる。

4月

鈴木庫三(8)、田水山尋常小学校入学。成績良好。この前あたりから養家の経済状況悪化。後、更に貧しくなる。養家の農業を手伝いながら、実家から月謝・書籍代の援助を受けて、高等小学校に通う。1907年、14歳、経済状態から、幼年学校進学を諦める。この年設立された帝国模範中学会の通信会員となり勉強。

4月

米、ガソリンで走る最初の量産車、オールズモービル登場。生産量は当初週に10台強。

4月

ベルギー、普通選挙権を求めるゼネスト。

4月

エドゥアルト・トール、タイミル半島突端チェリュスキン岬に上陸。41日間調査。9月11日(露暦)ベンネト島を見つけるが、氷のために接岸できず、カチョルヌ島で2度目の越冬。

4月1日

私立女子美術学校、東京本郷に開校。女子美術大学の前身。

4月1日

京都博覧協会主催の第1回全国製作品博覧会開催(京都御苑)。

4月1日

ナイジェリア、奴隷廃止。

4月1日

フィリピン、アメリカに忠誠を誓う。

4月1日

4月1日 ロンドンの漱石


「四月一日(月)、 April Fools' Day (四月馬鹿の日 All Fools' Day 万愚節)。朝食に行くと、長尾半平(在パリ)から為替来る。八十ポンドのうち、七十ポンドをパリに送れというので正金銀行へ行き手続きする。結局十ポンド(二百シリング)借りたことになる。 Henry Fardel (ヘンリー・ファーデル)、正岡子規、直矩から手紙来る。ドイツ人の散髪屋で日本のこと話し合う。」(荒正人、前掲書)

*(Fardel は五高の教師)


4月1日

文部省、第三高等学校の法学部・工学部を廃止。鹿児島に第七高等学校造士館を設立。

9月11日、授業開始。

4月2日

4月2日~4日 ロンドンの漱石


「四月二日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。帰途、 Charing Cross (チャリング・クロス)の古本屋で二、三冊買う。馬車の上で日本に行ったことがあるというイギリス人から話しかけられる。入浴する。鏡(推定)から小包届く。 Miss Milde, 山田某に手紙を出す。

四月三日(水)、 Glasgow University (グラスゴー大学)から examiner に任命すると公式通知来る。

四月四日(木)、 Easter Holiday のため下宿の主人夫妻は田舎の妻の実家に行く。 Miss Sparrow (スパロー嬢)一人残る。彼女は娯楽を好まず、働くことに満足しているようで、その理由を尋ねると、神を信じるからだと答える。田中孝太郎に妻からの手紙来る。田中孝太郎の旧師(横浜商業学校(推定))が留守宅に訪ねて、父親と対談中、御子息は、何年位外国にいるかと聞くので、二、三年位と答えると、旧師は、せっかく行ったのだから、五、六年は滞在していたほうがよいと云う。妻はそれを陰で聞いて、大層悲しく思ったとのこと。これを聞いて、女性の情と昔風の先生の様子は、小説のようだと思う。」(荒正人、前掲書)


つづく


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